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2017年3月

2017年3月31日 (金)

読み書き日録2017/3/31

桑野隆『20世紀ロシア思想史――宗教・革命・言語』の第4章「言語思想」の途中まで。ボードアン・ド・クルトネがソシュールに先行して構造主義的言語論を打ち出していた。
   *
日本の民話別巻1『みちのくの民話』の初校通読、つづける。いわての部5話32ページ、スミ。
   *
テオドール・W・アドルノ『否定弁証法』序論15節~第18節、読む。
《理性【ラチオ】というものは、それが思考ではないところのものを忘れ、その所産である抽象物を思考の意に反して実体化するとき、非理性的になる。思考に自足的であれとする命令は、思考に空虚なものたれ、ついには愚昧で野蛮なものたれと申し渡すことになる。》(46ページ)
 アドルノの思弁的原理哲学がもっとも冴えるのはこういうときだ。相対主義にたいしては、《相対主義とは、思想など稼ぎの邪魔になるという俗流唯物論である。》(49ページ)という具合だ。
《思考せずに直観に身を委ねるものは、理性批判において認識の感性的な権原を特徴づけるあの受動的な性質をによって、悪しき肯定になりがちである。》(51ページ)
 これはまさにヘイトスピーチに走るあのバカどもの心性を言い当てている。
《これに反して、すべての思想は潜在的に否定的な運動を誘起する。》(同)
だから権力は思想を怖れるのだ。
   *
松尾真由美詩集『花章――ディヴェルティメント』読了。
〈異物の襞と襞/素朴ではないまろやかな/層が官能を進ませる/どこかで身体が/閉じて開いて〉(145ページ)
 松尾の詩はつねに官能に開かれている。ことばがつねに隠喩的なのはそのせいかもしれない。そのぶん妄想的でもあるのだが。それとも心の叫びが秘められているのか。
〈かさねてたたんで開いていって/こんなにも涙のない/哀しみもあったのだ〉(175ページ)
と開き直られると、そうでもないのかも。

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2017年3月30日 (木)

読み書き日録2017/3/30

新井高子編著『海のおんばが紡ぐ石川啄木(仮)』のWord原稿「二 空【そら】さ吸われだ十五【ずーご】のこころ【こごろ】」「三 女【あなだ】の右手のぬぐいごど」「四 浜どごでぴーひょろろー」「五 えっとう深【ふ】げァ悲すみァ」スミ。おもしろい。
   *
日本の民話別巻1『みちのくの民話』の初校通読、つづける。pp. 55-90. あきたの部3話34ページ、スミ。
   *
桑野隆『20世紀ロシア思想史――宗教・革命・言語』の第3章「『ポスト宗教』思想」読了。マヤコフスキー、メイエルホリド、エイゼンシテインなどの記述。
   *
ジャック・ラング/コラン・ルモワーヌ『ミケランジェロ』の仮ゲラを原書のPDFを確認しながら通読、つづける。第4章「メディチ家の審美眼」を読む。
   *
テオドール・W・アドルノ『否定弁証法』読みつぐ。
《哲学的に思考するということは、まさしくモデルにおいて思考することである。そして否定弁証法とはモデル分析の集合である。》(序論、39ページ)
 なあんだ、そういうことか。
   *
松尾真由美詩集『花章――ディヴェルティメント』読みはじめる。全篇、花をめぐる断章だが、写真もアップで撮られており、妙に肉感的だ。詩もそれに呼応するかのようにセクシュアルなのはいつも変わらないが。

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2017年3月29日 (水)

読み書き日録2017/3/29

ジャック・ラング/コラン・ルモワーヌ『ミケランジェロ』の仮ゲラを原書のPDFを確認しながら通読、つづける。第1章「昼と夜」、第2章「神のごときアーティストの肖像」、第3章「開かれた工房」を読む。
   *
日本の民話別巻1『みちのくの民話』の初校出校。250ページ。~通読、はじめる。pp. 1-4, 11-54.「序にかえて」(木下順二)4ページ、「人間が生まれるまえのはなし」9ページ、あおもりの部7話33ページ。
   *
「現代詩手帖」4月号、読了。ひきつづき野村喜和夫論の残りを読む。年譜であらためて確認すると、かなり遅いスタートだったことがあらためてわかる。
   *
『リルケ全集3 詩集III』で「ドゥイノの悲歌」の「第十の悲歌」の第4節~第12節の註解を読む。これで「ドゥイノの悲歌」読了。
   *
新井高子さんの『海のおんばが紡ぐ石川啄木(仮)』のWord原稿を印刷。37ページだが、実際は39枚。読みはじめる。とりあえず「一 東海【ひんがす】の小島【こずま】の磯【えそ】の砂【すか】っぱで」スミ。

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2017年3月28日 (火)

