断章

2015年3月 8日 (日)

断章23

《背中を丸め、指をかたくにぎったまま前足は胸のあたりをかきむしり……頭と首をのけぞらせ口はあいたままで、泥がつまっていた。苦しみのあまり土をかみまわったと考えられる。》*
これはアメリカでジリスという鳥がDDTという殺虫剤散布の影響で死に追いやられたときのおそるべき事態の描写だ
人間のつまらない利益と欲望と無知と傲慢のために
犠牲にされる動物たちの哀れさを
怒りをこめて糾弾したものだ
どんな苦しみに見舞われようとも
その苦しみを甘受して死に臨む
動物たちのけなげさには
ひたすら崇高さを感じてしまう
人間たちの勝手で放置され餓死させられた
フクシマの牛たち
犬や猫たち
その末期の眼に映った世界の風景は
どんな色がしていただろう
どんな匂いが
どんな風が吹いていただろう
叫んでも吠えても誰も応えないその虚無の深さは
ひとの想像を超える
その虚無にはもはや人間の姿は映っていまい
自分たちを放置していった人間たちを怨むことなく
みずからの苦しみを苦しみぬいて
死ぬだけだ
その深さはひとのことばではもはや届かない
だからこそ凝視しなければならない
ひとの眼にはもう見えない生のただならぬ気配に
みずからの動物としての死の予感に
顫えるしかないのだ
*レイチェル・カーソン『沈黙の春』新潮文庫136ページ
(2015/3/8)

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2014年10月27日 (月)

断章22

〈本の文化は壊滅的である政治が悪い教育が悪いマラルメの書物の絶対性はいまやどこにも存在しない
〈本を読むひとはいないひとりよがりで書くひとばかりで誰も興味がわかないそれをいいことに孤高を気取るなばかめ
〈それでもわたしは書くどこに根拠があるのかしらないとは言ってはいけないがそれを知るのもひとつの理由か
〈BOOKISHな人間であるなとつくづく思う本を読み活字を追う時間に追われる因果な人生
〈日々紙の上で跳梁する文字を追っていると現実との接点が怪しくなってくる文字はいつもすでに遅れた時間デリダはそれを差延ディフェランスと呼んだ差異じゃないんだよね遅れ
〈古典なんかはその最たるものさだけど古いことばがいまでもリアルに生きているという逆説それが古典をいま読む意味なのさわかるかねきみ
〈世界はことばでできているこの峻厳たる事実じゃなくて真実テクスト-内-世界という重要な構造認識われわれ世界-内-存在たるヒトに刻み込まれた傷としてのことばに深く納得せざるをえない
〈世の中はつまらない本ばかりでできているこれがそもそもこの国の頽廃の理由だ読んでも利口になるわけじゃなし
〈すこしはものを考えられるようにもならないためにこの国の一億総白痴化教育政策はとられてきたそのツケをみんなではらっているのさ
〈(この「白痴」という単語も変換候補に挙げられなくなっているのもくだらない反差別意識の現われだ)
〈ひさびさにマルクスを読んでみると言うべきことはとことん言わなきゃいけないということを痛感する小熊秀雄もそうだみんなそこまで考えていないし考えることを怖れているからだ
〈わたしがスピノザを読んでいると書くとそんなのわかるのと言ってきた愚かな知り合いがいたこともあったひとは自分の甲羅にあわせてしかひとを理解できないというか理解しようとしないまあそんなのとといっしょにされた自分を哀れむしかないが無知とはつまらぬものだ
〈そこまで書くのかという自分の無恥をわきまえずに自分の知っていることをあたかもなにごとかの発見であるかのようにある大資本家詩人について論じているかつての友人の垂れ流しを読んでいるとなんと猥褻なことか死者を冒涜するのは読むにたえないが読んでしまって疲れる
〈いったい編集者はなにを見てるんだ本の価値もわからない銀行屋ふぜいに経営の本質について幼稚な講釈を聞くのと同じだ本の話をするととたんに逃げ腰になる自分たちは教養がないからとねそんなこととっくに知ってるわい
〈そんなことを言うと友達をなくすとかでもねえ友達なんてそんなものさわたしは本質的に人嫌いだからねでしょうかおのおのがた
〈こうやってことばを書き散らすのは初めてだがこれが詩だったらそんな書き方は詩ではないとひとは言うだろうねTwitterで詩を書くなどは最悪の方法だとでもこれで点数稼いだ詩人がいたではないかこれでも書けるならいいことにするか詩だからすべて許されるかってそんなこと知るもんか

