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2015年12月

2015年12月21日 (月)

思考のポイエーシス194:鮎川信夫論をいまどう書くか

 鮎川信夫論をいまどう書くか。辻井喬は『鮎川信夫全集II 評論I』の解説「鮎川信夫のトポス」の最後のところで、「鮎川信夫の仕事に共感を覚えることの多かった」自分が解説を書き進めるなかで「いつの間にか、かなり厳しい筆を進めたことに気付く」と書いている。鮎川信夫とはひとまわりほどの差があるとはいえ、わたしなどよりははるかに同時代人として現代詩の世界にかかわる時間の長かった辻井にして、やはりこのような感慨をもつのかということにわたしは妙に納得する。
 もちろんそこには六〇年安保をめぐってほとんど敵対的な思想的立場にあったこともあるかもしれないが、それ以上に、鮎川とは辻井の世代――六〇年代詩人と言い換えてもよい――でさえも、もともと相当に異和感のある存在だったということである。若き大岡信が鮎川にたいしてはめずらしく相当に戦闘的な批判的論陣を張っていたことは印象的である。
 辻井はこの解説で鮎川を「我国の現代詩の負の宿命を生きた存在だった」と規定したあとで、鮎川の戦後の詩的(再)出発をこんなふうに書いている。
《そこには、伝統と断絶することによって不毛とならざるを得なかった構造があった。西欧的知を先取りすることによって詩の方法が根拠地を離れて多様化する宿命があった。こうした特質に抗して詩人であり続けるためには、生き方を探求し倫理性を支えとしなければならない土壌が生れていた。鮎川信夫は、このいずれをも全身に引受けて生きた詩人であったから、彼の仕事に共感することは、我国の詩の運命に共感することであり、反撥はこのアプリオリに見える自己〔ママ〕撞着から脱出しようとする心情に通じているように思われる。》
 つまり日本現代詩の戦後的出発時点における脱モダニズム、脱四季派的抒情性から〈意味〉の回復=思想性の獲得をもとめて西欧に範をとって再出発を意図した鮎川信夫をはじめとする「荒地」派詩人たちの世代が戦争体験をひきずらざるをえなかったのにひきかえ、大岡や辻井の世代はその体験の負荷を負うことなくみずからの詩人としての出発をはたすことができたということである。辻井はそのことを「モダニズムを表現技法のひとつとして理解せざるを得なかった、敗戦前の体験を持っていた誠実な詩人達の一群と、戦争の傷跡を精神の深部においては受けず、その意味で、『生き残った人間』、『戦死』の観念からも自由であり得た、そして感受性を自由に開花させうる時代に詩人としての出発をした青年達との著しい対照が見られる」(同前)と指摘している。
 この解説がほぼ二〇年前に書かれたことを勘案しても、いまなおこの戦争体験の有無の差のもつ意味はあらためて吟味されていい。わたしのように戦後生まれであれば、体験の有無もなにもあったものではないが、それ以上にいまの若い詩人たちにとっては問題の所在さえ意味がないかのように見えてしまうかもしれない。しかし戦争および戦時下という非日常的かつ苛酷な体験の意味を問わずにいま現在の詩の問題を論ずることは不毛である。たしかに体験の深度というものは戦争以外にもいろいろありうるし、それがたとえ個人的なものにすぎないとしても、それを〈戦争〉のように一般化できないだけのことで当事者にとっては生死にかかわる重大な意味をもつことはありうるから、戦争体験だけが特別だというわけではない。しかし個々の人間にとってのそれぞれの固有性を超えて歴史的な一般性として存在したこの問題をたんに過ぎ去ったものとして葬るわけにはいかない。ただここではあまり問題を拡散しないために鮎川信夫に固有の問題に限定しておくだけのことだ。
 ここでわたしが問題にしようとするのは、わたしにとって鮎川信夫のかかえた〈戦争〉の問題がどこに起点をもち、それが戦後の鮎川の仕事のなかにどのような展開と帰結をもたらしたのかということにつきる。それが詩を書きはじめた時点から鮎川信夫の詩と詩論に大きな影響を受けてきたはずの自分の位置を再確認するためにどうしても避けて通ることのできない問題だと思うからである。(2015/12/19)

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2015年12月14日 (月)