読み書き日録2017/3/28

ジャック・ラング/コラン・ルモワーヌ『ミケランジェロ』の仮ゲラを原書のPDFを確認しながら通読、はじめる。まずは序文にあたる「芸術よ、我らが望みを呼び覚まさんことを!」を読む。
   *
「現代詩手帖」4月号、読みつぐ。鈴村和成さんはじめ知り合いの野村喜和夫論をいろいろ読む。
   *
「幻竜」25号、「ひょうたん」61号に目を通す。
   *
桑野隆『20世紀ロシア思想史――宗教・革命・言語』の第3章「『ポスト宗教』思想」のロシア・フォルマリズムにかんする記述を読む。芸術の構造性を主張し、文学研究の自律性を確立しようとしていたこと、むかし読んだロマン・ヤコブソンの「最新ロシア詩」などをなつかしく思い出す。構造主義の先駆としてのロシア・フォルマリスムに入れ込んだこともあった。
   *
「季刊 未来」春号の未読分を読む。あわせて「[出版文化再生28]大いなる裏切り――辺野古埋立て承認取消しの取消し」も再読。辺野古の工事再開を導いた県知事の迷走をなんとか止めなければ、大変なことになろう。この文章にご興味のある方はこちらをごらんください。→http://bit.ly/2mErlei
   *
Gustave Flaubert: Madame Bovary 第3部IV章、読了。Emmaがピアノレッスンという口実でLe+'onとの関係が深まる。

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2017年3月27日 (月)

読み書き日録2017/3/27

日本の民話別巻3『みちのくの和尚たち』の初校通読、つづける。第一部近世の部9話31ページで第一部、スミ。つづけて第二部3話20ページ。この巻も読了。
   *
「現代詩手帖」4月号、読みつぐ。北川透・吉増剛造による鮎川信夫賞選考対談では、吉増が全肯定的な読解を示す一方で北川は批評的切断をくわえていくところが対照的だ。両者が一致したのが荒川洋治というのもおもしろい。
つづけて小林康夫・野村喜和夫対談も読む。よく知るふたりのものだが、とくに新しいトピックはなかったかな。アガンベンの『哲学とはなにか』の話でもすればよかったのに。マラルメの「詩の危機 」の「わたしが花!と言う」のこともヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』のこともでてくる。
   *
『リルケ全集3 詩集III』の「ドゥイノの悲歌」の「第十の悲歌」とその第1節~第3節の註解を読む。

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2017年3月26日 (日)

読み書き日録2017/3/26

桑野隆『20世紀ロシア思想史――宗教・革命・言語』の第2章「実証主義を超えて」読了。
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日本の民話別巻3『みちのくの和尚たち』の初校通読、つづける。pp. 109-147. 第一部中世の部5話20ページ。さらに近世の部6話17ページ。
   *
テオドール・W・アドルノ『否定弁証法』読みつぐ。序論10節~13節。
《へーゲルのもとでは、思想はつねにその対象から、それ自体においてすでに思想であるものしか取り出しはしない》(38ページ)
   *
Gustave Flaubert: Madame Bovary 第3部IV章、読みはじめる。
   *
「現代詩手帖」4月号、読みつぐ。詩篇のほか、北川透・吉増剛造による鮎川信夫賞選考対談の途中まで。

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2017年3月25日 (土)

読み書き日録2017/3/25

桑野隆『20世紀ロシア思想史――宗教・革命・言語』の第2章「実証主義を超えて」の途中まで。知らない思想家がいろいろ紹介されている。
   *
「現代詩手帖」4月号(特集:野村喜和夫と現在)が届いていたので、さっそく読みはじめる。
   *
日本の民話別巻3『みちのくの和尚たち』の初校通読、つづける。第一部古代3話14ページ。さらに中世5話18ページ。
   *
テオドール・W・アドルノ『否定弁証法』より。《思考は表現されたものとしてはじめて、つまり言語的叙述によってはじめて的確なものとなる。しまりのない表現は悪しき思考である。》(27ページ)

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2017年3月24日 (金)

読み書き日録2017/3/24

「季刊 未来」春号できる。拙論「[出版文化再生28]大いなる裏切り――辺野古埋立て承認取消しの取消し」掲載。→http://bit.ly/2mErlei
   *
桑野隆『20世紀ロシア思想史――宗教・革命・言語』読みはじめる。まずはお得意のバフチンから。
《バフチンのいう「ポリフォニー」の第一の特徴は、たんに声や意識、ましてやテクストが「複数」あるということにはない。重要なのは、作者と主人公が「対等な」関係にあること、それらの声が「融合していない」こと、そしてそうした声や意識が組み合わさって出来事という統一体をなしているということである。よりたいせつなのは、声の複数性ではなく、作者と主人公のあいだの距離のとり方である。》(6ページ)
《ポリフォニーでは、いわゆるフランス現代思想のように〈作者の死〉が生じるのではなく、むしろポリフォニーにおいてこそ作者はひときわ「能動的」なのである。》(7ページ)
 ここがバフチンの現代性とロシア性の特徴か。
   *
日本の民話別巻3『みちのくの和尚たち』の初校通読、つづける。第一部古代8話35ページ。


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2017年3月23日 (木)

読み書き日録2017/3/23

パソコンの環境設定をほぼ終える。おかげで3日ぐらい仕事にならなかった。これから挽回モードへ。

   * * *

「ぶーわー」38号、「まどえふ」28号に目を通す。
   *
中島吉弘『梯明秀の物質哲学』の原稿読み+テキスト修正、つづける。「終章 三木哲学批判と戦時下の抵抗」の第二節の2項以降、あとがきまでようやくすべて終わる。あす後半の仮ゲラを印刷して中島さんに送る予定。
   *
Gustave Flaubert: Madame Bovary 第3部III章、終り。
   *
星野太『崇高の修辞学』の第九章「読むことの破綻――ポール・ド・マンにおける『崇高』と『アイロニー』」のつづき、さらに結論、あとがきを読み、読了。博士論文だったらしく、綿密な構成だ。
   *
『リルケ全集3 詩集III』の「ドゥイノの悲歌」の「第九の悲歌」の第5節 ~第6節の註解を読む。

