読書日録

2017年12月31日 (日)

読み書き日録2017/12/31

Jacques Derrida: De la Grammatologie の第1部/第3章/Le rebus et la complicite+' des originesのつづき~終り。これでようやく第1部「文字以前のエクリチュール」読了。最後は漢字の問題などとの関連が執拗に言及される。
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大岡信『日本の詩歌――その骨組みと素肌』(岩波文庫) 読了。「あとがき」「現代文庫版あとがき」、池澤夏樹の「解説」を読む。
《この本は、私の今まで書いてきた本の中でもとりわけ、明快さを持っているのではなかろうかと自負しています》
と大岡は書いている。その通りだと思う。池澤の解説は良くない。
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「composition」1号、通読。葉山美玖個人誌。
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上村忠男『ヘテロトピアからのまなざし』の原稿通読+テキスト処理+ファイル修正、つづける。「I」の「ヴァールブルクの鋏」7ページ分、スミ。これで「I」の部、終了。
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エドムント・フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』の第三部「超越論的問題の解明とそれに関連する心理学の機能」の第二十九節~第三十一節。
《学一般は普遍的哲学としてのみ可能であり、この普遍的哲学こそあらゆる学のうちにあって唯一の学であり、あらゆる認識の総体としてのみ可能である》(156ページ)。
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加藤尚武著作集第13巻収録予定の単行本未収録論文「形とエロティシズム――くびれた腰はどうしてセクシュアルなのか」の加藤尚武マクロによるテキスト一括処理。つづけて見出し、「現代思想」の原稿を見ながら改行等の確認。小活字化タグ付け、表記統一、などの一括修正。仮ゲラ印刷15ページ+通読+ファイル追加修正。この論文もスミ。
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『鮎川信夫全集II 評論I』で「詩人と民衆」のV~VI、再読。

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2017年2月4日から始めたこの「読み書き日録」もついに最終日を迎えた。ご愛読(?)ありがとうございました。
来年は趣きを変えて、個人のTweetを廃止し、こちらに統合します。これまでの記事にくわえて個人的発言を増やす予定です。したがってブログのタイトルも2018年1月1日から「思考のポイエーシス・日録篇」と変更することにします。今後ともよろしくお願いします。

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2017年12月30日 (土)

読み書き日録2017/12/30

上村忠男『ヘテロトピアからのまなざし』の原稿通読+テキスト処理+ファイル修正、つづける。「I」の「『ヘイドン・ホワイトの『歴史の詩学』について」39ページ分、スミ。
《ヴィーコもまた、〈詩的知恵〉の世界の始源には、まずもっては隠喩的な作用が存在したと言う。しかし、ヴィーコがそう述べるときの隠喩的な作用とは、すでにできあがった言語の世界の内部にあってのものではない。ヴィーコは、当の言語の世界の成立過程そのものを視野のうちにとらえこもうとする。そしてほかでもなく、その言語の創出過程そのもののうちに隠喩的な作用を見てとるのである。》
 これはガダマーの〈言語意識の基礎的隠喩作用〉との対比で言っている。ガダマーの場合は《あくまでもすでに形成されて秩序を構成している言語の内部においての出来事》であるから、隠喩というより換喩にすぎない。
《したがって、ヴィーコが〈詩的知恵〉の世界の始源に措定している隠喩的な作用というのは、ガダマーの「基礎的隠喩作用」におけるような《類似性に表現を与える》ことではない。それは《類似性に表現を与える》以前に、なによりもまず人間の心的世界のなかに事物がそもそも自己同一性をそなえて立ち現われてくるさいの当の事物の自己同一性の原理にほかならないのである。》
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エドムント・フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』の第三部「超越論的問題の解明とそれに関連する心理学の機能」の第二十八節。生活環境(生活世界)が哲学者にとっても〈_¨存在妥当¨_の領域〉として出発点にあるという自明の前提の確認。
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大岡信『日本の詩歌――その骨組みと素肌』(岩波文庫) 「四 叙景の歌――なぜ日本の詩は主観の表現においてかくも控えめなのか?」~「五 日本の中世歌謡――『明るい虚無』の背景をなすもの」再読。これで本文、読了。残るは2つのあとがきと解説。
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Jacques Derrida: De la Grammatologie の第1部/第3章/Le rebus et la complicite+' des originesのつづき~。

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2017年12月29日 (金)