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2014年3月21日 (金)

断章21

「目も見えぬ
耳も聞こえぬ
しかし、殺された刹那をしっている
冷たい刃先が自分をえぐった瞬間
芯からわいて出た熱い赤」(*)
未知の詩人のことばがわたしをえぐる
殺されるために生まれてきたような
実験動物の微小すぎるいのち
だがその血の哀しみは深いところからわたしを撃つ
それは存在そのものの哀しみの純粋な叫びだからだ
生を享けたことを痛みとしてしか返せない
だが誰に

犬が死んだ
その不在の夜
有機体としての存在を燃やした骨が
空虚な花たちを見下ろしている
静かにほろんだ愛しいかたちが焼けた台に遺された
その残酷なまでの愛らしきフィギュア
そのままに生きてきたのだ
けなげに生きることがひとの喜びとなり記憶となった
でもやはり死ぬときはどんな生きものも最後の感覚を味わうのだ
その痛みを返す相手がいることがうれしいだけだ

(*)伊藤公成「赤い池」
(2014/3/21)

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断章20

ことばが命と同じぐらいに軽くなったいま
どうしてことばを発せられるか

若者たちはことばの意匠に技を競い
生きることに疲れたものたちはなすすべもなく声を失なう
けれどことばは胃の底から吐き出されようとしている
それはどのようなことばなのか
うつくしいことばは世に無情に流れて消える
意味も根拠も問われないことばだけが時流に乗って
この世の掃き溜めに流れていく

この時代
哲学のことばは浪費され
低能な施政者の紋切り型だけが虚空をうつ
ことばはこれほど価値がなくなったのか
どこかにあるべきことばの力を
いまなお求めることはだれの仕事なのか

ことばはどこまでもことばでしかなくとも
きっと知らないだれかにささやきかける
生きることの意味はここにあるのではないかと
ひとがなにによって生きるのか考えたことはあるかと

絶望することは簡単だ
この世は愚劣と面倒で充ちている
あるべき生とはほど遠くても
そこに近づくことは不可能ではない
よりよく生きるには方法がいる
そのひとにしか意味のない方法が
それがことばだ
それがどんなにささやかなことばでもいい
そのひとにとって生きることと等価であれば
それにもっとふさわしいことばだってあるはずだ
そのひとがことばに開かれていれば
それをもとめるのが詩であれば
そこにこそ詩を書く意味がある
詩が読まれる意味もある
詩が哲学になるとはそのことである
(2014/1/3)

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2013年9月12日 (木)

断章18:難解な野村喜和夫

未知の若い詩人から野村喜和夫「難解な自転車」についての詩かエッセイを頼まれた
うっかり締切を過ぎてしまったがなんとかなるだろう
ということで書きはじめたのが以下の文
これを詩とみるかエッセイとみるかは読むひとにまかせよう
改行しているところをみるといまのところは詩のつもり
つまり見たところ改行していれば
詩とみなす
というのが当今の詩的流儀だからいまのところそれにしたがっているにすぎない
どうなるかわからないところで書きはじめているが
指定の六〇行から一〇〇行もつだろうか
こういう緩さでものを書くのは初めてなのでうれしい

