鮎川信夫論

2017年2月26日 (日)

2―2 鮎川信夫という方法:〈内面〉という倫理(4)

 鮎川信夫がポール・ヴァレリーとともに、あるいはそれ以上に高く評価していたのが周知のようにT・S・エリオットをはじめとする英米文学系の詩人たちである。それは鮎川が早稲田大学英米文学科の出身だということもあり、原語で親近しうる唯一の詩人たちだったせいもあろうし、「新領土」や「文芸汎論」などに結集したモダニズムの詩人たちがせっせと紹介していて予備知識もあったせいもあろうが、なによりも当時の軍国主義の風潮が蔓延した荒廃した世相を第一次世界大戦後のイギリスの詩人たちの時代批判と重ねあわせてみると時代診断がしやすかったように思えたからだろう。
 鮎川が戦争直前にかかわった同人誌に中桐雅夫らとの「LUNA」があるが、もうひとつ同時進行的に始めたのが第一次「荒地」である。これは「早稲田第一高等学院の文学仲間であった竹内幹郎、山川俶夫、藤川清らが首謀者であり、同級の十数人の参加が予定されていた」(「詩的青春が遺したもの II私の誕生」、『鮎川信夫全集VII 自伝、随筆』二〇八頁)というものであって、鮎川はすでにその年(一九三八年)の三月から「新領土」にも入っていたから、「作品を発表する場に事欠かなかったので、新しく同人誌を始めることは、よけいな責任を押しつけられるだけのような気がして、はじめのうちはそれほど乗気になれなかった」(同前、二〇九頁)と正直に書いている。結局、自然のなりゆきで参加することになっていくのだが、やはり発行人を引き受けさせられてしまう。しかしこの同人誌につけられようとした最初の誌名は「廿世紀」というモダニズムふうのものだった。メンバー構成上「どの顔をみてもモダニズムとは縁遠く」感じていた鮎川は、たまたま遊びにきた竹内幹郎と相談した結果、最初の会合で名前が出たが無視された「荒地」はどうだろうということになって、「要は雑誌が出さえすればいいので、誌名などにそれほど拘わる者はいなかった」(同前、二一〇頁)ので勝手に変更した、というものである。しかもその誌名の提案者は鮎川ではなく、国文科の同人が提案したものであり、「言われてみると、『荒地』だったら象徴的な誌名であるし、どうにでも解釈できるうえ、不毛に終るかもしれない私たちの文学的前途を暗示していて恰好のものであるように思えてきた」(同前)といった程度の認識であった。そして不毛に終わったとまでは言わないが、この第一次「荒地」は戦争の影響もあり二年間で七冊出して終わった。
 こうしたいきさつからわかることは、戦前の鮎川が「荒地」という誌名を思いつくほどにはこの名前にこだわったわけではないということであり、もちろん誌名にちなんで巻頭の扉にでもエリオットの『荒地』から毎号、何行かずつでも掲載していけば、「自ら同人誌としての特色が出てくるだろう」(同前)ぐらいにしか考えていなかったことである。もっとも別のところでは、この誌名が決まったとき、《私はただちにエリオットのThe Waste Landを連想し、直観的にそれを私たちの精神的風土と結びつけようとした》(「T・S・エリオット」、『鮎川信夫全集IV 評論III』三三〇頁)とも書いているから、鮎川におけるエリオットの位置はすでにある程度は確立していたとみるべきだろう。戦後、むかしの仲間とあらためて同人誌を起こすときにこの誌名が再登場するにあたっては、その間の各自の戦争体験からくる認識の深化が、この誌名に大きな意味あいをもたせようとしたことは間違いない。そこには鮎川を中心としてエリオットとその詩集『荒地』への関心が戦後いっそう強まったことを示していよう。
 鮎川信夫は「現代詩との出合い」という文章(一九六八年刊行の『わが愛する詩』に発表、執筆時は不明、『鮎川信夫全集II 評論I』に収録)のなかでこんなことを書いている。

《エリオットは、およそ詩人が与えうる最大の影響ともいうべきものを、私に与えた詩人である。特にその詩が好きで熱中したとか、彼の思想に深く共鳴したとか、というのではない。……ただ、近代文明全体にたいする強烈なヴィジョンを、そのネガティヴなイメジを通して受けとったのであった。/それは、知的な認識とは言えない。しかし、感性的なものであるだけに、深く心の土壌にしみ込んでしまったように思われる。詩が一種の(感性的な)認識の具として、近代文明全体に対抗してゆけるという、漠然たる信念を抱くに至ったのは、エリオットの詩を読んだことからである。》(『鮎川信夫全集II 評論I』三四五頁)

 ここには鮎川におけるT・S・エリオットの与えた影響の大きさとその意味が率直に述べられている。戦後直後の荒廃した日本のなかでエリオットの『荒地』の描きだす荒廃のイメージがピッタリと符合したというのはこれまでも言われてきた通りであるが、鮎川にとってはそれがさまざまな近代的で「感性的」なイメージをともなったものでもあったことが重要なのだった。
《われわれのやらなければならないことは、近代をのりこえてゆくこと――絶対的に近代的であること――であって、近代からあとずさりすることではない。自分にとって、近代的であるということは、世界と接触を失わないということでなければならないと思った。私にとって、詩はそのための唯一の窓だったのである。》(同前、三五一頁)と鮎川は同じ文章の末尾で書いている。鮎川信夫における詩の絶対性(特権的意識)はときにいささか過剰に思われるが、「絶対的に近代的であること」、近代を乗り越えていくためにはみずからは詩を「唯一の窓」として、近代性をけっして手放さないという姿勢が鮎川にとっては必須であったことがここでは告げられている。
 ところでアルチュール・ランボーの『地獄の季節』の一篇「別れ」のなかにあるキーワードで〈絶対的に近代(現代)的でなければならない〉という一行があるが、鮎川のことばははたしてこのランボーの詩句をふまえているのか、不明である。おそらく鮎川はマラルメと同様、ランボーもあまり読んでいなかったと思われるから、周辺の誰かから教えられた可能性は十分あるが、そうでなければ奇妙な符合ではある。もっともフランス語の "moderne" は「近代」とも「現代」とも解釈(翻訳)可能なので、ランボーは当時としての「現代的」のつもりでそう書いたはずである。鮎川はそういうことは知らずにランボーをまねて〈近代的〉と書いたのかもしれない。
 それでは鮎川にとって戦後のなかで〈近代〉とはどういう意味をもっていたのだろう。鮎川が中心になって担っていった〈戦後詩〉における近代性とは何だったのか。それを問うのがつぎの課題である。

