2015年

2015年12月21日 (月)

思考のポイエーシス194:鮎川信夫論をいまどう書くか

 鮎川信夫論をいまどう書くか。辻井喬は『鮎川信夫全集II 評論I』の解説「鮎川信夫のトポス」の最後のところで、「鮎川信夫の仕事に共感を覚えることの多かった」自分が解説を書き進めるなかで「いつの間にか、かなり厳しい筆を進めたことに気付く」と書いている。鮎川信夫とはひとまわりほどの差があるとはいえ、わたしなどよりははるかに同時代人として現代詩の世界にかかわる時間の長かった辻井にして、やはりこのような感慨をもつのかということにわたしは妙に納得する。
 もちろんそこには六〇年安保をめぐってほとんど敵対的な思想的立場にあったこともあるかもしれないが、それ以上に、鮎川とは辻井の世代――六〇年代詩人と言い換えてもよい――でさえも、もともと相当に異和感のある存在だったということである。若き大岡信が鮎川にたいしてはめずらしく相当に戦闘的な批判的論陣を張っていたことは印象的である。
 辻井はこの解説で鮎川を「我国の現代詩の負の宿命を生きた存在だった」と規定したあとで、鮎川の戦後の詩的(再)出発をこんなふうに書いている。
《そこには、伝統と断絶することによって不毛とならざるを得なかった構造があった。西欧的知を先取りすることによって詩の方法が根拠地を離れて多様化する宿命があった。こうした特質に抗して詩人であり続けるためには、生き方を探求し倫理性を支えとしなければならない土壌が生れていた。鮎川信夫は、このいずれをも全身に引受けて生きた詩人であったから、彼の仕事に共感することは、我国の詩の運命に共感することであり、反撥はこのアプリオリに見える自己〔ママ〕撞着から脱出しようとする心情に通じているように思われる。》
 つまり日本現代詩の戦後的出発時点における脱モダニズム、脱四季派的抒情性から〈意味〉の回復=思想性の獲得をもとめて西欧に範をとって再出発を意図した鮎川信夫をはじめとする「荒地」派詩人たちの世代が戦争体験をひきずらざるをえなかったのにひきかえ、大岡や辻井の世代はその体験の負荷を負うことなくみずからの詩人としての出発をはたすことができたということである。辻井はそのことを「モダニズムを表現技法のひとつとして理解せざるを得なかった、敗戦前の体験を持っていた誠実な詩人達の一群と、戦争の傷跡を精神の深部においては受けず、その意味で、『生き残った人間』、『戦死』の観念からも自由であり得た、そして感受性を自由に開花させうる時代に詩人としての出発をした青年達との著しい対照が見られる」(同前)と指摘している。
 この解説がほぼ二〇年前に書かれたことを勘案しても、いまなおこの戦争体験の有無の差のもつ意味はあらためて吟味されていい。わたしのように戦後生まれであれば、体験の有無もなにもあったものではないが、それ以上にいまの若い詩人たちにとっては問題の所在さえ意味がないかのように見えてしまうかもしれない。しかし戦争および戦時下という非日常的かつ苛酷な体験の意味を問わずにいま現在の詩の問題を論ずることは不毛である。たしかに体験の深度というものは戦争以外にもいろいろありうるし、それがたとえ個人的なものにすぎないとしても、それを〈戦争〉のように一般化できないだけのことで当事者にとっては生死にかかわる重大な意味をもつことはありうるから、戦争体験だけが特別だというわけではない。しかし個々の人間にとってのそれぞれの固有性を超えて歴史的な一般性として存在したこの問題をたんに過ぎ去ったものとして葬るわけにはいかない。ただここではあまり問題を拡散しないために鮎川信夫に固有の問題に限定しておくだけのことだ。
 ここでわたしが問題にしようとするのは、わたしにとって鮎川信夫のかかえた〈戦争〉の問題がどこに起点をもち、それが戦後の鮎川の仕事のなかにどのような展開と帰結をもたらしたのかということにつきる。それが詩を書きはじめた時点から鮎川信夫の詩と詩論に大きな影響を受けてきたはずの自分の位置を再確認するためにどうしても避けて通ることのできない問題だと思うからである。(2015/12/19)

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2015年12月14日 (月)