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読み書き日録2017/3/22

またまたきょうも新しいコンピュータのセットアップのトラブルで時間をとられてしまった。どういうわけかテンキーが入力できないことになって、DELLテクニカルサポートと長時間にわたって話をしたが、Microsoftのユーザプロファイルのわけのわからないトラブルが原因らしく、結局、新しいユーザアカウントを作ってそちらのセットアップのためにかなり時間がかかった。とりあえず解決したが、こんどはDVD-ROMが動かず、プリンタドライバの再インストールができない。またあす連絡してみる羽目に。
 そんなわけですべてがあす以降に順送り。

   * * *

星野太『崇高の修辞学』の第九章「読むことの破綻――ポール・ド・マンにおける『崇高』と『アイロニー』」の途中まで読む。
《近年の批評の発展は、_¨規範的かつ記述的なかつての修辞学ではなく¨_、修辞的比喩の志向性をめぐる、多かれ少なかれ開かれた問いを提起するものとしての修辞学の可能性を明らかにしている。》(240ページ、ド・マン「時間性の修辞学」からの孫引き)
 まさにその通り! レトリック研究はいまや現代表現論の基軸となるものだ。
   *
中国新聞の荒木さんより返信E-mailできのう送った原稿の手直しの箇所の依頼。~のち、telあり。手直しをしてほしい部分を聞く。過疎の問題が全国的な問題であることをもうすこし強調することにし、本の企画と進行にかんする部分は縮小することに。~夜、かなり加筆と修正。荒木さんにE-mailで送付。
   *
中島吉弘『梯明秀の物質哲学』の原稿読み+テキスト修正、つづける。「終章 三木哲学批判と戦時下の抵抗」の第二節の1項までしか進まず。
   *
仲里効さんよりE-mailで「琉球新報」3月20日~22日号に掲載された「沖縄戦後思想と実践の射程――高橋哲哉氏に答える」上中下のPDFとどく。~データをダウンロードして印刷。読む。
 高橋さんの批判文を読んでいないので確かなことは言えないが、基地引き取り論を、自身の問題として引き受けざるを得なかった沖縄人の内在的視点から「空隙」をもつものとして批判し、《植民地主義と共犯した戦争責任や戦後責任や復帰後責任を潜らない差別解消や平等は虚妄である。》と反論している。これは仲里らしい沖縄思想のラディックスに依拠した視点からの対応だ。

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2017年3月21日 (火)

読み書き日録2017/3/21

「季刊文科」70号の荻悦子の短篇小説「珠と刃」を読む。母との葛藤など父の葬儀をめぐる話。荻さんらしい感覚が出ている。
   *
日本の民話別巻『みちのくの和尚たち』の初校通読、はじめる。はしがき3ページ、第一部古代6話27ページ。
   *
「『中国山地 過疎50年』刊行によせて」を読み直し、加筆。~中国新聞社の荒木さんにE-mailで送付。
   *
星野太『崇高の修辞学』の第八章「光のフィギュール――フィリップ・ラクー=ラバルトと誇張の哲学」を読む。
《「崇高」は芸術の美的な現われの背後に潜むものであるにすぎず、それじたいとしてはいかなる把握からも逃れるものだとしたら、芸術において真に崇高なものとは、誰にも気づかれることなく、いかなる注意からも逃れるものにほかならない。》(228ページ)
 崇高なるものの逆説。
   *
Gustave Flaubert: Madame Bovary 第3部III章、読みはじめる。EmmaとLe+'onの蜜月。

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2017年3月20日 (月)

読み書き日録2017/3/20

星野太『崇高の修辞学』の第三部第七章「放物線状の超越――ミシェル・ドゥギーと『崇高』の詩学」を読む。ドゥギーとロンギノス『崇高論』の関係を論じる。〈崇高〉という概念は「大-言」というテクスト以外で触れられていないと星野は書いているが、ドゥギーの『ピエタ ボードレール』ではボードレールにかんして論じられている。〈高さ〉〈誇張〉等についても同様。してみると、同じ関心のもとに書かれたものかもしれない。
   *
『リルケ全集3 詩集III』で「ドゥイノの悲歌」の「第九の悲歌」と第1節~第4節の註解を読む。
   *
中島吉弘『梯明秀の物質哲学』の原稿読み+テキスト修正、つづける。「終章 三木哲学批判と戦時下の抵抗」の第一節までスミ。

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2017年3月19日 (日)