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2017年2月19日 (日)

2―2 鮎川信夫という方法:〈内面〉という倫理(3)

 この〈書くことの絶対性〉というべき鮎川信夫の詩の規定性にたいしては、どうしてもフランス象徴主義詩人ステファヌ・マラルメを対比的に想起しないわけにはいかない。鮎川はマラルメをどう読んでいたのか。わたしには鮎川がマラルメについてきちんとした理解をしていたとは思えない。たとえば「現代詩とは何か」の「I 詩人の条件」で鮎川は書いている――

《僕は近代詩の過去から現れた一つの固定した概念、ポオやボードレールから、マラルメ、ヴァレリイに至る象徴主義の詩人によってつくられた詩の概念を、まず現代に生きるわれわれのために否定したいと考えている。……サンボリスムがわれわれの世代にまで及ぼした過大な影響が、われわれの現在を、未来を搾めることを懸念するからであり、またサンボリスム以降第一次大戦後のダダやシュルレアリスムによって暗示を受けている一般の詩に対する偏った考え方を除きたいと思うからである。》(『鮎川信夫全集II 評論I』五四頁)

 このあとにつづく文章で鮎川がポール・ヴァレリーを〈サンボリスムの事実上の完成者〉と呼んでその純粋詩の概念を批判していることからもうかがえるように、鮎川はサンボリスムについてある意味では過剰に評価し、ある意味ではまるで理解していないように思える。過剰に評価しているというのは、サンボリスムのエコールとしての運動をその後のダダ、シュールレアリスムにつながる系譜の源流としてとらえている点であり、日本ではそれが戦前のモダニズムとして現われたと見ていることである。〈芸術至上主義的なサンボリスム〉(同前)という鮎川のことばにあるように、サンボリスムの一面をしか鮎川は見ていない。そこだけに限定すれば、そして芸術至上主義を言語至上主義と置き換えて考えるならば、その後の二十世紀におけるあらゆる知的局面での言語論的転回のうえでサンボリスム的な言語至上主義が大きな影響を与えたことは否定できないから、そのかぎりにおいてダダやシュールレアリスムを経て現代の構造主義的言語理論まで系譜づけることは可能である。ロマン主義からの言語論的切断という意味でなら、サンボリスムの現代的影響力の大きさという評価自体は間違いではない。
 もうひとつのより大きな問題は、鮎川がヴァレリーを通じてしかマラルメを理解していないだろうということである。たしかにヴァレリーは戦前から戦後にかけて〈二十世紀最大の知性〉としてエリオットなどとともに大きな存在感を示していたのであって、鮎川がそのようにヴァレリーを見ていただろうことは時代的な必然として考えられる。しかし、ヴァレリーはそもそもマラルメ晩期の有力な弟子であるとはいえ、サンボリスムを代表する詩人ではなく、むしろその影響を受けた詩人のひとりであるにすぎないし、マラルメの代弁者でもない。〈純粋詩〉といったヴァレリーの理念はサンボリスムや、ましてマラルメが考えていた詩の概念からは相当に逸脱したものである。それに戦後直後の鮎川にとって、翻訳がほとんど出ていなかったマラルメの作品や散文を読むことは、不可能だったはずである。フランス語としても超破格なマラルメの思考を、フランス語を読めない鮎川が読むことはありえなかったし、おそらく理解することもむずかしかっただろう。だからマラルメについての言及はあっても、具体的な論評がなにひとつなされていないのは当然なのである。サンボリスムの事後のスポークスマンにすぎないヴァレリーをとおしてマラルメを見ているかぎり、マラルメの本質的な理解などありえない。
 鮎川は「ヴァレリーについて」という一九四七年に書かれた文章で〈純粋詩〉を「あまりにも芸術的な一限界概念」(『鮎川信夫全集IV 評論III』二九六頁)と規定したうえで、こんなことを書いている。

《われわれは生そのものに固執せざるを得ず、純粋詩の観念は、われわれにとってあまりに芸術的に過ぎるのである。われわれの自己証明の場は、_¨観念の有償性¨_のうちにあるので、「何のために」われわれが作品を書くのか、という問いに対する答えを不断に求めてゆかなければならないところにある。/ヴァレリーの流動的思想が_¨詩の無償性¨_にかかわるところで、われわれは逆に有償性を求めねばならぬのであり、詩作という特権的状態を利用して、生の方向を、生の中心を、_¨言葉の全的な意味¨_のうちに把握しようとしなければならないのである。/従ってわれわれは詩に於いて言葉の意味を放棄することは出来ないし、伝達の戦略についても無関心であることは出来ない。》(同前、二九七頁、傍点は筆者)

 ここではいくつもの間違った理解を前提にしているにせよ、当時の鮎川の意図する詩については明確な方向性が与えられている。〈純粋詩〉の無償性に対置された〈観念(詩)の有償性〉という概念に〈書くことの絶対性〉を結びつけることで、かろうじてこの先験性を救出しているとも言えるだろう。しかし、この〈観念(詩)の有償性〉とはそもそも何だろうか。これ自体もじつはかなりあやしい観念にすぎないのではないか。「言葉の全的な意味」がどうして有償性と結びつくのかいっこうに判然としない。意味を重視している姿勢はわかるが、鮎川信夫の詩論にはこうした曖昧さがしばしばつきまとう。さきに引用した「現代詩とは何か」のすこしあとのところで鮎川は書いている。――