思考のポイエーシス193:詩人の個人的神話体系という統一性

 ロシア・フォルマリズムの言語学者ロマン・ヤコブソンは「プーシキンの象徴体系における彫像」というプーシキン論の冒頭で書いている。
《かつてヴラジーミル・マヤコフスキイが述べたところによれば、真に新しい詩人、すなわち独創的な詩人の場合、その詩の形式は、詩人の基本的イントネーションが読者の意識のなかに浸透し読者をとらえてはじめて受容される。》(ロマン・ヤコブソン[桑野隆・朝妻恵里子訳]『ヤコブソン・セレクション』69ページ)
 このことが意味するのは、どんな詩人においてもその詩が読者をとらえるさいの基本的なしくみがどんな構造をもっているかを明らかにしたことである。この〈基本的イントネーション〉はさまざまな作品をつうじてその詩人のドミナントなことばのありかたを支えるものとなり、作品のさまざまなヴァリエーションを通じてその詩人独自の〈個人的神話体系〉という統一性を読者の意識のなかに生み出す。これがその詩人の受容にさいして読者が受動性から能動性に転化する、つまりその詩人を積極的に読み込もうとする動機となっていくのである。
 この指摘は重要であるが、ヤコブソンは詩人を論ずるにあたってもうひとつの観点も導入する。それは作品が生まれるにあたって、その詩人をとりまく時代状況や個人環境という視点をどう考えるべきかということであって、たんなる伝記的事実から作品を解釈する伝記主義も、逆にそういう結びつきの可能性を教条的に否定する反伝記主義をも否定する。
《われわれは作品を状況から一義的に導きだそうとはしないものの、同時にまた、詩的作品を分析するにあたっては、作品と状況とのあいだの反復される重要な一致、とりわけ詩人の一連の作品における一定の共通点とこれらの作品の創作に共通する場所や時間とのあいだの規則的な結びつきを、見落とすべきではない。あるいはまた、諸作品の起源にあるおなじような伝記的前提条件も無視すべきでない。》(同前72ページ)
 ここからヤコブソンはプーシキンの個別の問題に入っていくのだが、ここではこうした視点は現代においても詩人を理解していくうえで欠かすことのできない認識方法であることだけを指摘しておけば足りる。とりわけ難解とされる現代詩人を読み込むうえで、なんの手がかりもなしで作品のテクスト読解が十分にできる場合は経験的に言ってもきわめて稀であることを思えば、やはりその詩人の最小限の伝記的情報があるとないとでは理解においてずいぶんちがうのである。ヤコブソンが言うように「状況とは、ことばの構成要素なのである」から、詩人のことばにはなんらかの負荷がかかっているはずだからである。言うまでもなく、かつて構造主義がこうした伝記的情報をすべて切り捨てたうえでのテクスト読解を試みた一定の成果も認めたうえでの話だが、ことばの出どころが見えることによる理解の視野狭窄を斥けつつも、批評が始動する場所は詩人におけるこの神話体系の発見にほかならないという点をはっきり認識することである。(2015/12/14)

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思考のポイエーシス192:自己批評家としての新井豊美の登場