読み書き日録2017/12/29

Jacques Derrida: De la Grammatologie の第1部/第3章/Le rebus et la complicite+' des originesのつづき~。表音主義、絵文字等についての分析。
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エドムント・フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』の第二部「近代における物理学的客観主義と超越論的主観主義との対立の起源の解明」の第二十六節~第二十七節。第二部、読了。ここではカント的超越論哲学の評価がなされ、これから展開する方法論が提示される。
《超越論的哲学こそは、前学問的ならびに学問的な客観主義に対して、_¨あらゆる客観的意味形成と存在妥当の根源的な場としての認識する主観性¨_へと立ち帰り、存在する世界を意味形成体ならびに妥当形成体として理解し、こうして_¨本質的に新たな種類の学問性と哲学¨_とに道を開こうと試みる哲学なのである。》(139ページ)
 つまり自分の主観性を信じて世界をもういちど見直すことで新しい超越論的哲学が開かれるということか。
《カントとカントから出発した超越論的観念論の諸体系が、近代哲学の目的論的意味統一のうちで占める位置を理解し、そうすることによってわれわれ自身の自己理解を進めうるためには、それのもつ学問性の様式を批判的に検討し、それによって、その哲学的思索の徹底性の不足――われわれによって克服される不足――を解明することが必要である。近代の歴史の内部での重要な転回点をなしているカントに立ちどまることは、十分理由のあることである。》(140ページ)
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大岡信『日本の詩歌――その骨組みと素肌』(岩波文庫) の3章「奈良・平安時代の一流女性歌人たち」読む。ここでは笠女郎、和泉式部が主として取り上げられる。
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加藤尚武著作集第12巻収録予定の単行本未収録論文「技術と権利」の加藤尚武マクロによるテキスト一括処理。つづけて見出し、「現代思想」の原稿を見ながら改行等の確認。小活字化タグ付け、表記統一、などの一括修正。仮ゲラ印刷12ページ+通読+ファイル追加修正。この論文もスミ。
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『鮎川信夫全集II 評論I』で「詩人と民衆」のIII~IV、再読。
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第二次「走都」2号のための鮎川信夫論「鮎川信夫という方法(2)」の「3 〈戦後詩〉と近代」の「3-4」を読み直しと加筆修正。もう一節分、書かないと終われないことを確認。

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2017年12月28日 (木)

読み書き日録2017/12/28

上村忠男『ヘテロトピアからのまなざし』の原稿通読+テキスト処理+ファイル修正、つづける。「I」の「『惑星思考』のその後」4ページ、「ヘテロトピアからのまなざし――エドワード・W・サイードと批評の可能性」19ページ、「ヘテロトピアとしてのアメリカ」3ページ、スミ。仮ゲラ印刷26ページ分。ここまでの対応する注ページも印刷。76ページまでの分を上村さんに送付。残りは冬休みの宿題。
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「サラン橋」17号に目を通す。崔龍源から送ってもらったもの。
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大岡信『日本の詩歌――その骨組みと素肌』(岩波文庫) 2章の途中~終り。
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エドムント・フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』の第二部「近代における物理学的客観主義と超越論的主観主義との対立の起源の解明」の第二十四節~第二十五節。
《われわれにとっていま興味があるのは――形式的、一般的な言い方をすれば――、カントがヒュームの感覚所与の実証主義――カントはヒュームをそう理解したのであるが――に反対して、体系的に建設された、壮大な、しかも_¨新しい¨_仕方での学的な哲学を企図したという点である。そしてこの哲学において、デカルトの試みた意識主観性への転回が、超越論的主観主義という形をとって結実するのである。》(134ページ)
 フッサールはさらに、カントによるヒューム誤解の結果として、《その虚構主義の立場で学としての哲学を放棄したヒュームの感覚所与の実証主義に対する反動として》カントの《体系的に建設された壮大な学的哲学――_¨超越論的主観¨_主義と呼ばれるべきだが――が現われた》(136ページ)と言うのである。まことに哲学とはおもしろい。

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2017年12月27日 (水)

読み書き日録2017/12/27

加藤尚武さんよりE-mailできのう依頼した加藤尚武著作集第6巻収録予定の単行本未収録論文「核廃棄物の時間と国家の時間」を含む「震災後三部作」というデータを送ってくれる。比べると明らかにこれらしい。データを差し替え。~さっそく加藤尚武マクロによるテキスト一括処理。つづけて見出し、改行等の確認。小活字化タグ付け、表記統一、などの一括修正。仮ゲラ印刷10ページ+通読+ファイル追加修正。この論文もスミ。
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川上明日夫詩集『白骨草』通読。読むのは初めて。〈じっじっと 虫が鳴くように 魂も減ってゆく 秋〉(「子守柿」)――ちょっとさみしい境地だ。
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第二次「走都」2号のための鮎川信夫論「鮎川信夫という方法(2)」の「3 〈戦後詩〉と近代」を読み直し。すこし加筆。さらに「3-4」で主として「近代詩における『近代』の運命」について書く。この項も、スミ。ここまでで36枚半+注となる。
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「現代思想」2012年3月号(特集:大震災は終わらない)を読みつぐ。加藤尚武論文「核廃棄物の時間と国家の時間」のほか西谷修×山形孝夫対談も読む。以前、修さんから聞いていた対談だ。