《素朴に言ってわれわれの日常生活は、詩よりも詩でないもののうちに多く生きているように見える。しかし、われわれがわれわれ自身を見出すのは、あくまで言葉の上に於てである。「詩という概念が成立するのは、詩と詩でないものとの境界に於てである。詩と詩でないものとの間に生きている人間にとって、彼を詩に駆り立てるものはむしろ詩でないものである」という意見は、われわれが詩を書く立場をよく示している。われわれを詩に駆り立てるものは、詩そのものの空虚な美的価値の世界にあるのではなく、詩でないもの、つまりわれわれが生きている現実の生活の中にあるのだ。》(『鮎川信夫全集II 評論I』五五頁)

 文中の引用は黒田三郎の「詩の難解さについて」からのものであり、この時期の鮎川は黒田のこうした日常生活べったりの通俗的視点に妥協した詩的理解を共有しており、のちの「Xへの献辞」につながる「荒地」グループとしての共同性のうえで詩の書法を模索していた。いわば黒田三郎に引きずられるかたちで非詩的な生活次元を詩的言語構築の絶対性(特権性)と結びつけることは、あまりにも飛躍がありすぎるのだが、鮎川は、詩と詩でないものとの断絶のなかでも「しかし、われわれがわれわれ自身を見出すのは、あくまで言葉の上に於てである」として、この断絶を詩を書くことの次元においてなんとか逆転的に回収するのである。そこには黒田にはない〈書くことの絶対性〉という、より上位の観念が存在しているからであろうか。黒田なら、たとえばこんなことを書いてしまうのだ。――《むしろ、糊口のために悪戦苦闘せよ。かくしてのみ、詩人の胸から新しい詩が育つであろう。糊口の煩わしさを悲鳴をあげ現実の暴状に背をむけて、溺れる者が藁をつかむように、伝統の影に逃げ込もうとすることの怯懦さを、敢えて指摘しなければならぬ。詩人がそこに卑屈にも逃げ込む安価なる花園として、詩を考えることは、我々の誇りを傷けるものである。》(「詩人の運命」『現代詩論大系1』四七頁)
 鮎川には、いかなる時代、いかなる局面においても、みずからの詩人としての矜持を保持しようとする性向が強かったから、黒田のようにずぶずぶの日常性への頽落には耐えがたいものがあっただろう。誤解していたとはいえ、ヴァレリーのような当時のヨーロッパの代表的知性の思想を知ることで、詩を書くことが日常次元を超えた、ことばという独自の次元をもつものであって、その上でしか現実や非現実は対象化しえないということを誰よりもよくわかっていたのである。書くことが内面化された経験を対象化することであって、そこに書くことの最低限の倫理があることを知っていたかぎりにおいて、鮎川の詩は現実をなぞろうとするものではなく、未知の世界をことばによって探り出していく試みであったわけであるから、鮎川の詩がその詩論を裏切ることがあったとしても、なんら驚くにはあたらない。(大岡信は「戦後詩人論――鮎川信夫ノート」のなかで《鮎川氏の詩はその詩論とは全く別個に論じうるし、またそうあるべきだ……何故なら鮎川氏の詩論が今みてきたように、少くともぼくには矛盾を多く含んでいると考えられる以上、この詩論を詩に関連させて考察することはかえって逆効果になると思われるからだ。》[『鮎川信夫全集VI 時評II』月報]と指摘しており、この観点は重要であるが、鮎川の詩が複雑な内面をかかえていたことを考えれば、詩論そのものが矛盾をかかえていたことは否定できない。)

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 ところで、〈書くことの絶対性〉とは言っても、鮎川の認識はしかしながらみずからの生の根源から発していたようには見えないところがある。あくまで詩という観念が先験的に存在し、それをいわば推進力として詩の世界へ打って出たといったところが真相に近いのではないか。鮎川の詩的出発がモダニズムであったことを想起すればよい。それでも鮎川において詩を書く主体はいつでも担保されている。その意味では、同じ絶対性をめざし、詩を書くことにみずからの実存をかけていたマラルメとは根本的に異なる場所に生きた詩人というしかない。

《純粋な著作のなかでは語り手としての詩人は消え失せて、語に主導権を渡さなければならない。……語と語はたがいの反映によって輝き出す。それが従来の抒情的息吹のなかに感じられた個人の息づかいや、文章をひきずる作者の熱意などにとってかわるのである。》(ステファヌ・マラルメ「詩の危機」、南條彰宏訳、世界文學大系43『マラルメ/ヴェルレエヌ/ランボオ』五二ページ)
《詩句とは幾つかの単語から作った呪文のような、国語のなかにそれまで存在しなかった新しい一つの語である。すでに存在する語は、それに焼きを入れ直して、意味を響きに近づけたり響きを意味に近づけたりするような人工的操作を加えても、やはり偶然性を含んでいるものだが、詩句はその偶然性を力強いひと息で否定する。》(同前、五三ページ)

 マラルメにおいては〈書くことの絶対性〉という以上に、詩人をつうじてことば(語)が主導権を握るべく、ことばの自律性が絶対的に作動するのであり、詩人はそのためにことばの力が発現する場所を提供するのである。いまふうに言えば、詩人はメディウムとなって初めて詩人となる。ロマン派の希求するような〈インスピレーション〉とは異なって、言語の生理に深く分け入ることによって初めて獲得される境地なのである。それはけっして容易なことではなく、骨身を削る長期にわたる忍耐と苦悩を必要とすることになる。親しい友人に宛てた初期マラルメの書簡はその努力の痕跡をよく伝えている。

