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2017年5月27日 (土)

読み書き日録2017/5/27

「多島海」31号、「タルタ」41号に目を通す。いずれも堅実に刊行をつづけている同人詩誌。
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アドルフ・ヒトラー『わが闘争(下)II 国家社会主義運動』(角川文庫) の「第九章 突撃隊の意味と組織に関する根本の考え方」のつづき。このような毒性の強い書物を読むには、ヘイドン・ホワイトやテオドール・W・アドルノを平行して読むことでガス抜きしながら読むとちょうどよい。
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ヘイドン・ホワイト[上村忠男編訳]『歴史の喩法――ホワイト主要論文集成』の「第6章 歴史のプロット化と歴史的表象における真実の問題」読む。これはフリードランダー編『アウシュヴィッツと表象の限界』に収録されたものの再録だが、中身はほとんど忘れている。ナチのホロコーストにたいする歴史記述の問題を論じたもの。ただホワイトの文学的記述への偏見と理解の浅さはいただけない。
《〔ベレル・」〕ラング〔ここではホワイトでも同じ〕にとってなかんずく異論があるのは文学的著作であり、また文学的著作の地位を獲得しようとめざしているたぐいの歴史の著作である。なぜなら、それらの著作においては、表象される事物とそれの表象作用とのあいだに著者自身を割りこませているからである。言述の対象が個人化されるためには比喩化がなされなければならない。そして、その場合には、著者がそのような比喩化行為の行為主体として言述のなかに自身を割りこませざるをえない。文学的著作行為は、比喩化によってのみ個々人の個人化はなされうるという思い違いのもとで遂行されている。》(221ページ)
 歴史的著作の文学的記述にかんしてはともかく、文学行為がたんなる「比喩化」による「個人化」というレヴェルに切り下げられているのは問題だ。そもそも歴史記述の〈直写的=リテラル〉な記述が無邪気に信じられているからだろう。
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加藤尚武著作集の『ヘーゲル哲学の形成と原理――理念的なものと経験的なものの交差』のファイル修正+印刷+通読+表記の一括処理、つづける。「第二章 生の存在構造」のはじめ~七節。第二章もスミ。
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テオドール・W・アドルノ『否定弁証法』の第三部「いくつかのモデル」の「II 世界精神と自然史――ヘーゲルへの補説」の13節~16節を読む。
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「現代詩手帖」6月号(大岡信特集号)読みつぐ。大岡信にかんする追悼文をいろいろ読む。猫思いだった話(財部鳥子)、家族工房的な仕事を通じての言語鍛錬(大岡玲)、吉岡実マイナーポエット評価の裏話(高橋睦郎)など微笑ましくも知られない一面だ。
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『新潮世界文学32 リルケ』で「マルテの手記」のつづき。

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