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2019年1月19日 (土)

思考のポイエーシス・日録篇2019/1/19

アマゾンからちくま学芸文庫版『ニーチェ全集3 哲学者の書』とどく。
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バルーフ・デ・スピノザ『神学・政治論――聖書の批判と言論の自由 下』(岩波文庫) の第十五章のつづき~第十六章の途中。理性と国家、各人の自然権との関係に主題が移る。《民主制とは為し得る一切事に対しての最高権利を団体として有する人間の総体的結合と定義される。》(173ページ)
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志村喜代子詩集『後【のち】の淵』通読。初めて読む高崎の詩人。端正な作風のなかに不穏な女性性を感じさせる。三浦雅士が力を入れた栞で論じているのもわかる気がする。
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『加藤尚武著作集第12巻 哲学史』の「『加藤尚武著作集第12巻_本文.txt」で『20世紀の思想――マルクスからデリダへ』の仮ゲラ印刷+通読+ファイル修正をはじめる。「まえがき」~「プロローグ――思想の二十世紀」の途中まで。
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ジャック・デリダ『哲学の余白 下』の「署名 出来事 コンテクスト」のつづき~終り。訳者謝辞。読了。
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デリダが《或る種の言表はそれらが<G>客観的な</G>意味作用を欠いているときでも意味をもちうる。「円は四角い」は意味をそなえた命題である。この命題は、私がそれを偽である、あるいは矛盾していると判断しうるくらい十分に意味をそなえている》(248ページ)と言うとき、その意味とは現実的に意味をなさない、というときの〈意味〉ではない。ひとつの言表として意味をそなえているというだけのことである。しかし、この〈意味〉は、それが現実の場では意味をもたない、矛盾でしかない、としても、ある種の言表においては可能性として存在の意味をもつ。それがたとえば、言説行為としての詩においては場合によっては可能であるということである。たとえばこれをオースティンの言語行為論におけるパフォーマティヴとして詩的言説行為を解釈することも可能だが、それはいわば宛先のない言語行為、それ自体で完結するしかない言語行為にすぎないことになる。ただ、それが詩という言説内部においてなにごとかを隠喩的に志向することはありうるのであって、一概に否定することではない。この無意味を詩の文脈において生かすことは不可能ではない。(詩的隠喩論1)

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