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2017年6月10日 (土)

読み書き日録2017/6/10

「UP」6月号に目を通す。「学術出版」コラムでKさんが学術書出版300部の時代がきていることを書いているが、恐るべきことに限りなく現実的な話だ。これは現代詩の世界と同じで、著者が寄贈する部数を含んでいるとしたら、マーケットは存在しないも同然ということになる。
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『新潮世界文学32 リルケ』で「マルテの手記」を読みつぐ。以前読んだときは感動した記憶はあるが、今回読むとどこかセンチメンタルなところが気になってあまり進まない。
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森洋子『ブリューゲルの世界』の第4章「作品篇3 農民の季節の仕事と楽しみ」読む。《干草の収穫》《雪中の狩人》ほかの図像学的読解。ブリューゲルには農民への共感があった。
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『石川啄木全集 第二巻 詩集』の「雑誌に発表された詩」の部、つづき。
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アドルフ・ヒトラー『わが闘争(下)II 国家社会主義運動』(角川文庫) の「第十三章 戦後のドイツ同盟政策」のつづき。ドイツでの新しい校訂版の『わが闘争』出版問題が大問題になっていることは深井智朗さんから聞いていたが、日本のテレビでも特集されたらしい。
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テオドール・W・アドルノ『否定弁証法』の第三部「いくつかのモデル」の「III 形而上学についての省察」の7節の途中~12節を読む。
《カントの真理概念の権威性は、絶対者を考えることを禁圧することによってテロリスト的になった。この禁圧は、考えることそのものの禁止にまでとどまることなく突きすすむ。》(477ページ)
《私は愚かさより道化を選ぶ。道化のたわごと、それは真理のある形態なのである。それは、人間が真ならざるもののただなかにありながら真理を断念すまいとすると、ただちに人間を罰する真理の形態なのだ。》(499ページ)
《弁証法はどのような歴史的形態を取った場合でも常に、弁証法の外に出ることを禁じてきた。弁証法は、好むと好まざるとにかかわらず、無制約的〔絶対的〕な精神と有限な精神を概念によって媒介してきた。それゆえ弁証法は断続的に神学を敵とすることになったのである。弁証法は絶対者を思考するには違いないが、その絶対者といえども弁証法によって媒介されたものであり、その意味ではあくまで限界づけられた思考に属している。ヘーゲルの絶対者は神の世俗化されたものには違いなかろうが、まさに世俗化だということを見てとる必要があろう。》(500ページ)
《弁証法の歩みの過程で同一性のテーゼを捨て去ることはなんら大罪ではないのだ。運動をやめ、止まってしまって、あたかも自分がすでに全体であるかのごとくに振る舞ったりしないことこそ、否定弁証法の定義に含まれることなのである。それこそが否定弁証法の希望の形態である。》(502ページ)
 これがアドルノ否定弁証法の結論ということだろう。訳者解題、あとがきも読んでついに読了。まことに読みにくい本であった。

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