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2017年2月15日 (水)

読書日録2017/2/15

この記録をつけるのもどうしても夜から夜中になってしまう。昼間は仕事中心だし、ひと区切りつくのが遅くなりがちだからだ。

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『Hiromi Nagakura長倉洋海写真集』のテキスト部分(キャプション、エッセイ、奥付、等)を通読。訂正箇所を見つけて天野さんに戻す。
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日本の民話74『近江の民話』の初校通読、つづける。pp. 115-150. 湖東の部6話21ページ。湖東の部、スミ。つづいて湖北の部3話12ページ。
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「季刊 未来」春号の深井智朗「一五一七年から二〇一七年へ なぜ宗教改革五百年を祝うのか」の仮ゲラ、通読。図版の指定も。連載1回目。あす深井さんに渡す予定。
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マッシモ・カッチャーリ[上村忠男訳]『抑止する力――政治神学論』の第七章、第八章、読む。
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井坂洋子詩集『七月のひと房』通読。なぜか安心して読めるなかにやはり井坂さんらしい切れ味鋭い行が立ち並ぶ。どれでもいいが、たとえば「戸口」という詩の後半。〈ある夜明け/戸口に立って迎え入れてくれる老女のことばに/全身でふりむいて/耳を切りおとす//彼女は何も聞くまいとする/うす目をあけて/誰かが与えてくれた甕の水をのみながら/その仄白いのどぼとけが/彼女とは無関係に/ゆっくり自律的に動く〉など、観察眼の細かさと場面設定のあざやかさは健在だ。〈店の熱帯魚を目で追っているつもりが/水槽に映った自分の顔を/ぼんやり見ている/……映る顔を/すみずみまで自分だと/まごうことなく 此処にいると/思えたことがない〉(「水のなかの小さな生物」)などというのはどうだろう。すこしことばの毒が抜けて内省的になりすぎていないか。よけいなお世話かもしれないが、同じ年だけに気になる。
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マラルメ "Correspondance 1962-1971" からの抜き書き(つづき)。《ごめんよ。ぼくが発明しいまも実践しているある処方で終わらせてくれ。「書いているものの始まりと終りをいつもカットすること。イントロもフィナーレもなしだ。」》(1864.4.25 アンリ・カザリス宛て)
《紙をまえにして、芸術家は_¨みずからを立ち上げる¨_》(1865.2 ウージェーヌ・ルフェビュール宛て)
《ひとことで言えば、ぼくの作品の主題は「美」であり、その明らかな主題は、「美」へ赴くための口実でしかない。それは、思うに「詩」ということばだ。》(1865.12.31 ヴィリエ=ド=リラダン宛て)
《ぼくは昨晩、わが「詩」をその裸形で見直してかなりしあわせでした。》(1866.1.3 テオドール・オーバネル宛て)
《君に言おう、ぼくはこの一か月来、「美学」のもっとも純粋な氷河にいて、――「虚無」を見つけたあとでぼくは「美」を見つけたわけだ――そして、君はどんな明晰な高度のなかをぼくが冒険しているかを想像することもできない、ということを。》(1866.7 カザリス宛て)
《ぼくについて言えば、この夏はこれまでの生涯よりも仕事をしたよ。全生涯のために仕事をしたと言うこともできる。ぼくはすばらしい作品の基礎づけをした。すべて人間はある「秘密」をみずからのうちにもっている。その多くはそれを見出されないうちに死んでしまう。それは死んだがゆえに見出さないだろうし、もはや存在しないだろう。》(1866.7.16 オーバネル宛て)
《われわれがとくに狙いを定めなければならないこと、それは詩のなかで、語――すでにもはや外部の印象を受け取らないほど十分にそれ自身である語――が_¨互いの上で反映しあい、結果としてそれぞれの色合いをもはやもたず音階上の転移にすぎなくなる¨_、ということだ。それらの語のあいだには空間もなく。そしてそれらが驚異に触れるとはいえ、ぼくがしばしば思うのは、_¨あなたの語が、宝石類のモザイクのようにそれらの固有の生をあまりにわずかすぎるほどしか生きていない¨_ことなのである。》(1866.12.5 フランソワ・コペー宛て)

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