なぜか家のまえに自転車が放置されている
そのことへのわからなさが一篇の詩をかたちづくる
あまつさえ詩集のタイトルにまでなってしまう
〈ものを移すということ。あるものを、それが本来置かれるべき場所から、べつのとんでもない場所に移すということ。すると俄然、そのものは特別の美を放ちはじめる。〉(*)
そこにデュシャンの「便器」やロートレアモンの「ミシン」がご愛嬌のように出てくるのが野村流だ
これは修辞学的にはメトニミー(換喩)と呼ばれる
すると〈難解な自転車〉とはメトニミーなのかメタファーなのか
自転車がありうべきでない自宅の前に放置される
これ自体はメトニミーではない
たんなる移動だ
だが そう書かれるとすでにたんなる移動ではなくなる
〈とんでもない場所〉に移された自転車について書くということは
それ自体が事物の世界からエクリチュールの世界への移動だからだ
だがすでに〈難解な〉という修飾語が付けられてしまった
これはこの形容詞が〈本来置かれるべき場所〉から逸脱して自転車の形容詞となること自体においてこの移動はメタファーにちかい
そう言えば野村喜和夫はかつてメタファーを古くさいものとして否定したことがあったな
わたしは「隠喩的思考」(**)という二十二年前の論考で
詩的言語の構造そのものが隠喩であることを指摘しているので
野村君とは詩についての認識がちがう
単純に言えば
詩という体裁をとるととたんにそこに置かれたことばが隠喩として機能するということである
いま現在ここに書きつけていることばも隠喩である
だからそのまま解釈してはいけないということになる

思い出したが
以前ある場所(***)で野村喜和夫の詩は「よだれ」であると当人の前で言明したことがあった
まことに失礼な話だが
いまその部分を読み返してみるとけっこういいことを言っている
当人もあきれかえって「いろいろ言っていただいて、つけくわえることはありません(笑)」だと

あれから十年もたっているが
野村喜和夫の詩はやはり一貫して「よだれ」であって
最近はそれに粘りがでてきて糸を引くようになっている
この放置自転車の話も実話だと聞いたが
それでもこんな意味ありげな詩にしてしまい
〈私の 頭の どこか へりに ひ ひっ
かかって いる
難解な 難解な
自転車よ〉
と〈ひ ひっ/かかって〉歌える野村喜和夫の口唇的エクリチュールの垂涎的愉快さ
そして最後に
〈誰か 髪の 長い
すらりとした 肢体の
誰かに またがって もらって 颯爽と
私の 頭の どこか へりから
立ち 去れ 難解な
自転車よ〉
といつもの野村的性欲の一端をちょろりと見せて
どこまでもキワオはエロスの街道を突っ走って行くのである
この意味で
〈難解な自転車〉とはじつは野村喜和夫自身のメタファーなのだ
詩を書くひとはみずからの詩のメタファーになる
という一般的なことを言いたいのではない
意図せず野村喜和夫はメタファーの詩人であることを
誰よりもその書く詩において体現しているのである
そう読み取ってしまえば
ここに難解でない野村喜和夫がいる
とも言えそうだが
もしかしたらそれこそが難解な野村喜和夫なのかもしれない

ところで
わたしのこの文は野村喜和夫的よだれのパスティーシュなのだが
とわざわざ断る必要ももはやないだろう

(*)野村喜和夫「難解な自転車」冒頭。
(**)「現代詩手帖」一九九一年八月号、野沢啓『隠喩的思考』一九九三年、思潮社、所収。
(***)「現代詩手帖」二〇〇三年十二月年鑑号での野村喜和夫、和合亮一との鼎談討議「持続と模索、それぞれの途上で」。

(これは「難解な野村喜和夫」と題して「詩の練習」第8号に掲載されました。編集人の杉中昌樹さんの了解を得てここに掲載します。)
(2013/7/23)

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2013年7月14日 (日)

断章17

眠い ひたすら眠いのに
急に抱き起こされるから首が垂れてしまう
かわいがってくれるのはわかるけど
ちょっと人間様の都合で勝手だよね
でも やっぱりうれしい
歳とって弱ってきたし
誰かがいてくれないと不安で
つい鳴き声ももれてしまうのよね
おしっこもおむつの中で漏れてしまう
気持ち悪くってじっとしていられない
早く代えてくれって言うの!
わがままな奴だと思われているらしいけど
でもそうなんだけど
どこかちがう
わけがあるのよね
だってまだ歩いてみたいし
寝てばっかりじゃじいさんみたいじゃないか
たしかにもう十六歳にもなったし
まわりじゃ年下がどんどん死んでるみたい
こちらだって先日は冷たいスイカ食わされて
急性膵炎とか言われて死ぬとこだった
あのときは苦しかったな
もう死んじゃうのかなと思ったし
そう言われていたみたい
医者に覚悟してくださいなんて言われていたみたい
すごく心配してくれたんだ
だから生き返れたんだろうな
深夜の動物緊急センターなんてもう行きたくないし
いつものアニマルクリニックの女医さんだって
手を焼いていたよ
親父がようす見に来たから連れ帰ってもいいって
やっぱり死なれたらいやなんだ
でもいまは熱い東京はなれて涼しいから
ますますよく寝てしまう
このさきどのくらいこんな生活できるのかな
きょうだってクルマに乗せられてソバ食いのつきあいさせられて
大好きなソバのおこぼれを頂戴したよ
まえだったら上向いてソバをつるつる吸い込んで
麺食い犬なんて笑われていたけど
好きなものはいまでも好き
こんな人生 じゃなくって犬の一生もいいんだろうな
もうすこし生きようっと
(2013/7/14)

