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2017年1月

2017年1月26日 (木)

2─1 鮎川信夫という方法:モダニズムから新たな意味の発見へ(3)

 鮎川信夫における内部(内面)の構築への先験性は、一方で時代から強いられたものではあるが、それ以上にひとりの詩人としての自覚において時代に先駆けてみずからの〈個我意識〉の確立を急ぐところに理由があった。それは《僕たちが戦前に於いてすでに戦後的であった》(「現代詩とは何か II幻滅について」『鮎川信夫全集第II巻 評論I』一九九五年、思潮社、六五頁)という自覚をもつ鮎川たち荒地派の詩人においては、戦後においてもあらためて時代にたいする自分たちのプライオリティを自他ともに確立してみせる必要があったからである。それが周囲の者たちに彼らの思想的倫理的優位性を誇示しているかのように見えたとしても不思議ではない。
 たとえば、鮎川より一世代(九歳)ほど下の新川和江(一九二九年生まれ)はあるインタビューでこんな感想をもらしている。
《「荒地」の詩でなければ詩ではないみたいな時代が十数年続きました。……でも「荒地」のひとたちの考えかたというのも、やっぱり理解できる。敗戦という未曾有の体験を日本はしたわけですからね。そのあとで甘美な歌は歌えない。もう歌う時代ではない。ものを考える時代になった。その移行のしかたはよく理解できました。》(「いま在るところをみなもととして」、現代詩文庫『続続・新川和江詩集』一四二頁、初出は「現代詩手帖」二〇〇七年十月号)
「荒地」とは無縁なところからみずからの詩の出発をとげた新川和江にしてこうした同時代感覚はやはりあったのである。さきに引用した「戦後詩人論」のなかで《歌う詩から考える詩へ》と鮎川が述べているところにこの新川の感慨はぴったり照応する。それほどに鮎川の詩論的リードには強度があったということだろう。同じ認識は『北川透 現代詩論集成2――戦後詩論 変容する多面体』の「なぜ、戦後詩なのか――『あとがき』に代えて」のなかでも確認することができる。
《戦後詩として語られるのは、「荒地」や「列島」以後の詩人たちの詩に対してである。わたしの経験では、戦後詩人でなければ詩人ではない、といった圧倒的な感性が支配した時期があった。それがまさしく戦後だったのだが、この戦後詩を非戦後詩と区別する、かなり強固な共同性が、どのように成立したのかはわからない。わたしが詩や批評を書き出した一九六〇年代の初めには、すでにそうした呼び方は一般化していて、わたしなど自然に受け入れていた、と思う。》(五三六頁)
 北川は新川よりさらに六歳下の一九三五年生まれである。その北川にとっても、すでに詩や批評を書きはじめた時点では戦後詩的共同体=「荒地」的共同性が確立されていたことに異和感をもたなかったし、その経緯も不明であるというのである。わたしなどさらにずっと後発の者にしてみれば、北川透の荒地論などこそが、鮎川や吉本隆明などの展開したこうした戦後詩的共同体をその後も一貫して下支えしてきたのではないかと思えてきたのであるから、この指摘には相当に驚かされる。戦前から戦後にかけて詩を書きつづけて詩人たちの多くを排して、「荒地」的戦後精神を自覚的にもった詩人たちのみが戦後の詩の世界で、いわゆる〈戦後詩〉の詩人たちとして支配的になったことになるが、おそらく一九五〇年代にこうした鮎川を先頭とする「荒地」派の精神的支配は一気に形を整えたのだろう。新川が《「荒地」の詩でなければ詩ではないみたいな時代》と言い、北川が《戦後詩人でなければ詩人ではない、といった圧倒的な感性が支配した時期》と言うように、小さな差異はあるが、逆にそのことは「荒地」=〈戦後詩〉ということを明示しているのではないか。〈戦後詩〉が戦後の詩一般を指すのではなく、ある特異な精神の共同性の歴史的所産であることはいまから見ればあたりまえのことだが、当時の渦中にあった戦後現代詩にあってはその共同体の掣肘力こそがあたかも詩の唯一のありかたとされていたことになる。これは現在のように価値が多元化し、ことばの内実が拡散ないし空洞化しているような時代からはなかなか想像もできないことではないだろうか。