読み書き日録2017/3/19

「ガーネット」81号、読了。同人詩誌のなかでは群を抜いて読みどころの多いもの。犬派(高階杞一)と猫派(大橋政人)が同居しているのもおかしい。
   *
『リルケ全集3 詩集III』の「ドゥイノの悲歌」の「第八の悲歌」第2節~第5節の註解を読む。
〈……彼等〔動物たち〕の存在は
無限で 意識に捉えられもせず また おのれの状態を
見るということもない ちょうど外を見つめる彼等の眼ざしのように それは純粋なのだ
そして私たちが未来を見るところに 彼等は一切を見ている
一切のうちに自己を 永遠にまったき存在である自己を見ているのだ〉
 このリルケの動物観はすばらしい。動物の純粋さを見ていると人間の浅ましさがときにいやになる。
   *
中島吉弘『梯明秀の物質哲学』の原稿読み+テキスト修正、つづける。「第六章 西田哲学批判と戦時下の抵抗」スミ。
《梯〔明秀〕にあっては、非合理な歴史的事件はその合理化に向けて、疎外された文化的事実から社会的事実へ、社会的事実から制度的事実へ、制度的事実から階級的事実へ、階級的事実から歴史的事実へと、自己否定的実践を媒介として疎外されざる生産的自己としてある歴史的自己の自覚を探求すべき必然性にあるものなのである。》
 戦時中のバカげた軍国主義的盲動妄説をたんに排撃するのでなく、その拠ってきたるところの合理的解釈が可能であり、根拠づける必要を説く視点は今日にも通用する。
   *
日本の民話別巻2『みちのくの長者たち』の初校通読、つづける。第一部青森県3話9ページ。第一部、スミ。つづけて第二部12話42ページ。この巻も読了。
   *
テオドール・W・アドルノ『否定弁証法』読みはじめる。
《矛盾とは同一性の視点のもとで見られた非同一的なもののことである。弁証法における矛盾原理の優位は、異質なものを統一性の思考によって計る。統一性の思考がその限界につき当たる時に、その思考はおのれを乗り超えるのである。》(序論、11ページ)
 これじゃ弁証法は負けるわけがない。
《哲学が本質というものをその有限な諸規定のうちに呪縛しうるという幻想は廃棄されねばならない。》(20ページ)
《芸術を模倣し、みずから芸術作品たろうとするような哲学は、自分自身を抹殺することになろう。》(23ページ)
《概念によって概念を超え出ようとする努力こそが、哲学の仕事なのである。》(24ページ)
   *
中国新聞社から依頼されている『中国山地 過疎50年』にかんする原稿をとりあえず書いてみる。1500字弱。細かいところはあとで確認する必要がある。タイトルはひとまず「『中国山地 過疎50年』刊行によせて」とする。

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2017年3月18日 (土)

読み書き日録2017/3/18

「アリゼ」177号に目を通す。
   *
星野太『崇高の修辞学』の「第六章 「美学的崇高」の裏箔――カント『判断力批判』における修辞学」読む。カント美学の修辞学批判の根底に修辞学が混入しているという問題を指摘している。
   *
日本の民話別巻2『みちのくの長者たち』の初校通読、つづける。第一部岩手県8話21ページ、山形県3話9ページ、秋田県1話4ページ。

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読み書き日録2017/3/17

もう日も変わっているのに、わたしにとってはまだ17日。きょうもコンピュータのセットアップ、相談ごと、夜の移動などで時間をとられてしまった。

   * * *

星野太『崇高の修辞学』の「第五章 言葉と情念――バーク『崇高と美の観念の起源』と言葉の使命」のつづき~了。
   *
日本の民話別巻2『みちのくの長者たち』の初校通読、つづける。pp. 71-106. 第一部岩手県9話36ページ。
   *
『リルケ全集3 詩集III』の「ドゥイノの悲歌」の「第八の悲歌」と第1節の註解を読む。

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2017年3月16日 (木)

読み書き日録2017/3/16

「読み書き日録」などと言っていながら、ちっとも書いていない。それにきのうからきょうにかけて新しいパソコンのセットアップに大わらわ。読みのほうさえ、進んでいない。お恥ずかしい次第です。

   * * *

「森羅」3号、通読。池井昌樹と粕谷栄市が隔月でガリ切りの手作り誌を出すというのはいまどきすごいことだ。限定100部、とも。ありがたし。
   *
中島吉弘『梯明秀の物質哲学』の第四章までの仮ゲラ印刷。50字×19行で本文134ページ、注は22ページ分。とりあえずできたところまで送ることにし、中島さんにtel入れ。~原稿読み+テキスト修正、つづける。家で「第五章 物質哲学の同一性と非同一性」スミ。
   *
Gustave Flaubert: Madame Bovary 第3部のIIの章、終り。

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2017年3月15日 (水)

読み書き日録2017/3/15

「春秋」2/3月号の島薗進論考を読む。乃木希典という将軍は愚直なまでに明治天皇に殉じたという意味では同情すべきかもしれないが、たんなる傀儡軍国主義者を盲信し、のちの軍国主義を鼓舞するのに利用されたという意味では憐れむべき存在でしかない。
   *
中国新聞社・荒木さんよりtel。先日E-mailで話のあった、出版からみた『中国山地 過疎50年』についての原稿の件。過疎とInternetの関係などの新しい展開が見えること、など。調整をしてあらためて連絡くれる由。~のち、telあり。原稿依頼。12字×120行を目安に。早ければ早いほどいい、とのこと。連休明けに送ることに。
   *
中島吉弘『梯明秀の物質哲学』の原稿読み+テキスト修正、つづける。「第四章 全自然史の同一性と物質の構想力」スミ。詳細な議論だが、梯哲学に疎い者にとっては難解だ。
   *
『リルケ全集3 詩集III』の「ドゥイノの悲歌」の「第七の悲歌」の第3節~第7節の註解を読む。
   *
星野太『崇高の修辞学』の第二部「第四章 崇高論の『発明』――ボワロー『崇高論』翻訳と新旧論争」読む。《一八世紀の西欧で生じたのは、「崇高」の衰退ではなく、むしろその興隆であると言ってよい。しかしその中心を占めていたのは、すでにロンギノスの「修辞的崇高」ではなく、バークやカントの手によって近代化された「美学的崇高」であった。》(124ページ)ボワローの翻訳によって歪められた『崇高論』がフランスでなく、イギリスとドイツで美学的に近代化された解釈を与えられたことによって本来の価値を見いだされるのが遅れたことになる。