 新井豊美が美術家志望から詩へととりくみだしたのはかなり遅く、一九七〇年代前半、すでに三十代後半にさしかかっていた。最初の詩集『波動』の刊行が一九七八年。そのころから新井の詩的活動は本格化したのではないか。かなり年齢差があるとはいえ、ほぼ同じころに遅れて現代詩の世界に入り込んだわたしとしては新井にたいして同時代人という勝手な思いをもってきた。その理由のひとつに、北川透が主宰していた自立誌「あんかるわ」の購読者=執筆者というかたちで新井はみずからの詩人としての歩みをはじめていたからであり、すこし遅れて「あんかるわ」の購読者になったわたしは、新井の仕事に注目していくことになる。
 どういうことがきっかけで新井と会うようになったかの記憶はもはやないが、一九八二年発行の第二詩集『河口まで』のなかの「子産石」という作品をわたしがそのころやっていた個人誌で連載していた「方法としての戦後詩」(のち、花神社から同名の単行本として刊行された)で引用し、分析したことがある。自身の出自にまつわる実存的テーマがえぐられるようにして深められ、書くことの必然性は熟していた。一九八四年刊行の第三詩集『いすろまにあ』は新井から寄贈を受けているので、このあたりに接点があったのだろう。この二冊はインパクトが非常に強く、戦後詩の金字塔のひとつであると言っても過言ではない。ここでは新井の詩については触れる余裕はないが、詩人としての仕事はこのあたりがピークだったとわたしは確信している。
 新井は今回の『新井豊美評論集I 「ゲニウスの地図」への旅』に収録されている「疎外の構造」という吉本隆明論を「あんかるわ」の四〇号から四三号(一九七五―一九七六年)にわたって連載している。生前から評論集刊行の話があったらしいから、この吉本論にその後どのような修正がほどこされたのかは明らかでないが、いずれにしてもこの吉本論はおよそいただけない。吉本の『共同幻想論』を中心に吉本の概念を噛み砕こうと悪戦苦闘している姿はむしろほほえましいぐらいだが、どう見ても吉本のわかりにくい祖述に終わっているとしか言いようがない。そのあたりを感じたのであろうか、新井は『新井豊美評論集II 歩くための地誌』のなかでこんなことを書いている。(この文章の初出は二〇〇七年だが、ここで新井は当時のことを回顧的に語っている。)
《当時若い人々の間に絶大な影響力を持っていた吉本隆明『共同幻想論』をテーマに、そこで感じた幾つかの疑問を評論の形で書きながら、ある空しさを感じるようになっていた。注目すべき書物であるとはいえ、私がこれを書いて何になるのだろう。》(「私の九州(一)」、五三ページ)
 そしてこれにすぐつづけて新井はこう書くのである。
《もっと他に書くべきことがあるのではないか。女性によって書かれた数々の作品がありながら、それについて女性自身の言葉で語られることはあまりに少ない。今後も評論を書いてゆくとすれば、まずそのことから始めるべきではないだろうか。それもどんな論理にも誰の言説にもよりかからず、できるだけ時流から遠い形で、自分の感じるままに書いてみたい。》(同、五三―五四ページ)
 ここは新井豊美の評論を考える場合にきわめて重要な転換点であり、後年の女性詩擁護の論陣を張る新井の立場と覚悟が明確にみえる。ともあれ、すでにこの自覚にたって最初に論じたのが石牟礼道子の『苦海浄土 わが水俣病』(一九六九年)であった。
 今回、この稿を書くにあたって新井の最初の評論の仕事である『苦海浄土の世界』(一九八六年、れんが書房新社刊)をひさしぶりにとりだして読み直してみた。これは最初やはり「あんかるわ」の五八号から七二号(一九八〇―一九八五年)に十一回にわたって連載されたものだが、この連載を単行本にするように新井にすすめたのはこのわたしである。よほどこの評論に感ずるものがあったのだろう。これをれんが書房新社の鈴木誠さんに頼んで出してもらい、たしか東京堂の文化サロンで出版記念会を主催したことまでは覚えている。
 この長篇評論は水俣病にかんする石牟礼道子の告発と共感の書である『苦海浄土』にたいする新井ならではのなみなみならぬ共感に溢れた力作論考である。
《作者の、海へのつきせぬ愛の賛歌に始まるこの物語の最初のくだりを、わたしは幾度くり返し読んだことだろう。……都市の生活の中でほとんど休眠状態にあった感覚が蘇り、記憶の底に眠っていながら、自分でも長く気づかないでいた或る〈実在〉の感覚がゆり動かされる。/わたしの生れた瀬戸内の小さな漁師町の海が蘇るとき、まだ自然の一部だった頃の感覚がとりもどされてくる。》(『苦海浄土の世界』六七ページ)
 これは正確には石牟礼の別の作品『椿の海の記』について述べたものだが、天草出身の石牟礼が水俣の海について情念的に語るとき、新井もまたみずからの出自である尾道の海の風景とそこでの苦難の記憶を重ねあわせているのだろう。だからここでは水俣病患者に憑依した石牟礼道子の作品にたいして今度は新井豊美のほうがみずからをかぎりなく共振させつつ、その分析を増幅させていく。さきの評論集に収められた吉本隆明論や菅谷規矩雄論とくらべて、ここでの新井の文章は明晰でよく練り込まれており、民俗学の知見なども総動員して精緻な論理で石牟礼の文学的世界に迫っている。それはみずからの出自や記憶を解剖することによって書くことの世界への参入を希求する詩人としての飛躍でもあった。ここには『河口まで』『いすろまにあ』で達成した詩的自己実現と同位同等の評論における最初の達成があった。すなわち自己批評家としての新井豊美の登場である。
《豊かな郷土幻想を持たぬ思想はやせている。/現代文明の持つそのような本質的な貧しさに、わたしは心をゆだねることができない。》(同一八八ページ)
 新井豊美は最後までこのポジションをとろうとしたのではないか。たとえ東京での生活が長くなり、表現者としての地位を確立したとしても、この新井の姿勢は亡くなるまで一貫していたと思う。
 *この評論は「現代詩手帖」2015年11月号に掲載された。

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2015年4月30日 (木)