《君に誓って言うが、ぼくには何時間もの探究に値しなかった語はひとつもないし、最初のアイデアをまとう最初の語が、さらには詩の一般的_¨効果¨_におのずから向かおうとする語は最後の語を準備することにもなる。/不協和音も装飾音もなく、崇拝すべきもので、心を解放する_¨産み出された効果¨_――それがぼくの求めているものです。》(一八六四年一月、アンリ・カザリス宛て、Ste+'phane Mallarme+': Correspondance 1962-1971, p. 103、傍点は原文イタリック)
《一枚の白紙の恐怖、それはあまりに長いこと夢みられた詩句を要求しているようだ。》
《ぼくは怖ろしい一年を過ごしたばかりだ。わが「思考」は思考され、純粋なひとつの「概念」に到達した。その結果、この長い苦悶のあいだにわが存在が苦しんだすべてのものは語りえないが。しかし幸いなことにぼくは完全に死に、わが「精神」が冒険することのできたもっとも不純な領域は「永遠」ということになる。わが「精神」、わが固有の「純粋さ」の習慣となったこの孤独、それを「時」の反映さえもはや暗くすることはできない。》
《君に教えておくが、ぼくはいまや非人称のものになり、もはや君のよく知るステファヌではない、――しかし霊的な「宇宙」は、ぼくであったものをとおして自分を見、自分を発展させる、ひとつの能力〔aptitude〕なのだ。》
《ぼくは、確信をもって語ることができるために「無」へのかなり長い下降をおこなった。そこには「美」しかなく、それは完璧な表現、「詩」しかもたない。》(一八六七年五月十四日、カザリス宛て、ibid., pp. 240-242)

 ことばと〈美〉の絶対の探求者であるマラルメと鮎川信夫を同列に置くわけにはいかない。マラルメには言語の哲学があるが、鮎川にはそこまでの透徹した思考の痕跡は見られないからだ。たとえばジョルジョ・アガンベンは『哲学とはなにか』のなかで、マラルメの「詩の危機」のなかの有名な一節――《わたしが花と言う。するとわたしの声がそのいかなる輪郭も追放してしまう忘却の外に、よく知られた萼以外のなにものかとして音楽的に立ちのぼるのが観念そのもの、あらゆる花束の不在である甘美な観念なのだ。》("Crise de vers", OEvres comple`tes, Bibliothe`que de la Ple+'iade, p. 368、拙訳) ――をとりあげ、「近代の詩人たちのうちで最もプラトン的な詩人」マラルメの「根拠ある詩的直観」(一一二ページ)を称賛している。
 とはいえマラルメと鮎川信夫は、詩を書くことを絶対化した詩人であるというかぎりにおいて、思いの深さと方向性はちがっても、詩を書くことをぎりぎりまで哲学的に深めるという挑戦を共有しうる可能性の地平はどこかで開かれたかもしれないのだが、残念ながら戦後直後の日本の知的状況において鮎川がその方向へみずからの思考を深めてゆく可能性はやはり皆無だったと言わざるをえない。

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2017年2月12日 (日)

2―2 鮎川信夫という方法:〈内面〉という倫理(2)

 戦時中の国家権力との熾烈な内面的闘争を経てきた鮎川信夫にとっては、なによりも〈書く〉ことはみずからの存在を自己証明していくうえでの必要不可欠な作業であった。ましてや鮎川ら「荒地」の詩人たちは戦後においても高等遊民的な生き方をしていたから、書くことがほとんどかれらにとって唯一のレゾン・デートルであったと言っても過言ではない。たとえば、一九四七年に出された「荒地」の創刊号で鮎川はこんなふうに書いている。

《現代に於て詩を書くことが如何に困難であるかについては多言を要しない。しかも我々が詩を書いているということ、――そこにはどうしても言葉に対するある信頼がなければならぬ。》(「暗い構図――『囚人』に関するノート」、『鮎川信夫全集II 評論I』一三頁)

 この同じ文章のなかで、鮎川は〈詩という特権的な認識手段〉(同前、二一頁)というようなことばを書きつけているし、この文章のすぐあとに発表された「詩人の出発」という文章でもこの問題を敷衍している。

《荒地の中に生きているということは、直に外的世界の影響によって、現代の病的徴候をそのままに受継ぎ、頽廃し、倦怠し、無批判的になることを意味しはしない。否、むしろ現代を荒地として意識することによって、却って批判的になり、厳格な客観的基準と宗教的詩的価値の絶対性の必要が痛感されるのである。詩作過程を指して特権的行為とし、其処に一つの意義を認めるのは、それが我々の精神にとって必要であるばかりではなく、さらに我々の経験に秩序を与え、我々の感情の訓練としても役立ち得るからである。》(同前、二六頁)

 詩を書くことへの信頼、詩を書くことのこの「宗教的」とまでいう「絶対性」の顕彰は、すでに明らかにしてきたとおり、戦前から戦中にかけての国家権力との闘いのなかでおのずから身につけてきた思想的抵抗の最後の砦だったにちがいない。これ以上退くに退けない実存の唯一の拠点としてあったのが、この詩を書くことの絶対性だった。いまの時代のように生きることの根拠が拡散し、生きるための方法ならいくらもあるような時代からみると、いささか大仰な感じを否めない鮎川のこの〈詩という特権的な認識手段〉という認識こそ、時代を超えてあらためてその内実を問うことがいまの問題ではないかと思う。すなわち詩とは何か、そこに特権的な可能性はほんとうにあるのか、という問題を普遍的に問い直すことが鮎川を真に継承する意味なのではないか、ということである。そんなもの、あるわけないじゃないか、という白けきった現在の詩人たちの姿勢こそも問われなおすべきであろう。

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2017年2月 5日 (日)

2─2 鮎川信夫という方法:〈内面〉という倫理(1)