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2013年4月20日 (土)

断章16

ひたすらことばを追うのはどうしてか
読むことをやめられない
書きたいことをみつけるためにはことばに接していなければならない
するとこんなことばに出会う
「小日向【こびなた】から音羽【おとは】へ降りる鼠坂と云ふ坂がある。(……)ここからが坂だと思う辺【へん】まで来ると、突然勾配の強い、曲がりくねつた小道になる。」
これは森鴎外の「鼠坂」にあるそうで岡井隆の「鼠年最初の注解【スコリア】」(*)からの孫引きだが
この坂道には心当たりがある
だからどうだというわけではない
それは同じ区にある仕事場のそばの法蔵院に引きこもっていた漱石を子規が訪ねたことがあるらしいとあるとき来訪された女性研究者とその娘さんに教えたことがあるというぐらいに平凡な話だ
数寄者の岡倉天心の『茶の本』は西欧のタームで日本の美の精神を世界に弘めたと小林康夫は書いている(**)
すごい秀才だが時の権力者九鬼隆一をコキュにして妻波津子を奪ったその手口は波津子が当時としてはまれにみる美形だったところが天心の美学にかなったのだろうがけっこう通俗的だった
いつも母から天心の話ばかり聞かされていた周造はドイツ留学も気もそぞろだったかハイデガーも認めた優秀な哲学者も日本に戻れば「いき」を分析することで母の恋人の精神をいくらかは継承したことになる
明治の近代はそうして暮れたがいまは浮力のついたことば(***)をどうやって落ち着かせるか誰も考えない
こうしてことばが開く深淵に時代とともにみんなして墜ちていくのである

(*)『岡井隆詩集』(現代詩文庫)四四頁。
(**)小林康夫『こころのアポリア――幸福と死のあいだで』七八頁以下。
(***)粟津則雄の渋沢孝輔との対談「言語と想像力の危機」でのことば。
(2013/4/19)

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2013年4月15日 (月)

断章15

ついに怒りに火がついた
ことばは決定的に壊れるがよい
日本語は日々汚染されていく
「公開を迫られるくらいなら捨ててしまえ」
外務省の雑魚役人がわめく
政治家や官僚にとってことばは方便
嘘つきのリアリティさえもない
かつての鳥肌の立つような「美しい国」から
殺意を秘めた「強い国」へ
ことばもろくに知らない施政者がつづくこの国で
だれが責任とる?

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2013年2月 2日 (土)

断章14

 生き残った饒舌者
 静かにしてくれ!
 降ってふる雪に学べ
 静かに降っては 跡形もなく消える

 いま 言葉は余計
 悲しみも無用
 (田原「津波」より)

田原さんのことばは強い
大震災のときに仙台在住だからわかるんだろう
饒舌にはしゃぐ被災者ツイート
(当人は必死の発信のつもりなのだろうけど)
ことばの手形がこれほど安手に切り出されたことはない
(戦時中はそうだったかもしれないが)
しからばこちらは冷静に クリティカルに
それしかない それでいい

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2013年2月 1日 (金)

断章13

雨の降りやまないこの夜更け
ノルマの校正仕事から解放されて
それでも多くのことばを読む
ことばに淫し なおことばを追う
いじましくもあるか
詩を問うこと(負うこと?)
「文化や芸術は人間の非社交性から生じた果実」*
たしかにますます人嫌いになるわたし
条件は揃っているぞ
昼間に見た道路の陥没
そのおぞましさが何の比喩なのか
いまはまだ答えを求めてはならない

*カント「世界公民的見地における一般史の構想」

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