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2017年3月 5日 (日)

読書日録2017/3/5

この読書日録はTwitterでは制約されてしまう文字数にこだわらずに書くことができるというメリットがある。FACEBOOKは文字数制限がないが、読んでくれるひとが限られる。この日録を書くことで読んだ感想を残しておけるというメリットがあることがわかった。どこかで役に立つかもしれない。

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T・S・エリオット『文芸批評論』(岩波文庫)の.「批評の限界」再読。エリオット晩年の詩論で若いときに書いた詩論を踏まえながら成熟した総括的観点を示している。
《私のいう仕事場の批評〔自作についての批評を指す〕は、一つのはっきりした限界をもっている。詩人自身の作品と関係のないものや詩人の性質に反するものは、その詩人の手に負えないものだ。》(85ページ)
《詩の流れ出た源泉について知識を得ても詩を理解する役立つとは限らない。詩の源泉について物知りになりすぎると、詩と自分との接触をぶちこわすことになるかもしれない。……あらゆるすぐれた詩のなかには、詩人についての知識がどれだけそろっていても、とうてい説明のできないものがある。しかもそれがいちばん大事なものだ、と言いたいのである。詩ができ上がった時には何か新しいことが起こったので、それは_¨その前にあったどのことがらによっても¨_説明しつくせないものだ、「創作」とはそういうものだと私は信じている。》(93-94ページ)
 詩の魅力とはその源泉だけではとうてい語りつくせないということだ。それでは詩論はどうするのか。
《本当のことをいうと、詩は理解しなければ十分に楽しめない、また詩はたのしまなければ十分理解できないということもやはり本当である。》(99ページ)
 ここまで言われると、仰せの通りというしかない。
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日本の民話75『奈良の民話』の初校通読、つづける。pp. 50-100. 国中【くんなか】(北和・中和)の部23話51ページ。
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星野太『崇高の修辞学』読みはじめる。若手のロンギノス『崇高論』を素材にしたレトリック論で、これはおおいに期待できる。まずは「序論」を読む。この本がたんに興味深いという以上のものがあるのは、わたしがこれから展開しようとしている詩的レトリック論と深いかかわりがありそうだからである。
 というのは、《言葉は、それがいかに率直なしかたで用いられたとしても、みずからの修辞的な文彩を完全に排除することはできない。そして重要なのは、いま述べた意味での「修辞的な」文彩というものが、その「文字通りの」意味内容に対して排他的な位置を占めるものではないということだ。》《もっとも極端に言えば、われわれが用いる言葉のうち、_¨およそ修辞的でない言葉など存在しない¨_。……ここから言えるのは、われわれが言語を用いる以上、そこで伝達されるべき「内容」からいっさいの「文彩」を排除することなど不可能だということだ。》(22ページ)
ということから、《レトリック、つまり修辞学/弁論術は、かつて西欧において厳密に体系化された――そして近代において急速に衰退した――ひとつのディシプリンであるにとどまらず、本来われわれの言語活動のすべてを巻き込んでいる。》(23ページ)
という前提はすべて承認できるからだ。言語とは日常言語においてもすべてレトリックである、すくなくともその要素を排除できないのである。そして詩的言語とはそれ自体がメタレトリックであるというのが、ジェラール・ジュネットに依拠してわたしが言いたいことなのだ。
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中島吉弘『梯明秀の物質哲学』の原稿読み+ファイル修正(時計数字処理など一括処理もいろいろ)をはじめる。「序章 問題設定と分析視座」のはじめに、一~二節と対応する注。
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『リルケ全集3 詩集III』の「ドゥイノの悲歌」の「第五の悲歌」とその第2節までの註解。

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