 前節で鮎川信夫における内部(内面)と外部(社会)という分節のありかたをみたが、こうした単純な二元論が本来的に成り立つものかどうかはともかく、鮎川においてはそうした分節が信じられていたことは疑えない。それは戦前から戦中にかけての度しがたい軍国主義的国家主義体制と、擬似的なものとはいえヨーロッパ近代的知性をブッキッシュに習得し身につけつつあった若き知性とのあいだのいかんともしがたい断層をいやがうえにも認識しなければならなかった鮎川たちの世代にとっては、みずからを守っていくうえでの絶対条件だったかもしれない。
 実際、荒地同人の中桐雅夫から、中桐が神戸から上京した直後に、身近な詩人たちが官憲によって身柄を拘束されるという「神戸詩人事件」について鮎川は情報を得ている。それは一部に共産党にかかわりの深い詩人が編集に関与した「神戸詩人」という機関誌を発行していた神戸詩人クラブのメンバー十四名が、一九四〇年三月三日朝、特高によって一挙に検挙され二年近くにわたって拘禁された事件であり、その多くは転向書を余儀なく書かされ、その後の沈黙に追いやられた。中桐も神戸からの上京がちょっとでも遅れれば、このメンバーのひとりとして検挙されたかもしれないという、かなり危うい立場だった。その事件は、戦前、戦中においては共産主義、社会主義を問わず、非国家主義的と目された文学者や詩人はもちろん、知識人全般にたいして特高警察が圧倒的な〈外部〉として権力的な思想統制をおこなっていたという一例にすぎない。鮎川はこの事件について次のようにまとめている――《「神戸詩人事件」は、詩的次元にあった〈理念〉が、当局の弾圧にあい、いやおうなく日常性の次元につき落されればどうなるかを証しているという意味で、当時のモダニストがおかれていた状況の苛烈さを物語るきわめて象徴的な事件であったと言わなければならないだろう。》(「詩的青春が遺したもの――わが戦後詩」、『鮎川信夫全集VII 自伝、随筆』二七五頁)
 モダニズムの衣裳が、権力の目からみると、卑近な日常性の次元で解釈され、危険思想を隠しもっているものとされてしまうのである。テーオドル・W・アドルノが言うように、《新奇なものを礼拝し、モダニズムの理念を掲げるのは、なにひとつ新しいものをもたらさない現実に反逆するためである。》(『ミニマ・モラリア――傷ついた生活裡の省察』三七二ページ、一九七九年、法政大学出版局)のが当時のモダニズム詩人たちの実体だとすれば、その内容をみずから注解しようとしても、短絡的な解釈格子にあてはめて説明することにならざるをえないから、簡単に国家権力のフィルターにひっかけられてしまうのである。国家権力とは支配の目線でしかものごとを見ようとしないから、モダニストたちの政治感覚ではとうてい立ち向かうことができない。国家権力がこうした暴威をふるっていた時代、それを鮎川信夫がみずからの思想や立場にたいして〈外部〉として受けとめざるをえなかったとしても、やむをえないだろう。詩を書くこと、しかも当時はモダニスト詩人として活動をはじめていた鮎川にとって、こうした事件はけっしてひとごとではなかったはずだ。現に鮎川は「荒地」(第一次)の編集名義人であったため、警視庁から二回呼び出しを受けており、しかも当時は一〇名以上の集会は届け出る必要があったため淀橋署にたびたび出頭しているほどであった(同前、二七〇頁)から権力とはどういうものかをよく知っていたのである。つまり、《この頃の特高にとっては、いつも文筆家の〈用語〉が問題だったわけである。難しい理窟はどうでもよく、その人間が、どういう〈用語〉を使って物を考える人間であるかということだけに眼を光らせていた》(同前、二七二頁)。いつにおいても、権力に身をすり寄せている人間などは文学や詩、哲学などの内容的なことにはいっさい興味も理解力ももたず、ただただ権力にとって危険な有意性のあるものだけを取締りの対象にするような獰猛な〈外部〉にすぎない。このことをいやというほど知り抜いていたために戦後においてもこうした思考の二分法が鮎川にとっては自明の理だったのである。
 こうした鮎川的二分法からすれば、強圧的な〈外部〉にたいして自己の固有性を対抗的に強固なものにし、〈外部〉から守り抜くことはいわばみずからの自立性の基本であるにすぎなかった。それは〈外部〉がどう変化しようともみずからのうちでは不変の価値と意味をもつものでなければならなかった。それは〈外部〉にたいしてみずからの存在を主張しうる唯一の内的な根拠であり、それはいつかみずからの公明性を認めさせることのできる普遍的なものでなければならない。この価値と意味こそすでに、生きることの思想そのもの、あるいは思想の倫理でなければならなかった、鮎川にとっての世代的必然があったと言うべきであろう。
 ところで、鮎川信夫は一九三九年二月の「LE BAL」19号に書かれた「覚書」という文章で、当時のモダニズム詩における「方法乃至技術的追求」ばかりの方向性にたいして、詩の思想性、主題性の必要をいちはやく力説している。

《何が故に、詩には方法の進歩のみが大切で、思想性や主題の追求は不必要であり、物体の不可思議性を含んだオルドルの世界のみが重要であるか、などといふことを学んで詩の限界を益々狭めてゆくよりも、何が故に、純粋なる詩には不必要であるかも知れないところの思想性について考へたり、主題の追求をしなければならないか、といふことを、背後にある時代を意識して真剣に考察してみることの方が更に重大なことである。》(『鮎川信夫全集II 評論I』三六五頁)

 戦前の若書きでたどたどしくはあるが、そこに身をおいていたモダニズム詩からの脱却を意図して、十代末ですでに詩における思想性の必要を考えていたことがわかる。これは前述の「神戸詩人事件」に一年以上も先立つ時期に書かれたものであることにも注意しておいていい。だからこそ、「不安の貌」という同時期のこれにつづく文章で、当時の文学者の動向を見ながら戦後の戦争責任論に通ずるつぎのような批判をすでに書いているのは先見的であると言っていい。