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2017年1月24日 (火)

2─1 鮎川信夫という方法:モダニズムから新たな意味の発見へ(2)

 鮎川信夫という存在を、すでに「1 鮎川信夫とは誰か」で示したようにその個人的実存の不可解さと独自性において後付け的に了解することとは別に、鮎川がその同時代のなかで果たした役割について考えてみると、そこに鮎川個人の実存を超えた、あるいはそういったものを関与させない独自の意識のありかたを認めることができる。それは形をとり始めたばかりの〈戦後詩〉のあるべき姿にたいする責任意識というかリーダーシップとも言うべき、みずから選択した社会意識によって要請されたものではないか、とここではまず想定しておこう。戦後の混沌のなかで、戦前から継続してつきあってきた仲間たちとの出会い直しのすえに組まれた第二次「荒地」グループとの詩的思想的連繋のなかから自他ともにおのずと認め(られ)ることになったグループリーダーとしての立場の延長にそれがあったことはたしかだろう。

 とはいえ、戦後の社会的混乱の地平のなかでは詩の存在などはきわめて小さなものであったはずだ。あすも食えるかどうかの貧窮のなかでひとびとは日々の生活を送らざるをえなかったのであり、前世代の多くが戦争によって死んでしまったか、相対的に影響力を行使しえなくなっているなかで、いまではとうてい考えられないほどに若い世代が次の時代を切り開いていく責任を全面的に背負って登場しつつあったのである。なんらかのかたちで戦争に加担してきた前世代のひとたちは直接的な意味で戦争責任を負わされるか、おのずから沈黙にいたるか、さもなければ口を拭って進歩的な態度をとりつくろって時代をやり過ごそうとしていたはずである。詩というマイナーな領域においてもそうした社会の一般的風潮は反映していた。そうしたキズを負わない世代こそが、内心の葛藤から解放されて相対的に自由に時代に対処することができた。鮎川信夫もそうした若い知識人のひとりとして詩の世界に(再)登場してきたのである。

 一九五五年に書かれた「戦後詩人論」という短いが重要な文章が鮎川にある。この年は戦後十年を経たところで、翌年に当時の経済企画庁が発表した経済白書(「昭和三一年度年次経済報告」)において《もはや「戦後」ではない》と公式化された年である。朝鮮戦争による特需景気などもあって日本経済は復活しつつあったことは紛れもない事実であるが、実際の生活レベルにおいてもそうであったかどうかはともかく、時代的にはそうしたひと区切りをつける中間総括的要請がこの時代にはたらいていたと思われる。そうした時代を背景として鮎川の「戦後詩人論」はその年の「詩学」の臨時増刊号に書かれたのである。

《戦後の詩と、戦前の詩を区別する最も大切な違いはどこにあるかといえば、詩人も読者も、詩の内容から「意味」を期待するようになったことではないか、とぼくは考えている。それは、歌う詩から考える詩へのプロセスとして理解されるよりも、いっそう深いところで詩人の生き方につながる思想的倫理的問題を提起するものであった。……/戦後社会の荒廃した状況のなかにあって、痛烈な言葉への不信を経験した詩人たちが、生活の土台から切りはなされて形式化してしまった過去の詩の概念に、なんの興味も感じなかったとしても不思議はない。その機能と自律性を失った在来の詩の言葉をすてて、戦後詩人は、言葉の価値を自己の経験によって確かめてゆかなければならなくなったのである。(……)意味の回復への衝動は、世代のちがい、流派のちがいを超えて、すべての詩人の心の奥底にうずいていたように思う。》(『鮎川信夫全集第IV巻 評論III』二〇〇一年、思潮社、一九四―一九五頁)