思考のポイエーシス191:詩を書くことの必然性

 ひとはなぜ詩を書くのか、あるいは書かなければいけないのか。誰に要請されることもなく――ここでは雑誌などからの注文という世俗的な問題はあらかじめ放念されている――、書くことの代償として得られる報酬もなく(あるいはほとんどなく)、なおそこで命をけずるかのごとくして書かれる詩というものがもしあるとするならば、そこにはなにが賭けられ=書かれているのか。そしてそれはなぜ、いま、なのか。詩はつねに現在形においてなにかが賭けられ=書かれている。
 一九四四年五月のある夜……
 ぼくはひとりの兵士の死に立会った
 かれは木の吊床に身を横たえて
 高熱に苦しみながら
 なかなか死のうとしなかった
 青白い記憶の炎につつまれて
 母や妹や恋人のためにとめどなく涙を流しつづけた
 かれとぼくの間には
 もう超えることのできない境があり
 ゆれる昼夜燈の暗い光りのかげに
 死がやってきてじっと蹲っているのが見えた
 戦争を呪いながら
 かれは死んでいった
 東支那海の夜を走る病院船の一室で
 あらゆる神の報酬を拒み
 かれは永遠に死んでいった
 (ああ人間性よ……
 この美しい兵士は
 再び生きかえることはないだろう)
 どこかとおい国では
 かれの崇高な死が
 金の縁とりをした本のなかに閉じこめられて
 そのうえに低い祈りの声と
 やさしい女のひとの手がおかれている
 一九五三年に「詩と詩論」創刊号に発表された鮎川信夫の「神の兵士」という詩の後半である。読めばわかるとおり、これは戦争中に病いのため帰国を余儀なくされた鮎川が同じ病院船で出会うことになったひとりの(たぶん若い)兵士の病死の記憶を詩にしたものであろう。この〈崇高な〉死者の底知れぬ悲しみ(「母や妹や恋人のためにとめどなく涙を流しつづけた」)は宗教によっても、慰藉されることはあってもけっして償われることはない。鮎川は戦争において森川義信をはじめとするかけがえのない詩友を何人も失なっているが、この「神の兵士」にはそうした鮎川の無念が投影されている。
 いずれにせよ、鮎川信夫はこうした戦争体験の切実さをもって戦後詩人としてのスタートを切ったのである。そしてこの切実さが個人的にも世代的にも持続するかぎりで鮎川の詩はリアリティをもち、その詩論とともに戦後詩を領導することができた。引用した詩「神の兵士」で死者の横に〈やってきてじっと蹲っている〉死の亡霊が存在感をもちつづけるかぎりにおいて、鮎川の詩は必然的な根拠をもつことができたのである。
 しかしこの戦争という過去の亡霊が詩人にいつまでもとりついているわけではない。というか、切実なテーマがひととおり書かれてしまえば、ここから次の地点へ(そういうものがもしあるならば、だが)向かうしかない。そのためにはやはりひとつの断絶を書く必要があったはずである。
 鮎川信夫には一九六三年に発表された「戦友」という詩がある。これは二十年ぶりに会う戦友との再会と別れを想定した作品だ。
 やあ しばらく
 もう忘れたと思っていたよ
 二〇年か
 そんな遠くを見るような眼つきで
 おれを見るな さあ握手
 生きてるにしちゃ 冷たい手だね
で始まり、戦争中の戦闘シーンの記憶がつぎつぎに想起される。そんななかで鮎川はつぶやくように書いている。〈過去でしか会うことのないおれたちだ 何の秘密もあるものか〉〈敵にむかい黙々と出撃し 一夜あければ骨となる/あのきびしさはどこへ行ったか〉と。そして戦後の生き方が問い直される。
 答えられるものなら答えてくれ
 真白な花嫁の胸をした戦友よ
 おれたちがどんなに大きく敗れ おまえたちがどんなに小さく勝利したか
 敵からどんな施しを受け どんな賠償を支払ったか
 眼や耳や手足をなくした不幸な犠牲者に何をしてやったか
 なあ戦友 なぜ黙っている
 まっすくこちらを見ながらおまえは何も見ていない
 すべての秩序が眼の高さにあればいいといった
 安全への愛 怠惰への退却
 妥協の無限の可能性をたよりに
 それがおまえの獲得した一切なのか
 ここでの鮎川の文明批評的な切り口の鋭さは間然とするところがない。たまたま戦場でともに在ったというだけの理由で〈戦友〉になった他者とはもともとどこにも接点がない。敗残者として戦場からもどってみれば敗戦国日本のなんでもない市井の一般人にすぎないかれらには、鮎川のような表現者はただ煙ったいだけの存在にすぎず、問われている生き方の問題など日常のなかに埋没しているかれらにとっては考えたこともない問題のはずである。かれらにとっては〈安全への愛〉〈怠惰への退却〉〈妥協の無限の可能性〉などそれだけで十分なはずであった。それは自明であり、それ以上の理由など必要ないのである。こうして戦後の米軍による占領期を過ぎ、朝鮮戦争の特需を得て立ち直った日本経済は高度経済成長へむけて着実な失地回復を始めていく途上にあった。戦争体験の問い直し、思想化など経ずとも、精神は空洞化しあままで生きのびることができたのが戦後日本人の生きかただた。一九五五年、戦後十年のところで「もはや戦後ではない」といったやや早すぎた日本資本主義復活宣言は、しかしその後の実質的な成長によって〈戦後〉をますます遠くへ追いやりはじめたのである。