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2017年3月14日 (火)

読み書き日録2017/3/14

「UP」3月号に目を通す。長谷部恭男のミッテラン暗殺未遂事件の紹介記事を読む。ドゴールも狙われたらしい。《フランスの政治家の生涯を知ると、日本の政治生活の平和さに思いをいたさざるを得ない。おなかが痛いからとか、自転車事故で怪我を負ったからといって、首相や幹事長を辞める方々とでは、くぐり抜けた修羅場の質に隔たりがあるのではなかろうか。》と長谷部は書いているが、まったくその通り!
   *
日本の民話別巻2『みちのくの長者たち』の初校通読、つづける。第一部宮城県8話24ページ、岩手県2話7ページ。
   *
星野太『崇高の修辞学』の「第三章 瞬間と永遠を媒介するもの――『カイロス』と『アイオーン』」のつづき~了。これで第一部、終り。
《そもそも引用という行為は「言表されたこと」を反復するのではなく、「言表すること」そのものを反復する……つまり、話し手から聞き手へと伝達される崇高なロゴスを――人々の記憶において――永遠なるものへと変えるのは、語られた内容(「言表されたこと」)そのものではなく、むしろこの語り(「言表すること」)の反復なのである。》(96ページ)
 意味の伝達から意味を言表する行為そのものの評価へ。ここには引用という記号作用の高次化が見られる。
   *
Gustave Flaubert: Madame Bovaryの第3部のIIの章のつづき。
   *
『リルケ全集3 詩集III』の「ドゥイノの悲歌」の「第七の悲歌」の第1節~第2節の註解を読む。

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2017年3月13日 (月)

読み書き日録2017/3/13

中島吉弘『梯明秀の物質哲学』の原稿読み+テキスト修正、つづける。「第三章 労働過程の存在論と批判的技術学」スミ。これでちょうど半分。
   *
「図書」3月号に目を通す。柄谷行人によれば、島崎藤村の『夜明け前』の主人公、青山半蔵は藤村の父をモデルにしていたという。平田篤胤派の神官で、柳田國男の父と共通するところがおもしろい。~竹中英俊さんからコメント。「青山半蔵は、平田派国学を身につけた、馬籠宿の本陣・庄屋の当主であることが、この小説の上では重要」と。このひとは物知りだなあ。
   *
日本の民話別巻2『みちのくの長者たち』の初校通読、はじめる。はしがき3ページ、第一部福島県4話10ページ、宮城県7話17ページ。
   *
星野太『崇高の修辞学』の「第三章 瞬間と永遠を媒介するもの――『カイロス』と『アイオーン』」読みはじめる。
   *
『リルケ全集3 詩集III』で「ドゥイノの悲歌」の「第七の悲歌」読む。

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2017年3月12日 (日)

読み書き日録2017/3/12

「タンブルウィード」創刊号に目を通す。若尾儀武さんが立ち上げた同人詩誌。読んだことのあるひとが何人も入っている。
   *
中島吉弘『梯明秀の物質哲学』の原稿読み+テキスト修正、つづける。「第二章 全自然史の思想と労働の疎外」スミ。
   *
Gustave Flaubert: Madame Bovary 第3部のIIの章の途中まで。
   *
日本の民話75『奈良の民話』の初校通読、つづける。pp. 252-307. 吉野(南和)の部18話42ページ+わらべ唄14ページ。この巻も読了。これで残すは別巻4冊のみ。
   *
星野太『崇高の修辞学』の「第二章 情念に媒介されるイメージ――『パンタシアー』と『パトス』」読む。
   *
『リルケ全集3 詩集III』の「ドゥイノの悲歌」の「第六の悲歌」の第4節の註解。

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2017年3月11日 (土)