思考のポイエーシス193:詩人の個人的神話体系という統一性

 ロシア・フォルマリズムの言語学者ロマン・ヤコブソンは「プーシキンの象徴体系における彫像」というプーシキン論の冒頭で書いている。
《かつてヴラジーミル・マヤコフスキイが述べたところによれば、真に新しい詩人、すなわち独創的な詩人の場合、その詩の形式は、詩人の基本的イントネーションが読者の意識のなかに浸透し読者をとらえてはじめて受容される。》(ロマン・ヤコブソン[桑野隆・朝妻恵里子訳]『ヤコブソン・セレクション』69ページ)
 このことが意味するのは、どんな詩人においてもその詩が読者をとらえるさいの基本的なしくみがどんな構造をもっているかを明らかにしたことである。この〈基本的イントネーション〉はさまざまな作品をつうじてその詩人のドミナントなことばのありかたを支えるものとなり、作品のさまざまなヴァリエーションを通じてその詩人独自の〈個人的神話体系〉という統一性を読者の意識のなかに生み出す。これがその詩人の受容にさいして読者が受動性から能動性に転化する、つまりその詩人を積極的に読み込もうとする動機となっていくのである。
 この指摘は重要であるが、ヤコブソンは詩人を論ずるにあたってもうひとつの観点も導入する。それは作品が生まれるにあたって、その詩人をとりまく時代状況や個人環境という視点をどう考えるべきかということであって、たんなる伝記的事実から作品を解釈する伝記主義も、逆にそういう結びつきの可能性を教条的に否定する反伝記主義をも否定する。
《われわれは作品を状況から一義的に導きだそうとはしないものの、同時にまた、詩的作品を分析するにあたっては、作品と状況とのあいだの反復される重要な一致、とりわけ詩人の一連の作品における一定の共通点とこれらの作品の創作に共通する場所や時間とのあいだの規則的な結びつきを、見落とすべきではない。あるいはまた、諸作品の起源にあるおなじような伝記的前提条件も無視すべきでない。》(同前72ページ)
 ここからヤコブソンはプーシキンの個別の問題に入っていくのだが、ここではこうした視点は現代においても詩人を理解していくうえで欠かすことのできない認識方法であることだけを指摘しておけば足りる。とりわけ難解とされる現代詩人を読み込むうえで、なんの手がかりもなしで作品のテクスト読解が十分にできる場合は経験的に言ってもきわめて稀であることを思えば、やはりその詩人の最小限の伝記的情報があるとないとでは理解においてずいぶんちがうのである。ヤコブソンが言うように「状況とは、ことばの構成要素なのである」から、詩人のことばにはなんらかの負荷がかかっているはずだからである。言うまでもなく、かつて構造主義がこうした伝記的情報をすべて切り捨てたうえでのテクスト読解を試みた一定の成果も認めたうえでの話だが、ことばの出どころが見えることによる理解の視野狭窄を斥けつつも、批評が始動する場所は詩人におけるこの神話体系の発見にほかならないという点をはっきり認識することである。(2015/12/14)

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思考のポイエーシス192:自己批評家としての新井豊美の登場

