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2017年7月 8日 (土)

読み書き日録2017/7/8

「ミて」139号、読了。新井高子さんがトルコの詩祭に招待されて行った模様が書かれている。
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ダグラス・ラミス『ダグラス・ラミスの思想自選集 「普通」の不思議さ』の「想像しうる最小の軍隊――ガンジーのインド憲法私案と日本の平和憲法」のつづき~。
《国家が行う戦争の根源的な形は、国家が自身を立ち上げ、自身の存立を守るために、自身の国民を相手に戦うというものだ。国家による正統な暴力の独占は、暴力によって確立し、暴力によって維持されている。》(284ページ)
 国家暴力というものはまずなによりも国内にむけての鎮圧的暴力だということだ。
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大岡信『現代詩試論 詩人の設計図』(講談社文芸文庫) の「エリュアール論」のはじめ~。
《新しい自然ではなくて、新しい光をあてられた自然……。奇妙なことだが、日本のモダンな詩人達に新しい詩の先駆者として映ったエリュアールが、ぼくに、新しい詩などない、新しい光をあてられた詩があるだけだ、と教えてくれたのだ。ぼくのエリュアール理解の方向は、このときすでに決定的にきめられていた。》(243ページ)
《エリュアールの希望の歌が倦むことなく続いてきたということは、それ故、エリュアールの絶望が、昨日も今日も、常に新しく彼をさいなんだということ以外のなにものでもなく、又ぼくらが彼の希望の歌をきいて倦むことがないとすれば、ぼくらの絶望がそのように深く、言うならば豊かであることを示す以外の何ものでもない。》(245ページ)
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Jacques Derrida: De la Grammatologie のPremie`re Partie/chapitre I/Le signifiant et la ve+'rite+'のつづき~。
《問題は、固有の意味と比喩的意味を逆転させることではなく、エクリチュールの「固有の」意味を隠喩性(me+'taphoricite+')そのものとして規定することである。》(p. 27)
 これはエクリチュールがそれ自体で隠喩的意味をもつということであろうか。
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ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル『歴史哲学講義(下)』(岩波文庫) 読みはじめる。第二部「ギリシャ世界」のはじめ~「第1篇 ギリシャ精神の諸要素」のはじめ~。
《ギリシャにやってくると、ただちに故郷にいるような気分になる。そこに精神の土台がしっかりとあるからです。》(8ページ)
と冒頭からヘーゲルは言う。最初に結論ありきのヨーロッパ礼賛だ。ギリシャが世界史の青年期だというのは
《完成にはほど遠い、まちがいだらけの青年期、という意味ではなく、窮屈な分別くさい目的のための労働や労苦に身をいれる必要がいまだなく、具体的で新鮮な青春生活を謳歌できるという意味での青年期、いいかえれば、肉体化された精神、ないし、精神化された感性として、精神的な統一のもとに感覚的な現在を生きるという意味での青年期》
と再定義されている。

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