《さて現代の我が国の文学が、表面は戦争文学その他いろいろと新らしい局面への転回で活況を呈してゐても芸術的価値から見てむしろ低下してゐることは、時が経つに従って次第に誰の眼にもはっきり顕れてくるであらう。文化に対して一定の落ちつきを持って冷静なる批判力を回復するやうになった時、其処に見出す文学は如何なる相貌を呈してゐるであらうか。》(『鮎川信夫全集II 評論I』三七四頁)

 この前後にも世間の民族主義的昂揚などをもくろむ言辞への批判もあり、コスモポリタン的世界主義への方向性を打ち出していたり、相当に抑制し韜晦しているところはあるものの、この時代の検閲的状況からみると勇気ある主張だったとさえ言えるだろう。こういう初期鮎川信夫の文学への姿勢には信頼できるものがあり、戦後詩に現われた詩における思想(意味、内面、主題)の重視という姿勢への先駆性がここにすでに兆しているのであって、戦後の鮎川信夫の詩的ポジションが深い裏づけをもっていたことを示している。

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2017年2月 2日 (木)

2─1 鮎川信夫という方法:モダニズムから新たな意味の発見へ(4)

 鮎川信夫や「荒地」の詩人たちが戦後まもなく、詩の世界でいちはやく〈戦後詩〉というカテゴリーを創出し、しばらくのあいだは圧倒的な影響力を揮うことができたとしても、それはかれらの優位性が、第一次世界大戦後ヨーロッパの荒廃を目の前にしたヨーロッパの知識人たち、そしてかれらの依拠した詩誌のタイトルに示されているように、とりわけT・S・エリオットが示した世界把握にあらかじめ先導された近代意識とその崩壊感覚を学習していたからであったことはいまさら言うまでもない。鮎川や「荒地」の詩人たちの多くが英米系の文学や思想を中心に戦前からなじんでいたこと、そしてすでに「1 鮎川信夫とは誰か」で論じたように、戦前からモダニズムの詩人として出発したこと、そればかりかポール・ヴァレリーの詩やカフカの小説など、二十世紀ヨーロッパ全般に及ぶひろい関心をもっていたことによって、戦前においてすでに疑似ヨーロッパ的感性の持ち主だったことが、戦争をくぐり抜けたあとの戦後において周囲の詩人や文学者たちより一頭地を抜く知性を発揮しえたのである。しかし、かれらの戦後はそうしたヨーロッパ的知性の影響もあって、日本の戦後にたいしても、それ自体をしっかりと凝視したうえでの強固な認識というよりは、第二次大戦後日本を第一次世界大戦後のヨーロッパと重ねあわせてみる視点をオーヴァーラップさせたうえでの、いわば疑似現実的な世界認識であったことも指摘しておかなければならない。逆に言えば、そうした知的操作が簡単に破綻しない程度には、この時代的地政的な位相の違いは見分けにくかったし、かれらがどこまで意識的であったかどうかはともかく、たとえばエリオット的な視線で戦後日本を見たとしても、近代化の三〇年近い遅れが第一次世界大戦後ヨーロッパと第二次世界大戦後日本の落差にちょうど波長が合ってしまうということもありえたのである。第一次大戦後のヨーロッパの精神を第二次大戦後の日本の現実に接ぎ木したところで認識された戦後世界――つまり鮎川らの見た戦後日本の風景は、エリオットやヴァレリーがみた第一次世界大戦後ヨーロッパ世界のそれとパラレルだったということにな
 それはたとえば田村隆一の代表作のひとつ「一九四〇年代・夏」などに端的に現われている。

 世界の真昼
 この痛ましい明るさのなかで人間と事物に関するあらゆる自明性に
 われわれは傷つけられている!

 (中略)

 彼女の文明は黒い その色は近代の絵画のなかにない
 彼女のやさしい肉欲は地球を極めて不安定なものとする
 彼女の問いはあらゆる精神に内乱と暴風雨を呼び起す
 彼女の幻影にくらべればどのような希望もはかない
 彼女の批評は都会のなかに沙漠を 人間のなかに死んだ経験を 世界のなかに黒い空間を覚醒する そして
 われわれのなかにあの未来の傷口を!

 ここにはおよそ戦後日本の風景とは思えない抽象的な概念的な世界が広がっている。わたしに言わせれば、これこそどこにもない世界、せいぜい第一次世界大戦後のヨーロッパを内在的な視点から切り抜いてきた世界であると言えるぐらいである。この知性主義的な世界把握は、当時の戦後日本のなかでいかに非現実的に見えようと、それが新しい詩的視角からの戦後表象だとして提出されてしまえば、その鮮やかな切り口こそが新しい詩の世界を告知するものとして圧倒的に現前して見えてしまう、というある意味での顛倒がおこなわれていることに誰も異を立てることができないというかたちで現実化されていったのではないだろうか。ことばが現実と遊離するとしても、そこに見えない現実を見るという視点が担保されていれば、ひとはいやおうなしにこれが新しい詩、すなわち〈戦後詩〉と呼ばれるものの威力なのだと感じさせられたはずである。そこに見出されたものこそが〈戦後詩〉が生み出した新しい意味であり、戦慄的な美であり、その技法としての隠喩なのだととりあえず言っておこう。それはもはや失われた意味の回復でさえなく、むしろ新たな意味の発見、意味の設定だったと言うべきなのである。

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2017年1月26日 (木)

2─1 鮎川信夫という方法:モダニズムから新たな意味の発見へ(3)