 こうした「意味の回復への衝動」は戦前、戦中における失われた意味、ありうべき意味をこの世界に取り返すという以上の強い要請として戦後のひとびとの意識を動かすものであった。現在からみると、〈意味〉とはさまざまな負荷のかかった鬱陶しいものであり、場合によってはイデオロギーとして固着したものであったり死語でさえあるかもしれないことばになってしまったが、この戦後十年の時点では、〈意味〉とはなにものかから受動的に与えられるようなものではなく、そのつど新たに勝ち取られるべき将来への希望の符牒だった。敗戦の荒廃を経て、それぞれが新しく個人として生きるためにはまず生きることのそれぞれの意味を見出すことが必要だったのである。その歴史的時代的必然性を確認すべきであろう。

 そして鮎川は同じ文章のなかで《ぼくは、戦後の詩意識の核心を(……)意味の回復から、どうにか個我意識を内実させる価値観ができつつあるという点に求める者である》(同前、一九六頁)として、詩人の存在を、そうした時代的な意味回復の流れのなかで詩人としての〈個我意識〉の獲得といった価値づけのほうへと押し進めるのである。そしてさらに《戦後の詩人にとって最も重要な関心事》として《自己の内部との調整》が必要であり、そのまえに《内面生活の倫理性》(同前、一九八頁)を問題にしたかったとし、こう書く――
《内部と外部は、対立関係であるより先に相関関係である。すなわち、内部とはさまざまな外部が意識化されたものであり、外部とはさまざまな内部が物質化されたものに他ならない。》(同前、一九九頁)

 こうした鮎川の内部(内面)と外部(社会)といった分節はいまからみると単純な二元論に見えてしまうが、当時としては相当に切迫した時代意識を反映したものであろう。そして詩とはこの強固な〈内面〉から外部へ向けての射出である、といった思考の傾きをもつにいたるのは必至だったといまは考えておくしかない。(2017/1/23初出、1/25加筆)

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2017年1月 5日 (木)

2─1 鮎川信夫という方法:モダニズムから新たな意味の発見へ(1)

 わたしはすでに「現代詩手帖」二〇一六年四月号から八月号まで五回にわたって連載〈鮎川信夫とは誰か〉という文章を発表した。これはいま、この時代にあらためて鮎川信夫という詩人を理解するためには最小限の了解事項を明らかにしておきたい、という念願のもとに発想されたものであり、鮎川没後のさまざまな新しい情報――主として詩人の秘められた知られざる私的生活にかんするもの――をもとに、詩人の伝記的側面を洗い直すことによって、鮎川という詩人像の歪みや一面性を_¨正そう¨_という野心をもつものであった。いわば、鮎川信夫の神格化を解体し(鮎川自身のことばを使えば〈神話はがし〉)、その一方で、この詩人の政治的立場にたいする無用な反発を斥けるためでもあった。この方法が、一部の初期作品を除いて、鮎川の詩そのものを直接的にはあまり論じていないのも、とりあえずそうした側面をきちんと把握しておく必要があると感じたからである。もちろん、この暫定的な見取り図は今後の論述の展開を経て修正されていくところもあるだろうが、まずはひととおり論じ尽くされた感のある鮎川信夫という詩人を対象として論じていくためには、そうした手続きが必要だと思われたのである。
 そして断わるまでもなく、いまごろ鮎川信夫を論ずるのは詩人論それ自体に自足するのではなく、ありうべき現代の詩を模索するためでもある。「現代詩手帖」連載時においてもどれだけのひとが読んでくれたか知らないが、鮎川はいまそれほど関心をもたれているとは思えない。それほどにも現代詩人たちは視野が狭く、他者はむろんのこと、詩の歴史的地平への関心もなくなっているように見えてしかたがない。アドルノの言ではないが、「独り合点にあぐらをかいているために生ずるような種類の難解さ」(『ミニマ・モラリア――傷ついた生活裡の省察』一一七ページ)ばかりが目につく昨今の現代詩を鮎川信夫というフィルターを通して洗い直してみたいというのが、ほんとうの目的なのかもしれない。
 (というわけで以下では、雑誌掲載時のような時間的・分量的制約にとらわれずに論を進めていきたい。)
(2017/1/4、1/5加筆)

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