読み書き日録2017/3/11

きょうからこの日録を「読み書き日録」と変更します。

   * * *

星野太『崇高の修辞学』読みつぐ。
《ロンギノスは、冒頭でこそ崇高なるものに達するための「方法」の必要性を説きながら、実際にはその大部分は語り手の偉大な思考と感情の反響であるとし、それを技術的な次元から切り離そうとするのである。》(47-48ページ)
 星野はロンギノスの『崇高論』という著作の難解さは、このテクネーの扱いにあり、この著作を「不必要に難解なものにし、その議論に混乱を招く最大の要因になっている」と解説している。なるほどそういう本か。
《もっとも効果的な比喩とは、それが比喩であるという事実を隠すような比喩なのだ。》(49ページ、ロンギノスからの引用)
 この定義はすばらしい。
《「ピュシス」と「テクネー」の互恵的な関係によって生じる、_¨言語の根源的なエコノミー¨_の構造》(53ページ)とは詩の理想的なことばのありかたであろう。記憶すべきことばだ。
 第一章「真理を媒介する技術――『ピュシス』と『テクネー』」読了。結論としては――
《真理は、比喩の適切な使用法をはじめとする修辞的な次元によってはじめてそれとして明らかにされるのであり、それなしには出来事の本来的な次元――これこそがもっとも本来的な意味での「ピュシス」である――が開示されることはない。》(57ページ)
   *
「イリプスIInd」21号、読了。藤井貞和の講演記録など、なかなか充実した内容だ。八重洋一郎の詩「山桜――敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」がすばらしい。日米の軍事的癒着と米軍得意の「オフショアー・バランシング(沖合作戦)」つまり敵を叩くのに敵の敵を使うという、自分は手を汚さない(金は出す)策略に使われる日本、そしてすぐその猿まねをして沖縄や南西諸島を使って中国と敵対させる卑怯な日本政府を詩のかたちにした傑作だ。
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「PO」164号に目を通す。商業誌の体裁はとっているが、読むところが少ない。
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日本の民話75『奈良の民話』の初校通読、つづける。吉野(南和)の部29話55ページ。
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Gustave Flaubert: Madame Bovary 第3部Iの章、スミ。
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中島吉弘『梯明秀の物質哲学』の原稿読み+テキスト修正、再開。一括修正もいろいろ。「第一章 物質哲学の深層構造と意義」スミ。ひさしぶりに思弁的な哲学論文を読んだな。
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「詩的現代」第二次20号(荒川洋治特集)に目を通す。主要な荒川論を読むが、全体に荒川への評価が高いのはともかく、文章がひとしなみにゆるい。批評ではなく感想文ばかりではないか。これでは荒川の言語戦略を解明することはむずかしい。冨上芳秀がわたしの実名をあげていろいろ書いている。
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『リルケ全集3 詩集III』の「ドゥイノの悲歌」の「第六の悲歌」と第1節~第3節 の註解を読む。

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2017年3月10日 (金)

読書日録2017/3/10

この3日ほどは支払い準備のうえに「季刊 未来」春号の原稿(自分もふくめて)がドサッときて、テキスト処理から仕上げまでに忙殺されて読書はおろかゲラ読みさえもがほとんどできなかった。ここからまた復活。

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T・S・エリオット『文芸批評論』(岩波文庫) の「ボドレール(ママ)」再読。
《とくにフランスの詩が言葉の上に創意を出そうとあせっていたちょうどそのとき、ボドレールはこのような創意を出したのだから、偉大な詩人として詩の歴史上のりっぱな境界標となるだけの価値は十分にある。事実ボドレールはどの国語でも_¨近代¨_詩のなかではいちばんすぐれた手本である、なぜならいままで知っているうちではその詩やその言葉が完全な革新にもっとも近いからだ。》(196ページ)
 エリオットのボードレール評価はここにある。
《人間の栄光は救済をうける可能性だということは本当だが、その栄光は罰をうける可能性だということもこれまた本当である。政治家から窃盗にいたるまでたいていの悪人について言えるいちばん悪いことは、この悪人たちが永劫の罰をうけられるだけの人間でないということだ。》(201ページ)
 これは安倍晋三と森友学園の理事長のことを指しているかのようだ。エリオットの先見の明。
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日本の民話75『奈良の民話』の初校通読、つづける。山中【さんちゅう】(東大和)の部30話53ページ。山中の部、スミ。

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2017年3月 9日 (木)

読書日録2017/3/9

きのう書いた「季刊 未来」春号のための「[出版文化再生28]大いなる裏切り――辺野古埋立て承認取消しの取消し」を読み直し、手を入れる。~仮ゲラを印刷して天野さんから入校へ。~その後、初校、出校。責了に。これにともない、「出版文化再生ブログII-20」として取り込み、ココログの「出版文化再生」ブログと未來社ホームページの[出版文化再生]ブログにアップ。
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「越境広場」3号、ひとまず読了。金平茂紀のスタンディングロック・スー族のレポートは、安倍政権の沖縄差別と同等のアメリカの原住民差別の悪辣さを伝えている。

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2017年3月 8日 (水)

読書日録2017/3/8

「みすず」3月号、読了。岡真理の、世界の矛盾を集約したようなパレスチナ・レポートを読む。いつも感心する。
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「越境広場」3号、読みはじめる。まず仲宗根勇さんの論文を読む。法律論に根ざした安倍強権政権の無法ぶりをこの間の辺野古・高江の闘いの経緯を明快に解説してくれる。その強権政治ぶりが沖縄においてとみに顕著になっていると指摘している。これはどうも昨年12月26日の翁長県知事による辺野古埋め立て承認の取り消しの取り消しという大いなる裏切り以前に書かれたものと思われる。この件は『沖縄思想のラディックス』の「総括的まえがき」の厳しい翁長批判を読んでもらう必要がある。
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「季刊 未来」春号のための[出版文化再生28]の原稿を一気に書く。タイトルはとりあえず「大いなる裏切り――辺野古埋立て承認取消しの取消し」とする。


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2017年3月 7日 (火)

