« 読書日録2017/2/24 | トップページ | 読書日録2017/2/26 »

2017年2月25日 (土)

読書日録2017/2/25

峯澤典子詩集『あのとき冬の子どもたち』通読。なにか傷心のパリその他への旅の詩と読める。
〈冬を越せないいきものを/あっけなく野に放つように/携帯電話の通話履歴をすべて消した〉(「パリ、16時55分着」)
〈追いつめられ/血や心を抜かれるとしても/ほかに行き場がない/人間もいるということも〉(「サイレン」)
〈生きている理由を/もう増やさないために/ホテルを出て/旅をつなげた〉(「滞在」)
――とてもヘビーだが、後半はいくらかそこから脱出しかけた癒やしと断念の空気が感じられる。H氏賞もとっている力のあるひとだと思うが、こういう詩を書かなければならない個人的な必然があったのだろう。傷ましいことだが、これも詩の効用のひとつである。
   *
ジョルジョ・アガンベン[上村忠男訳]『哲学とはなにか』の「言い表しうるものとイデアについて」を読みつぐ。アガンベンはどうやらプラトン的イデア主義者であるようだ。ギリシア語が頻出するので理解がむずかしいが。
《イデアの問題を〈普遍的な問題〉と同一視したことが、アリストテレスに始まって、古代末期の註解者たち、さらにはスコラ哲学にいたるまでのイデア理論の受容史とそこにおける誤解の特徴をなしてきた》(90ページ)
《まさに「イデア」という言語的表現の分析から出発してこそ、アリストテレスの解釈の不適切さを明らかにすることが可能となる。と同時に、プラトンの理論のより正確な理解にむけて接近していくことが可能となる。》(93ページ)
《しかしながら、前方参照【アナフォラ】化された語を同定することはとても簡単などころではない。》(99ページ)とあるように、〈イデア〉の理論と理解は論理的には循環するようだ。つまり前提として設定された命名をあとで再帰的に定義として取り込むということか。
 だが、アガンベンはこの循環をつぎのように超越する。
《プラトンは直接的なものからではなく、すでに言語活動のうちにある存在から出発しているのであり、そこからつぎには弁証法的に、言語活動をつうじて、事柄それ自体へとさかのぼっていこうとしているのである。》(100ページ)
 これは「円」というものを定義するのに「円-といわれているもの」をもってするということだ。循環からのうまい脱出法だ。
   *
『リルケ全集3 詩集III』の「ドゥイノの悲歌」の第三の悲歌のつづきとその註解、スミ。この悲歌はフロイト的な精神分析にかなうところがあると解釈する研究者がいるらしい。やっぱりね。
   *
Gustave Flaubert: Madame Bovary 第3部のI、読みはじめる。
   *
鮎川信夫論の「2 鮎川信夫という方法」の「2─2 〈内面〉という倫理」の4節目を書く。とりあえず6枚半ほど。この項もこれで終了か。

|

« 読書日録2017/2/24 | トップページ | 読書日録2017/2/26 »

読書日録」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1007862/69725027

この記事へのトラックバック一覧です: 読書日録2017/2/25:

« 読書日録2017/2/24 | トップページ | 読書日録2017/2/26 »