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2017年12月26日 (火)

読み書き日録2017/12/26

上村忠男『ヘテロトピアからのまなざし』の原稿通読+テキスト処理+ファイル修正、はじめる。まずは「I」の「シラーをサボタージュする――スピヴァクとグローバリゼーションの時代における美的教育」スミ。仮ゲラ印刷43ページ分。
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大岡信『日本の詩歌――その骨組みと素肌』(岩波文庫) 読みはじめる。コレージュ・ド・フランスでの講義録で単行本の再読。2章の途中まで。
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「現代思想」2012年3月号(特集:大震災は終わらない)を読みはじめる。

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2017年12月25日 (月)

読み書き日録2017/12/25

「図書」2018年1月号に目を通す。広辞苑特集号。
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星野元一詩集『ふろしき讃歌』通読。土の匂いをふんだんに感じさせ、そこに生きる人間の哀感をストレートにユーモラスに語るこの詩人のことばは無類に楽しくほほえましい。棺桶に入れられた死者の気持ち(があるとして)が書かれた「桶の人」など傑作だ。
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『鮎川信夫全集II 評論I』で「詩人と民衆」途中まで再読。 《戦前のモダニズム詩派は、ダダ、シュール以後の西欧文学の影響下に、そのほとんどが無意味な難解詩をつくり出し、伝達上、はなはだしい不利を招きながら、かえって芸術上の前衛を気負うふうがあった。それは、庶民とも、民衆とも、大衆とも、人民とも、国民とも、まったく無縁の奇妙な文学であって、根無し草である当時のインテリ詩人のよわよわしげな知性と感性を、わずかに反映しているといったものが多かったのである。》(228頁)
 これは大岡信のモダニズム評価を内部にかかわった者の視点から証言したものである。
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宗近真一郎『リップヴァンウィンクルの詩学』ようやく読了。どこか懐かしい観念的文体的生硬さをかかえた本書は、みずからを「経済グローバリズムの手先であった」と自負しつつ世界的視線で浦島太郎的日本社会(と詩)の問題を論じて鋭い論点を提起しているところに見どころがある。状況論的にはちょっと古証文的な論考も多かったが。

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2017年12月24日 (日)

読み書き日録2017/12/24

エドムント・フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』の第二部「近代における物理学的客観主義と超越論的主観主義との対立の起源の解明」の第十八節~第二十二節。
《近代において、悟性ないし理性の理論、精確な意味での理性批判、超越論的問題と呼ばれているものは、その意味の根源をデカルトの省察のうちにもっている。古代においては、このような問題は知られていなかった。というのは、古代には、デカルト的判断中止やその自我【エゴ】は縁のないものだったからである。こうして、その究極の基礎づけを主観的なもののうちに求める、_¨まったく新しい種類の哲学的探究¨_が。事実上デカルトとともにはじまる》(114ページ)
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上村忠男さんよりE-mailで『言説の異他なる反場所から』から『ヘテロトピアからのまなざし』への書名の変更とホワイト論と柄谷論の入替えの指示。ヘイドン・ホワイト論、柄谷行人論の合体した差し替え原稿、、追加原稿1本、目次の修正、あとがき原稿、「ビブリオグラフィティ(2012-2017)」の原稿、などいろいろとどく。これは大変だ。~とりあえず目次部分をテキスト処理して「他の秀丸エディタと内容比較」コマンドで相違を確認。初出一覧も修正。差し替え原稿、追加原稿をひとまず印刷とテキスト処理。「『ヘテロトピアからのまなざし』_本文.txt」に取り込み。あとは読みながら一括ファイル修正をしていくことに。これはとうていあと4日では終わりそうにない。
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宗近真一郎『リップヴァンウィンクルの詩学』読みつぐ。
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Jacques Derrida: De la Grammatologieの第1部/第3章/Le rebus et la complicite+' des originesのはじめ~。エクリチュールとメラニ-・クラインの精神分析について。
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第二次「走都」2号のための鮎川信夫論「鮎川信夫という方法(2)」の「3 〈戦後詩〉と近代」を読み直し。すこし加筆。さらに「3-3」でモダニズムと近代意識について書く。この項、スミ。ここまでで27枚ちょっと+注となる。