読書日録2017/3/7

「季刊 未来」春号の郷原宏さんの原稿「岸辺のない海――石原吉郎ノート7(七)強制と共生」のテキスト処理+通読+印刷。さすがに切れ味のある文章は健在だ。ただし1ページ分不足。~郷原さんにFAX&tel。今回は9ページで進めることに。~のち、FAXで校正もどる。まだ3行パンクしていたので、再度の修正を依頼。~ファイル修正して入校へ。
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「みすず」3月号、読みはじめる。最近は大井玄という精神科医の連載を愛読している。今回はトランプ大統領批判。曰く《「アメリカ第一主義」のトランプ新大統領は、嘘つきで、人種差別を行ない、強者の論理を弱者に押しつけるガキ大将的精神年齢の持ち主である。……/確実なのは、自由で民主的で寛容だという誇らしいアメリカのイメージが、霧散消失しつつあることだ。/前代未聞のショーが始まる。》
 どこかの国のアベと双璧だ。
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「雨期」68号に目を通す。むかしの同人仲間、須永紀子の編集。どういうわけか、倉田比羽子論を連載している。
   *
*星野太『崇高の修辞学』の第一部第一章を眠くなるまで読む。

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2017年3月 6日 (月)

読書日録2017/3/6

日本の民話75『奈良の民話』の初校通読、つづける。pp. 101-138. 国中【くんなか】(北和・中和)の部14話38ページ。国中【くんなか】(北和・中和)の部、スミ。
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中島吉弘『梯明秀の物質哲学』の原稿読み+ファイル修正(時計数字処理、表記統一など一括処理もいろいろ)をつづける。「序章 問題設定と分析視座」の三節~五節、おわりに、と対応する注。序章、スミ。
   *
「現代詩手帖」3月号、読了。ダダ、シュールレアリスム特集号だが、いま、なぜ、この特集なのか、もっと掘り下げてもらいたかった。
   *
『リルケ全集3 詩集III』の「ドゥイノの悲歌」の「第五の悲歌」とその第4節~第7節の註解を読む。

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2017年3月 5日 (日)

読書日録2017/3/5

この読書日録はTwitterでは制約されてしまう文字数にこだわらずに書くことができるというメリットがある。FACEBOOKは文字数制限がないが、読んでくれるひとが限られる。この日録を書くことで読んだ感想を残しておけるというメリットがあることがわかった。どこかで役に立つかもしれない。

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T・S・エリオット『文芸批評論』(岩波文庫)の.「批評の限界」再読。エリオット晩年の詩論で若いときに書いた詩論を踏まえながら成熟した総括的観点を示している。
《私のいう仕事場の批評〔自作についての批評を指す〕は、一つのはっきりした限界をもっている。詩人自身の作品と関係のないものや詩人の性質に反するものは、その詩人の手に負えないものだ。》(85ページ)
《詩の流れ出た源泉について知識を得ても詩を理解する役立つとは限らない。詩の源泉について物知りになりすぎると、詩と自分との接触をぶちこわすことになるかもしれない。……あらゆるすぐれた詩のなかには、詩人についての知識がどれだけそろっていても、とうてい説明のできないものがある。しかもそれがいちばん大事なものだ、と言いたいのである。詩ができ上がった時には何か新しいことが起こったので、それは_¨その前にあったどのことがらによっても¨_説明しつくせないものだ、「創作」とはそういうものだと私は信じている。》(93-94ページ)
 詩の魅力とはその源泉だけではとうてい語りつくせないということだ。それでは詩論はどうするのか。
《本当のことをいうと、詩は理解しなければ十分に楽しめない、また詩はたのしまなければ十分理解できないということもやはり本当である。》(99ページ)
 ここまで言われると、仰せの通りというしかない。
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日本の民話75『奈良の民話』の初校通読、つづける。pp. 50-100. 国中【くんなか】(北和・中和)の部23話51ページ。
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星野太『崇高の修辞学』読みはじめる。若手のロンギノス『崇高論』を素材にしたレトリック論で、これはおおいに期待できる。まずは「序論」を読む。この本がたんに興味深いという以上のものがあるのは、わたしがこれから展開しようとしている詩的レトリック論と深いかかわりがありそうだからである。
 というのは、《言葉は、それがいかに率直なしかたで用いられたとしても、みずからの修辞的な文彩を完全に排除することはできない。そして重要なのは、いま述べた意味での「修辞的な」文彩というものが、その「文字通りの」意味内容に対して排他的な位置を占めるものではないということだ。》《もっとも極端に言えば、われわれが用いる言葉のうち、_¨およそ修辞的でない言葉など存在しない¨_。……ここから言えるのは、われわれが言語を用いる以上、そこで伝達されるべき「内容」からいっさいの「文彩」を排除することなど不可能だということだ。》(22ページ)
ということから、《レトリック、つまり修辞学/弁論術は、かつて西欧において厳密に体系化された――そして近代において急速に衰退した――ひとつのディシプリンであるにとどまらず、本来われわれの言語活動のすべてを巻き込んでいる。》(23ページ)
という前提はすべて承認できるからだ。言語とは日常言語においてもすべてレトリックである、すくなくともその要素を排除できないのである。そして詩的言語とはそれ自体がメタレトリックであるというのが、ジェラール・ジュネットに依拠してわたしが言いたいことなのだ。
   *
中島吉弘『梯明秀の物質哲学』の原稿読み+ファイル修正(時計数字処理など一括処理もいろいろ)をはじめる。「序章 問題設定と分析視座」のはじめに、一~二節と対応する注。
   *
『リルケ全集3 詩集III』の「ドゥイノの悲歌」の「第五の悲歌」とその第2節までの註解。

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2017年3月 4日 (土)