 戦争体験を基盤に、戦前からのモダニズム経験を踏まえた鮎川信夫の〈戦後〉もこうして内外ともにそのリアリティを失なっていかざるをえなかったのである。〈さらばだ 戦友/おれたちが本当に分かれるのはこれがはじめてだが ユダの接吻はいらない〉というこの詩の最後は他者との決定的な別れであると同時に戦後社会というひとつの共同性との別れでもあったのだ。
 それからさらに十年後の一九七三年に書かれた「地平線が消えた」という詩になるとこうした決定的な別れはもはや初期の緊張感もなくなって厳然たる事実の最終確認にすぎなくなっていく。
 地上には
 ぼくを破滅させるものがなくなった
 行くところもなければ帰るところもない
 戦争もなければ故郷もない
 時代の批判者でありその同走者でもあった鮎川信夫はこれ以外にもいくつかのテーマを作品化している詩人であって、底の浅い詩人ではなく、じっさいに一九六〇年代以降は戦争体験という主題をはなれて、「Solzhenitsyn」「Who I Am」「必敗者」などという時代をダシにした忘れがたい秀作を残していく、時代を代表する詩人となったのである。。
 鮎川信夫の文明批判者的なありかたにはじつは初期から〈意味〉の回復をその根源的志向にもとうとする思想家詩人としての基礎づけがあった。戦後詩の設立のためには戦争によって失なわれた〈意味〉の回復をこそ実現しなければならなかったからである。一九五五年に書かれた「戦後詩人論」という文章にはこう書かれている。
  戦後の詩と、戦前の詩を区別する最も大切な違いはどこにあるかといえば、詩人も読者も、詩の内容から「意味」を期待するようになったことではないか、とぼくは考えている。それは、歌う詩から考える詩へのプロセスとして理解されるよりも、いっそう深いところで詩人の生き方につながる思想的倫理的問題を提起するものであった。……/戦後社会の荒廃した状況のなかにあって、痛烈な言葉への不信を経験した詩人たちが、生活の土台から切りはなされて形式化してしまった過去の詩の概念に、なんの興味も感じなかったとしても不思議はない。その機能と自律性を失った在来の詩の言葉をすてて、戦後詩人は、言葉の価値を自己の経験によって確かめてゆかなければならなくなったのである。(……)意味の回復への衝動は、世代のちがい、流派のちがいを超えて、すべての詩人の心の奥底にうずいていたように思う。
 この文章が一九五五年という時期に書かれていたことに注意しておきたい。すでに戦後詩の実践者として地位を築いてきていた鮎川だが、そのかれにして〈意味〉への期待というのは与えられたものでなく、新たに勝ち取られるべきものだったのだ。このころの鮎川が〈死の灰〉論争や詩人の戦争責任の追及にふかくかかわっていたことは、この〈意味〉の回復の主張と符節をあわせている。そういうふうにみると、最近の一部の詩や詩論でできるだけ〈意味〉にならないような方法を模索しようとする傾向がみられるのは、鮎川が戦後史の発端で選び取ってきた方法的自覚から後退するもので、へたをすると鮎川が否定的にのりこえてきたモダニズム的方法への回帰に陥る危険を感じないわけにはいかない。
 鮎川信夫が戦争体験からの脱却を〈意味〉に託したとすれば、同じ戦争体験でもユダヤ人の捕囚としてより苛酷な収容所体験をしたパウル・ツェランが依拠しようとしたのは「言葉」だけであった。ツェランが自殺する直接の引き金になったとされている一九六七年夏のハイデガーの山荘への訪問の意味についてはフィリップ・ラクー=ラバルトの『経験としての詩』にくわしいが、(このあたりのことは「思考のポイエーシス188:ツェランとことばへの信念」参照)ジャック・デリダもまた近刊の『赦すこと――時効にかかり得ぬものと赦し得ぬもの』のなかでやはりこのツェランの詩「トートナウベルク」について触れている。そこでデリダはラクー=ラバルトらの解釈とは一線を画すように、次のように書いている。
  ツェランの詩「トートナウベルク」、すなわち彼がハイデガーのもとへのみずからの訪問の記念と証言として書いたあの詩の多くの解説者たちが、失望に終わったある期待の痕跡、すなわち、乞われた_¨赦し¨_を意味してもよかったハイデガーの一つの_¨語¨_へのツェランによる期待の痕跡として読んできたことに接近させてみたいと思う。私は、そのような解釈を確証したりあるいは覆したりする危険を冒すつもりはとりわけないし、ツェランの詩の文字そして省略法に対する敬意をこめて、そのように透明で一義的な読解のほうへ歩を急がせるつもりもない。私がそうするのを差し控えるのは、ただたんに解釈学上の慎重さあるいは詩の文字に対する敬意によってだけではない。むしろそれは、赦し(授けられるあるいは乞われる)は、赦しの宛先は、もしそのようなものがあるならば、永久に決定不可能な仕方で両義的なままにとどまるべきであるということを私が示唆したいからである。私は、曖昧であるとか怪しげだとか中間色めいているなどと言いたいのではない。そうではなく、知の領野、事を限定する理論的判断の、一つの自己固有化可能な意味の自己呈示の領野におけるあらゆる限定に対して異質であると言いたいのだ。そこにあるのは一つのアポリア的論理であり、少なくともこの視点からするなら、赦しは贈与と共通のものをそなえているだろう、だが私はこのアナロジーをここでは作業中のままないし放置したままにしておこう。(守中高明訳)