 鮎川信夫における内部(内面)の構築への先験性は、一方で時代から強いられたものではあるが、それ以上にひとりの詩人としての自覚において時代に先駆けてみずからの〈個我意識〉の確立を急ぐところに理由があった。それは《僕たちが戦前に於いてすでに戦後的であった》(「現代詩とは何か II幻滅について」『鮎川信夫全集第II巻 評論I』一九九五年、思潮社、六五頁)という自覚をもつ鮎川たち荒地派の詩人においては、戦後においてもあらためて時代にたいする自分たちのプライオリティを自他ともに確立してみせる必要があったからである。それが周囲の者たちに彼らの思想的倫理的優位性を誇示しているかのように見えたとしても不思議ではない。
 たとえば、鮎川より一世代(九歳)ほど下の新川和江(一九二九年生まれ)はあるインタビューでこんな感想をもらしている。
《「荒地」の詩でなければ詩ではないみたいな時代が十数年続きました。……でも「荒地」のひとたちの考えかたというのも、やっぱり理解できる。敗戦という未曾有の体験を日本はしたわけですからね。そのあとで甘美な歌は歌えない。もう歌う時代ではない。ものを考える時代になった。その移行のしかたはよく理解できました。》(「いま在るところをみなもととして」、現代詩文庫『続続・新川和江詩集』一四二頁、初出は「現代詩手帖」二〇〇七年十月号)
「荒地」とは無縁なところからみずからの詩の出発をとげた新川和江にしてこうした同時代感覚はやはりあったのである。さきに引用した「戦後詩人論」のなかで《歌う詩から考える詩へ》と鮎川が述べているところにこの新川の感慨はぴったり照応する。それほどに鮎川の詩論的リードには強度があったということだろう。同じ認識は『北川透 現代詩論集成2――戦後詩論 変容する多面体』の「なぜ、戦後詩なのか――『あとがき』に代えて」のなかでも確認することができる。
《戦後詩として語られるのは、「荒地」や「列島」以後の詩人たちの詩に対してである。わたしの経験では、戦後詩人でなければ詩人ではない、といった圧倒的な感性が支配した時期があった。それがまさしく戦後だったのだが、この戦後詩を非戦後詩と区別する、かなり強固な共同性が、どのように成立したのかはわからない。わたしが詩や批評を書き出した一九六〇年代の初めには、すでにそうした呼び方は一般化していて、わたしなど自然に受け入れていた、と思う。》(五三六頁)
 北川は新川よりさらに六歳下の一九三五年生まれである。その北川にとっても、すでに詩や批評を書きはじめた時点では戦後詩的共同体=「荒地」的共同性が確立されていたことに異和感をもたなかったし、その経緯も不明であるというのである。わたしなどさらにずっと後発の者にしてみれば、北川透の荒地論などこそが、鮎川や吉本隆明などの展開したこうした戦後詩的共同体をその後も一貫して下支えしてきたのではないかと思えてきたのであるから、この指摘には相当に驚かされる。戦前から戦後にかけて詩を書きつづけて詩人たちの多くを排して、「荒地」的戦後精神を自覚的にもった詩人たちのみが戦後の詩の世界で、いわゆる〈戦後詩〉の詩人たちとして支配的になったことになるが、おそらく一九五〇年代にこうした鮎川を先頭とする「荒地」派の精神的支配は一気に形を整えたのだろう。新川が《「荒地」の詩でなければ詩ではないみたいな時代》と言い、北川が《戦後詩人でなければ詩人ではない、といった圧倒的な感性が支配した時期》と言うように、小さな差異はあるが、逆にそのことは「荒地」=〈戦後詩〉ということを明示しているのではないか。〈戦後詩〉が戦後の詩一般を指すのではなく、ある特異な精神の共同性の歴史的所産であることはいまから見ればあたりまえのことだが、当時の渦中にあった戦後現代詩にあってはその共同体の掣肘力こそがあたかも詩の唯一のありかたとされていたことになる。これは現在のように価値が多元化し、ことばの内実が拡散ないし空洞化しているような時代からはなかなか想像もできないことではないだろうか。

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2017年1月24日 (火)

2─1 鮎川信夫という方法:モダニズムから新たな意味の発見へ(2)

 鮎川信夫という存在を、すでに「1 鮎川信夫とは誰か」で示したようにその個人的実存の不可解さと独自性において後付け的に了解することとは別に、鮎川がその同時代のなかで果たした役割について考えてみると、そこに鮎川個人の実存を超えた、あるいはそういったものを関与させない独自の意識のありかたを認めることができる。それは形をとり始めたばかりの〈戦後詩〉のあるべき姿にたいする責任意識というかリーダーシップとも言うべき、みずから選択した社会意識によって要請されたものではないか、とここではまず想定しておこう。戦後の混沌のなかで、戦前から継続してつきあってきた仲間たちとの出会い直しのすえに組まれた第二次「荒地」グループとの詩的思想的連繋のなかから自他ともにおのずと認め(られ)ることになったグループリーダーとしての立場の延長にそれがあったことはたしかだろう。

 とはいえ、戦後の社会的混乱の地平のなかでは詩の存在などはきわめて小さなものであったはずだ。あすも食えるかどうかの貧窮のなかでひとびとは日々の生活を送らざるをえなかったのであり、前世代の多くが戦争によって死んでしまったか、相対的に影響力を行使しえなくなっているなかで、いまではとうてい考えられないほどに若い世代が次の時代を切り開いていく責任を全面的に背負って登場しつつあったのである。なんらかのかたちで戦争に加担してきた前世代のひとたちは直接的な意味で戦争責任を負わされるか、おのずから沈黙にいたるか、さもなければ口を拭って進歩的な態度をとりつくろって時代をやり過ごそうとしていたはずである。詩というマイナーな領域においてもそうした社会の一般的風潮は反映していた。そうしたキズを負わない世代こそが、内心の葛藤から解放されて相対的に自由に時代に対処することができた。鮎川信夫もそうした若い知識人のひとりとして詩の世界に(再)登場してきたのである。