読書日録2017/3/4

この読書日録をつけはじめてちょうどひと月になった。あっという間のことだった。いつまで続けられるかな。

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T・S・エリオット『文芸批評論』(岩波文庫) の「批評の実験」再読。そんなにおもしろくはなかったが。
《どの世代もそれぞれに新しい見解をもつというだけでなく、世代は批評家によって自己を意識するということがはっきりわかっているのだから、批評家の仕事は二重になる、つまり現在に対して過去を説明し、過去に照らして現在を判断することである。》(57ページ)
 世代の自己意識は批評家がつくりだすというのはごく稀にだが、たしかに現実に起こる。
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『リルケ全集3 詩集III』の.「ドゥイノの悲歌」の「第四の悲歌」第3節、第4節の註解。
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日本の民話75『奈良の民話』の初校通読、はじめる。pp. 1-4, 15-49. まえがき4ページ、国中【くんなか】(北和・中和)の部15話33ページ。
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「現代詩手帖」3月号、読みつぐ。塚原史・朝吹亮二対談「ツァラの〈無意味〉、ブルトンの〈驚異〉」をおもしろく読む。朝吹が、シュールレアリスム的自動記述の主体は言語そのものないし言語活動である、と言うのは正解である。マラルメ以後の詩的言語の根本には言語に主導権を明け渡すという原理が働いていることへの自覚があるが、自動記述のそれはこの原理をさらに強調したものである。

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2017年3月 3日 (金)

読書日録2017/3/3

T・S・エリオット『文芸批評論』(岩波文庫) で「批評の機能」再読。
《実際、作品を書く場合に作家が投下する労働の大部分を占めるのは批評的労働であろう。別の言葉でいえば、ふるいにかけたり、つなぎ合わせたり、組み立てたり、けずったり、直したり、ためしたりする労働だが、このやっかいな仕事は創造的というだけでなく批評的である。》《批評的活動は、芸術家のはたらきで創作と結合した一つのかたちになってもっとも高くほんとうに完成したものになるのだ。》(49, 50ページ)
 エリオットは批評的活動の創作活動にたいする積極的価値を高く評価する。鮎川信夫や大岡信が受け継ぐ重要なポイントだ。
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「現代詩手帖」3月号、読みはじめる。まずは詩作品から。
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Gustave Flaubert: Madame Bovary 2ページ分。
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『鮎川信夫全集IV 評論III』の再読つづける。「ヴァレリイについて」再読。70年前の二〇代のときの文章だからしょうがないが、誤解だらけのずさんな文章だ。「ボードレールについて――近代的心情」も読む。
《ボードレールの抱いた夢が、常に破滅的であったということは、改めてわれわれに近代的自我の暗い宿命を考えさせずにはおかないものがある。なぜならば、それはすべての現代の詩人にも関係があることだからである。》(320ページ)

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2017年3月 2日 (木)

読書日録2017/3/2

T・S・エリオット『文芸批評論』(岩波文庫) の「完全な批評家」を読む。エリオットは保守的だが、さすがだ。
《〔詩を〕「知的活動をもっともすぐれた形で組織したもの」というような言葉が、現代批評の著名な代表者〔エドマンド・ゴスを指す〕によって行なわれた最高の思想表現だとすれば、それこそ近代の批評は堕落しているということになる。》(22ページ)――いまでもときどきいるよな、こんなのが。
《芸術家の批評は批評になるのである。たいていの人は抑圧された創作の欲望を満たそうとしてこっぴどくやられがちだが、芸術家の批評はそんなものではない。》(28ページ)この断言はすごい。
《もとよりアリストテレスは、知性が目立つというだけでなく、その知性が普遍的であった。普遍的な知性とはアリストテレスがその知性を何事にでも応用することができたという意味である。……感覚の分析をすばやく行なって原理や定義に及ぶというようにいつの時代でも知性そのものが働く実例を見るのである。》(31-32ページ)
《だが本当に大事なことがらについては批評家があれこれ強制してはいけない、またよい悪いの判断を下してもいけない。批評家はただ対象を解明するだけでよい。正しい判断は読者が自分でするだろう。》(32ページ)エリオットは短い断言で本質的なことを言っている。
《本当に鑑賞力のある精神のなかでは、知覚したものは塊りとなって積みかさなるのではなく、組織となって形をととのえるのである。批評とはこの組織の言葉で書いたもので、それは感受性の展開なのである。》(36ページ)その通りだ。
《批評と創作という感受性の二つの方向はたがいに相補うものである。現在ではこの感受性が稀になって一般にいきわたっていない。それでかえって望ましいものになっているから、批評家と創作家とはなるべく多く同一の人であることを期待しなければならない。》(37ページ)このエッセイには珠玉のことばが並んでいる。
   *
『鮎川信夫全集IV 評論III』の再読つづける。エリオットがらみのエッセイ3篇を読む。鮎川へのエリオットの影響は感じ方から考え方まで強いことをあらためて確認。エリオットを〈極端にインパーソナルな詩人〉と呼んでいる。
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「兆」173号に目を通す。なぜか同人各人の代表詩選特集。小松弘愛、林嗣夫、清岳こう、などの個性派がそろっている。

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2017年3月 1日 (水)

読書日録2017/3/1

T・S・エリオット『文芸批評論』(岩波文庫) の「伝統と個人の才能」を再読。《事実、詩人の精神は無数の感情や語句や形象をとらえてたくわえておく入れもので、その感情や語句や形象は新しい複合体を構成するために細かい部分がすべてそろうまで詩人の精神のなかにとどまるのである。》(15ページ)

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