 なんともデリダ的な独特の判断中止(アポケー)だが、そう言われてみると、たしかにラクー=ラバルトの解釈はやや一義的ないしドラマティックすぎるように思えてくる。つまり、ツェランはハイデガーからの「赦しを乞うことば=Pardon」がほしかったのだとするのは、デリダからすれば単純すぎるというわけである。ただツェランの詩論における「言葉」の絶対性を思うとき、ハイデガーからのユダヤ人虐殺への間接的加担への謝罪のことばをツェランが切に希求していたことを否定することはどうしてもできない。ツェランの「トートナウベルク」という詩が難解であればあるほど、そこに謎めいて表出されたことばの散乱のなかに深い意味を汲み取りたくなる。
「トートナウベルク」とはつぎのような部分をもっている。
 その山荘
 のなかで
 その記念帳のなかに書き込まれた
 (どのような名の数々をそれは載せてきたのか
 私の名の前に?)
 その記念帳のなかに書き込まれた
 その行、
 今日、一つの期待の――
 思考する者の
 言葉
 心へと
 来たるべき、[……]
 ツェランの詩がいかに難解で謎めいていようと、ツェランが表現者としてことばしか依拠するものがなかったということは見逃せない。しかも旧ルーマニア領チェルノヴィッツ生まれのユダヤ系ドイツ人という出自をもつツェランは生まれながらにしてドイツ語という、のちに敵性語とさえなってしまう言語を母語にせざるをえない詩人だったし、そのドイツで抹殺対象の人間としてとらえられるという深い傷を負った詩人である。戦後はパリに住まうが、一生あてどのない生活を送らざるをえなかったことになる。みずからの師匠とも目したハイデガーにお詫びのことばをえられなかったツェランが深い絶望に陥ったとしてもゆえなきことではない。ともあれ、そういう出自と生活環境にあったツェランだからこそ、その詩のことばは切実だったはずである。
 そういうツェランを思うとき、もうひとり思い起こすべきなのが、在日朝鮮人詩人としての金時鐘(キム・シジョン)である。最近、岩波新書として刊行された『朝鮮と日本に生きる――済州島から猪飼野へ』(二〇一五年)には済州島四・三事件についての詳細な凄惨極まる記述があるが、それ以前に刊行されていた金石範との対談『なぜ書きつづけてきたか なぜ沈黙してきたか――済州島四・三事件の記憶と文学』(二〇〇一年、平凡社)はより包括的に金時鐘の沈黙と詩人としての存在のありようを教えてくれる貴重な書である。そのなかで金石範による金時鐘を総括することばがある。
《彼〔金時鐘〕は詩人としてぎりぎりのところで実践活動に参加した。その中で、彼が武器にしたものは何かというと、日本語ですよ。彼は、解放後、それまでの「日本人」であることを否定されたが、数年後、その日本へはじめて来る。そこで結局、今度は日本語を武器にして文学をやっていくことになる。これは非常に矛盾する話だ。(……)日本語は戦前、鞭と脅迫によって覚えさせられたものだ。それは戦後一旦、否定されたはずのものだった。ところが今度は、日本にやって来て再び日本語を使って詩を書くとなった時、時鐘にとっての日本語の意味は、心理的にも日本にずっとおった人間とは違う要素を持ってくるんじゃないかと思う。そこに見えるのが論理性である。私の言う論理性というのは意志の力だ。時鐘の詩は意志だ。意志は必ず論理性を持っている。構想的な力です。》(一四七─一四八頁)
 この評言は金時鐘という特異な在日朝鮮人詩人の存在を考えるうえでコンパクトな理解を得られる規定になっている。皇国少年として植民地朝鮮で育ち、日本語文学を小さいときから学習したが、日本の敗北によって独立朝鮮を他動的に与えられることになり、その後の南北分断という国際政治力学のなかで南朝鮮は米軍政支配のもと旧植民地系親日勢力の軍事的暴力的支配にさらされることになる、そのなかで済州島に生まれ育った金は急速に左翼の運動家になっていくのだが、日本ではあまり知らされることのなかった四・三事件を原因として日本に密航船で命からがら渡ってくるところから金の日本での苛酷な闘争人生が始まるというわけだ。こうした金の日本語の詩とはツェランとは別の意味で疎外を前提として引き受けるなかから発されたものだったわけである。わたしの若書きの長篇評論『方法としての戦後詩』(一九八五年、花神社)のなかで当時としてはいちはやく金の詩集『猪飼野』について一節をわたしは書いているが、在日朝鮮人の苦難といった、いまからみると通り一遍のものにすぎなかったことがわかる。金はすでにこう書いていたのだ。
 日本人に向けてしか
 朝鮮でない
 そんな朝鮮が
 朝鮮を生きる!
 だから俺に朝鮮はない。
     (「日々の深みで(1)」
 こうしたことばの強さはどこからくるのか。言うまでもなく日々を生きる存在の深みからにほかならない。ことばが書かれるべくして書かれているからこその強さなのだ。詩を書くことの必然性とはそうした存在論的な根拠なしでは生起しないのである。(2015/4/29-30)