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2017年12月23日 (土)

読み書き日録2017/12/23

『鮎川信夫全集II 評論I』で「前衛の場について」「近代詩における『近代』の運命」再読。
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「彼方へ」1号に目を通す。川中子義勝が始めた同人誌。
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加藤尚武著作集第4巻収録予定の単行本未収録論文「ヘーゲル入門」の通読12ページ分+ファイル追加修正。一七節~一八節、スミ。
《実物は不動、理念が自己展開というのが、ヘーゲル哲学の基本的な図式である。》
 これでこの長大な連載もスミ。第3回配本予定の第4巻もすべてスミ。
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宗近真一郎『リップヴァンウィンクルの詩学』のII部まで読了。
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上村忠男さんの『言説の異他なる反場所から』の原稿の印刷のつづき~終り。さらにテキスト変換してファイル連結。「言説の異他なる反場所から_本文.txt」としてひとまずまとめる。注もふくめてポイエーシス18行形式で流し込むと490ページ分もあることがわかる。だいぶ余分なデータもあるから減るとしても400ページ以上になりそう。とりあえず目次部分から「初出一覧」を抽出。さらに文字化けしているところをある程度まで一括修正。まずは加藤尚武マクロでテキスト一括処理。タイトル見出し・中見出しタグ付け。注を「言説の異他なる反場所から_注.txt」として取り出し。注のある文章はあまりないが、それぞれはかなり多い。これで本文をあらためて計算するとやはり468ページもある。小活字化タグ付けのところまで。

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2017年12月22日 (金)

読み書き日録2017/12/22

上村忠男さんの『言説の異他なる反場所から』を年末までに仮ゲラ化して上村さんに送る予定にし、上村さん宅にtel。最初は夫人といろいろ話。途中から帰宅された上村さんと話。とりあえず来年2月刊行をめざしてできるところまで年内に仮ゲラを送る予定を伝える。あさっての成城寺小屋講座の会には欠席を伝える。~とりあえず原稿の印刷をはじめる。かなり多そう。
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宗近真一郎『リップヴァンウィンクルの詩学』読みつぐ。宗近の文章には「マルクス主義の牧歌的ターム『収奪』」とか「剰余価値の無根拠」とか、ネオコンの使いそうなタームが出てきて、驚く。おいおい、大丈夫かよ。アメリカあたりですっかり洗脳されてきたのか。
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加藤尚武著作集第4巻収録予定の単行本未収録論文「ヘーゲル入門」の通読再開13ページ分+ファイル追加修正。一五節~一六節、スミ。
《「弁証法」は、ヘーゲルの用語法では、すべての発展段階の一部だけの名称である。もしも過程の全体を「正反合」と呼ぶなら「正反合の弁証法」という言い方が、ヘーゲル的な用語法の枠の中で成り立つはずがない。しかしヘーゲルは自分の論理展開を三段階で表現するときでも、「正反合」という表現は絶対に使わないのだから、「へーゲル哲学の基本概念は〈正反合の弁証法〉と言い表わすことができる」などというのは、まったく根も葉もないでっち上げである。》
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『鮎川信夫全集II 評論I』で「現代と詩人――異数の世界へおりてゆく者」再読。
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エドムント・フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』の第二部「近代における物理学的客観主義と超越論的主観主義との対立の起源の解明」の第十五節~第十七節。
《真に哲学者たらんとするものとしては、_¨ある種の徹底的な懐疑的判断中止¨_から出発するのを避けるわけにはいかない。それは彼のもついままでのあらゆる信念の世界を疑問視し、それらの信念を判断として使用することをあらかじめ防ぎ、それが妥当するかしないかについて態度を決めるのを禁ずることである。あらゆる哲学者は、その生涯において一度は、このような態度をとらねばならないのだ。》(106ページ)
 まことにフッサール的エポケーをみずからに適用する態度決定であろう。
《判断中止によってわたしは、_¨絶対に必当然的な前提として、わたしにとって考えられうるあらゆる存在者とその存在領域に原理的に先行する¨_ような存在領域に到達した。……自我、すなわち判断中止を遂行する自我は、唯一絶対に疑いえないもの、あらゆる疑いの可能性を原理的に排除するものなのである。》(109ページ)
 この立場をフッサールは〈根源的明証性〉と呼び、《すべての学的認識がそこへ還帰せねばならないもの》としている。ここでフッサールはデカルト主義者であるとともに、そのエポケーの絶対化によってデカルトとともに形而上学者になっている。

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