 一九五五年に書かれた「戦後詩人論」という短いが重要な文章が鮎川にある。この年は戦後十年を経たところで、翌年に当時の経済企画庁が発表した経済白書(「昭和三一年度年次経済報告」)において《もはや「戦後」ではない》と公式化された年である。朝鮮戦争による特需景気などもあって日本経済は復活しつつあったことは紛れもない事実であるが、実際の生活レベルにおいてもそうであったかどうかはともかく、時代的にはそうしたひと区切りをつける中間総括的要請がこの時代にはたらいていたと思われる。そうした時代を背景として鮎川の「戦後詩人論」はその年の「詩学」の臨時増刊号に書かれたのである。

《戦後の詩と、戦前の詩を区別する最も大切な違いはどこにあるかといえば、詩人も読者も、詩の内容から「意味」を期待するようになったことではないか、とぼくは考えている。それは、歌う詩から考える詩へのプロセスとして理解されるよりも、いっそう深いところで詩人の生き方につながる思想的倫理的問題を提起するものであった。……/戦後社会の荒廃した状況のなかにあって、痛烈な言葉への不信を経験した詩人たちが、生活の土台から切りはなされて形式化してしまった過去の詩の概念に、なんの興味も感じなかったとしても不思議はない。その機能と自律性を失った在来の詩の言葉をすてて、戦後詩人は、言葉の価値を自己の経験によって確かめてゆかなければならなくなったのである。(……)意味の回復への衝動は、世代のちがい、流派のちがいを超えて、すべての詩人の心の奥底にうずいていたように思う。》(『鮎川信夫全集第IV巻 評論III』二〇〇一年、思潮社、一九四―一九五頁)

 こうした「意味の回復への衝動」は戦前、戦中における失われた意味、ありうべき意味をこの世界に取り返すという以上の強い要請として戦後のひとびとの意識を動かすものであった。現在からみると、〈意味〉とはさまざまな負荷のかかった鬱陶しいものであり、場合によってはイデオロギーとして固着したものであったり死語でさえあるかもしれないことばになってしまったが、この戦後十年の時点では、〈意味〉とはなにものかから受動的に与えられるようなものではなく、そのつど新たに勝ち取られるべき将来への希望の符牒だった。敗戦の荒廃を経て、それぞれが新しく個人として生きるためにはまず生きることのそれぞれの意味を見出すことが必要だったのである。その歴史的時代的必然性を確認すべきであろう。

 そして鮎川は同じ文章のなかで《ぼくは、戦後の詩意識の核心を(……)意味の回復から、どうにか個我意識を内実させる価値観ができつつあるという点に求める者である》(同前、一九六頁)として、詩人の存在を、そうした時代的な意味回復の流れのなかで詩人としての〈個我意識〉の獲得といった価値づけのほうへと押し進めるのである。そしてさらに《戦後の詩人にとって最も重要な関心事》として《自己の内部との調整》が必要であり、そのまえに《内面生活の倫理性》(同前、一九八頁)を問題にしたかったとし、こう書く――
《内部と外部は、対立関係であるより先に相関関係である。すなわち、内部とはさまざまな外部が意識化されたものであり、外部とはさまざまな内部が物質化されたものに他ならない。》(同前、一九九頁)

 こうした鮎川の内部(内面)と外部(社会)といった分節はいまからみると単純な二元論に見えてしまうが、当時としては相当に切迫した時代意識を反映したものであろう。そして詩とはこの強固な〈内面〉から外部へ向けての射出である、といった思考の傾きをもつにいたるのは必至だったといまは考えておくしかない。(2017/1/23初出、1/25加筆)

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2017年1月 5日 (木)

2─1 鮎川信夫という方法:モダニズムから新たな意味の発見へ(1)

 わたしはすでに「現代詩手帖」二〇一六年四月号から八月号まで五回にわたって連載〈鮎川信夫とは誰か〉という文章を発表した。これはいま、この時代にあらためて鮎川信夫という詩人を理解するためには最小限の了解事項を明らかにしておきたい、という念願のもとに発想されたものであり、鮎川没後のさまざまな新しい情報――主として詩人の秘められた知られざる私的生活にかんするもの――をもとに、詩人の伝記的側面を洗い直すことによって、鮎川という詩人像の歪みや一面性を_¨正そう¨_という野心をもつものであった。いわば、鮎川信夫の神格化を解体し(鮎川自身のことばを使えば〈神話はがし〉)、その一方で、この詩人の政治的立場にたいする無用な反発を斥けるためでもあった。この方法が、一部の初期作品を除いて、鮎川の詩そのものを直接的にはあまり論じていないのも、とりあえずそうした側面をきちんと把握しておく必要があると感じたからである。もちろん、この暫定的な見取り図は今後の論述の展開を経て修正されていくところもあるだろうが、まずはひととおり論じ尽くされた感のある鮎川信夫という詩人を対象として論じていくためには、そうした手続きが必要だと思われたのである。
 そして断わるまでもなく、いまごろ鮎川信夫を論ずるのは詩人論それ自体に自足するのではなく、ありうべき現代の詩を模索するためでもある。「現代詩手帖」連載時においてもどれだけのひとが読んでくれたか知らないが、鮎川はいまそれほど関心をもたれているとは思えない。それほどにも現代詩人たちは視野が狭く、他者はむろんのこと、詩の歴史的地平への関心もなくなっているように見えてしかたがない。アドルノの言ではないが、「独り合点にあぐらをかいているために生ずるような種類の難解さ」(『ミニマ・モラリア――傷ついた生活裡の省察』一一七ページ)ばかりが目につく昨今の現代詩を鮎川信夫というフィルターを通して洗い直してみたいというのが、ほんとうの目的なのかもしれない。
 (というわけで以下では、雑誌掲載時のような時間的・分量的制約にとらわれずに論を進めていきたい。)
(2017/1/4、1/5加筆)

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