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2015年3月19日 (木)

思考のポイエーシス190:自然の生態系から学ぶこと――レイチェル・カーソンの思想

 遅まきながらレイチェル・カーソン『沈黙の春』を読んで、この1962年――すでに半世紀以上前だ――に刊行されたこの書物の思想に感銘を受けた。その自然にたいする慈しみの精神とともに、どんな微小な虫類や微生物にも種族保存の強い意志のようなものがあることにあらためて驚かされる。地球の生態系はとても微妙なバランスで成り立っていて、それを人間が自己本位に変更しようとすることはこの自然の原理を壊そうとすることであり、無謀で傲慢な考えなのであることをとことん指弾している書なのだ。生物学者としての英知と経験から人間の科学盲進と金もうけ主義からくる非人間的、非自然的振る舞いにたいして静かな怒りを表明している。
 この警世の書が書かれるには、戦後まもなくのアメリカで害虫駆除のためにDDTなどの無差別な農薬撒布をすることによってもともとの目的の害虫駆除ばかりか益虫、樹木や鳥や魚類などまで深刻なダメージを与えてしまったことにたいする痛切な反省があった。事態は小さな異変への対応から発覚していき、しまいには牛馬、犬猫そして人間にまで被害が及ぶにいたって、ようやく政府も動き出さざるをえなくなるのだが、そこにいたるまでのカーソンたちの批判は金の力や凡庸な精神によって押しつぶされようとしてきた。
 害虫駆除も当面はうまくいったとみえても、それと同時に地球の生態系のバランスをとることに貢献してきた虫たちをも死滅させてしまうことによって、新しい害虫の発生あるいは天敵の死滅による異常な復活ぶりがみられるようになる。われわれにも経験的にわかることだが、強い薬でも飲みつづけると効き目かなくなってくるように、殺虫剤でも除草剤でも相手がそれにたいする抵抗力をつけてくることによって、より強力な化学薬品を作って対応していかなければならなくなる。麻薬と同じだ。この科学への盲信のために、地球の生態系は深いところまで破壊されてきてしまったのである。化学薬品は食べ物や環境のなかに蓄積されつづけ、ガンの発症率の上昇など人間の生命にとっても危険な兆候をどんどん見せはじめている。
「とにかく、どちらの道をとるか、きめなければならないのは私たちなのだ。長いあいだ我慢したあげく、とにかく《知る権利》が私たちにもあることを認めさせ、人類が意味のないおそるべき危険にのりだしていることがわかったからには、一刻もぐずぐずすべきでない。」
 これは直接的には殺虫剤などの化学薬品について言われていることばだが、原子力にもそっくりあてはまるだろう。カーソンはすでにこの時代に原子力の危険についても言及しているが、化学薬品はその原子力に優るとも劣らぬ危険な害悪だと見たのである。カーソンは本書の最後をこんなふうに結んでいる。
《応用昆虫学者のものの考え方ややり方を見ると、まるで科学の石器時代を思わせる。およそ学問とも呼べないような単純な科学の手中に最新の武器があるとは、何とそらおそろしい災難であろうか。おそろしい武器を考え出してはその鉾先を昆虫に向けていたが、それは、ほかならぬ私たち人間の住む地球そのものに向けられていたのだ。》
 このことばはそっくり核科学(核兵器開発・原子力工学)についてもあてはまる。自然の生態系と相反するこのエセ科学を終わらせるために「一刻もぐずぐずすべきでない」のである。(2015/3/19)

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2015年2月22日 (日)

思考のポイエーシス189:佐々木力の核科学批判

 佐々木力の長大な「ベイコン主義自然哲学の黄昏」(「思想」2011年11月号)をおもしろく読み、いろいろ学ぶことが多かった。この論文で佐々木が言いたいことは、16世紀イギリス生まれの哲学者フランシス・ベイコンの哲学的学問的野心が人間による自然の支配というところにあったとしたうえで、現代の〈フクシマ〉以後の科学のありようがそのベイコン的科学の野心の著しく歪められた形態に成り下がっている、と要約することができる。
 大法官職の息子として生まれたベイコンは、みずからも有力な政治家として当時のイギリスにおいて大きな役割をはたした人物でもあるが、その位置からみるときベイコンの学問的科学的野心は科学の力によって自然をできるかぎりコントロールして人間界に寄与しようとするものであった。佐々木によれば、それは自然破壊思想というよりは「人間愛」に充ちたものであった。プラトン的な精神力によるものではなく、「事物〔自然界〕への人間の支配権」は技術と学問によるのである、とベイコンは書いている。プラトンやアリストテレスの時代とちがって、ベイコンの生きた時代はすでにこうした機械的技芸の発達を受けて、より技術的学問的に自然に相対することができはじめていたからである。
 こうしたベイコン的学問のパラダイムは西欧近代文明の「先進性」を保証するものとして現代にまで及ぶものであったわけだが、佐々木によれば、このベイコン的パラダイムが問題になってきたのは、現代資本主義が脱植民地主義を実現してから資源と自然環境にたいする破壊者として立ち現われてくるようになってからである、という。「自然に敵対する帝国主義」というのが佐々木の現代帝国主義にたいする根本規定であるが、その最たるものが原子力テクノロジーが抱える問題である。
 16/17世紀の科学思想史家であると同時に東北出身者である佐々木力にとって、東日本大震災にともなう福島第一原発事故こそは断じて許すことのできない人災(わたしはこれを「学災」と呼んでみたい)であり、科学思想のおそるべき頽落であると認識されたにちがいない。この論文が原発事故と同じ年に書かれたことに注意しなければならないのはそのためである。「反原発」はいまや差別に抵抗するものであるという反骨の核科学者、小出裕章に佐々木が同意するのも、東北人・佐々木力の面目躍如たるものでもある。佐々木は論文の終りのほうでこう書いている。
《私は、近代西欧科学の成果を否定し、その延長上にある現代科学技術を全面的に否定しようとするのではない。むしろ、その知見を尊重し、そのうえで、現代のわれわれが採用するテクノロジーを主体的に選択しなければならないと主張しているのである。原子力テクノロジーは、それが先端的科学に基づいているから採用してはならないというのではなく、科学技術的に放射能が統御不可能であり、人類に災厄をもたらすから、使用してはならないとするのである。論拠は徹頭徹尾科学的なのである。とりわけ、地震が頻発する日本において、原発を建設維持しようとするのはまったく愚行である。》
 現代の核科学は〈ウルトラ・ベイコン的科学〉として本来のベイコン的学問の健全で高貴な自然哲学的野心から大きく逸脱し、反自然的なものにまで後退してしまったことを佐々木は厳しく断罪しているのである。(2015/2/19)
*これは「西谷の本音でトーク」ブログの同題の文章に若干の追加をしたものです。

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2015年2月 7日 (土)

思考のポイエーシス188:ツェランとことばへの信念

 ツェランは「ハンザ自由都市ブレーメン文学賞受賞の際の挨拶」(一九五八年)のなかでこんなふうに書いている。
《もろもろの喪失のただなかで、ただ「言葉」だけが、手に届くもの、身近なもの、失われていないものとして残りました。/……そうです、すべての出来事にもかかわらず。しかしその言葉にしても、みずからのあてどなさの中を、おそるべき沈黙の中を、死をもたらす弁舌の千もの闇の中を来なければなりませんでした。言葉はこれらをくぐり抜けて来、しかも、起こったことに対しては一言も発することができませんでした、――しかし言葉はこれらの中を抜けて行ったのです。》(『パウル・ツェラン詩論集』飯吉光夫訳、六一ページ)
 ここでの「もろもろの喪失」「おそるべき沈黙」「死をもたらす弁舌の千もの闇」とはアウシュヴィッツに代表されるユダヤ人虐殺の、ことばさえも絶句させられる出来事の苛酷さを指しているのは言うまでもない。しかしツェランはそうした絶句と苦しみのなかでさえことばが、ことばのみが生き抜いてきたこと、それが「ふたたび明るい所に出ることができ」たことを信じている。
 このことはわたしにツェランが戦後の一九六七年夏、トートナウベルクのハイデガーの山荘を訪れたさいのことを詳細に記述したフィリップ・ラクー=ラバルトのツェラン論『経験としての詩――ツェラン・ヘルダーリン・ハイデガー』の印象深い一節を思い出させる。
《一言、単純な一言が問題なのである。ツェランは書く――なにを書くのか。一行、あるいはひとつの詩句だ。彼はただ語を要求する。そして、その語はあきらかに口にされることはなかった。なにもなく、沈黙、だれも。語は到来しない。》《その語とはもっとも控えめな語であり、それでいて口にすることがもっとも困難で、まさしく「自己からの脱出」を要求する語である、と。〈西洋〉全体が、贖罪のパトスのうちにありながら、けっして口にすることができなかった語であり、これを言えるように学ぶことは私たちに残されたことなのだ。もしその語を言えなければ、私たちは崩れさることになるであろう。その語とは、_¨すまない¨_(<I>pardon</I>)という語である。》(谷口博史訳、九二─九三ページ)
 ツェランがハイデガーに期待したのは、ハイデガーが一時期とはいえナチに加担したこと、ユダヤ人の追放さらには虐殺へのレールに乗ったことにたいして、哲学者としての責任において謝罪のことば、それもひとこと、「pardon」であったということ、それにもかかわらず、ハイデガーからはなんのことばもなかった、そのことがハイデガーに私淑していたツェランにとって決定的なダメージを与えたことになる。それが三年後(一九七〇年)のツェランのセーヌ川への投身自殺に帰着したのではないか、ということは推察しうることである。
 ツェランは同じ文章で、ことばへの信頼についてこう書いている。
《詩はことばの一形態であり、それゆえにその本質上対話的なものである以上、いつかはどこかの岸辺に――おそらくはに――流れつくという(かならずしもいつも希望にみちてはいない)信念の下に投げこまれる投壜通信のようなものかもしれません。詩はこのような意味でも、途中にあるものです――何かをめざしています。》(同六二ページ)
 この一縷の望みのような信念、それをツェランはハイデガーからの謝罪の一言に託したのかもしれない。ツェランが講演「子午線」で言うところの「絶望的な対話」の不成立、投壜通信はついに「心の岸辺」に回収されなかったのである。(2015/2/6-7)

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