 新井豊美が美術家志望から詩へととりくみだしたのはかなり遅く、一九七〇年代前半、すでに三十代後半にさしかかっていた。最初の詩集『波動』の刊行が一九七八年。そのころから新井の詩的活動は本格化したのではないか。かなり年齢差があるとはいえ、ほぼ同じころに遅れて現代詩の世界に入り込んだわたしとしては新井にたいして同時代人という勝手な思いをもってきた。その理由のひとつに、北川透が主宰していた自立誌「あんかるわ」の購読者=執筆者というかたちで新井はみずからの詩人としての歩みをはじめていたからであり、すこし遅れて「あんかるわ」の購読者になったわたしは、新井の仕事に注目していくことになる。
 どういうことがきっかけで新井と会うようになったかの記憶はもはやないが、一九八二年発行の第二詩集『河口まで』のなかの「子産石」という作品をわたしがそのころやっていた個人誌で連載していた「方法としての戦後詩」(のち、花神社から同名の単行本として刊行された)で引用し、分析したことがある。自身の出自にまつわる実存的テーマがえぐられるようにして深められ、書くことの必然性は熟していた。一九八四年刊行の第三詩集『いすろまにあ』は新井から寄贈を受けているので、このあたりに接点があったのだろう。この二冊はインパクトが非常に強く、戦後詩の金字塔のひとつであると言っても過言ではない。ここでは新井の詩については触れる余裕はないが、詩人としての仕事はこのあたりがピークだったとわたしは確信している。
 新井は今回の『新井豊美評論集I 「ゲニウスの地図」への旅』に収録されている「疎外の構造」という吉本隆明論を「あんかるわ」の四〇号から四三号(一九七五―一九七六年)にわたって連載している。生前から評論集刊行の話があったらしいから、この吉本論にその後どのような修正がほどこされたのかは明らかでないが、いずれにしてもこの吉本論はおよそいただけない。吉本の『共同幻想論』を中心に吉本の概念を噛み砕こうと悪戦苦闘している姿はむしろほほえましいぐらいだが、どう見ても吉本のわかりにくい祖述に終わっているとしか言いようがない。そのあたりを感じたのであろうか、新井は『新井豊美評論集II 歩くための地誌』のなかでこんなことを書いている。(この文章の初出は二〇〇七年だが、ここで新井は当時のことを回顧的に語っている。)
《当時若い人々の間に絶大な影響力を持っていた吉本隆明『共同幻想論』をテーマに、そこで感じた幾つかの疑問を評論の形で書きながら、ある空しさを感じるようになっていた。注目すべき書物であるとはいえ、私がこれを書いて何になるのだろう。》(「私の九州(一)」、五三ページ)
 そしてこれにすぐつづけて新井はこう書くのである。
《もっと他に書くべきことがあるのではないか。女性によって書かれた数々の作品がありながら、それについて女性自身の言葉で語られることはあまりに少ない。今後も評論を書いてゆくとすれば、まずそのことから始めるべきではないだろうか。それもどんな論理にも誰の言説にもよりかからず、できるだけ時流から遠い形で、自分の感じるままに書いてみたい。》(同、五三―五四ページ)
 ここは新井豊美の評論を考える場合にきわめて重要な転換点であり、後年の女性詩擁護の論陣を張る新井の立場と覚悟が明確にみえる。ともあれ、すでにこの自覚にたって最初に論じたのが石牟礼道子の『苦海浄土 わが水俣病』(一九六九年)であった。
 今回、この稿を書くにあたって新井の最初の評論の仕事である『苦海浄土の世界』(一九八六年、れんが書房新社刊)をひさしぶりにとりだして読み直してみた。これは最初やはり「あんかるわ」の五八号から七二号(一九八〇―一九八五年)に十一回にわたって連載されたものだが、この連載を単行本にするように新井にすすめたのはこのわたしである。よほどこの評論に感ずるものがあったのだろう。これをれんが書房新社の鈴木誠さんに頼んで出してもらい、たしか東京堂の文化サロンで出版記念会を主催したことまでは覚えている。
 この長篇評論は水俣病にかんする石牟礼道子の告発と共感の書である『苦海浄土』にたいする新井ならではのなみなみならぬ共感に溢れた力作論考である。
《作者の、海へのつきせぬ愛の賛歌に始まるこの物語の最初のくだりを、わたしは幾度くり返し読んだことだろう。……都市の生活の中でほとんど休眠状態にあった感覚が蘇り、記憶の底に眠っていながら、自分でも長く気づかないでいた或る〈実在〉の感覚がゆり動かされる。/わたしの生れた瀬戸内の小さな漁師町の海が蘇るとき、まだ自然の一部だった頃の感覚がとりもどされてくる。》(『苦海浄土の世界』六七ページ)
 これは正確には石牟礼の別の作品『椿の海の記』について述べたものだが、天草出身の石牟礼が水俣の海について情念的に語るとき、新井もまたみずからの出自である尾道の海の風景とそこでの苦難の記憶を重ねあわせているのだろう。だからここでは水俣病患者に憑依した石牟礼道子の作品にたいして今度は新井豊美のほうがみずからをかぎりなく共振させつつ、その分析を増幅させていく。さきの評論集に収められた吉本隆明論や菅谷規矩雄論とくらべて、ここでの新井の文章は明晰でよく練り込まれており、民俗学の知見なども総動員して精緻な論理で石牟礼の文学的世界に迫っている。それはみずからの出自や記憶を解剖することによって書くことの世界への参入を希求する詩人としての飛躍でもあった。ここには『河口まで』『いすろまにあ』で達成した詩的自己実現と同位同等の評論における最初の達成があった。すなわち自己批評家としての新井豊美の登場である。
《豊かな郷土幻想を持たぬ思想はやせている。/現代文明の持つそのような本質的な貧しさに、わたしは心をゆだねることができない。》(同一八八ページ)
 新井豊美は最後までこのポジションをとろうとしたのではないか。たとえ東京での生活が長くなり、表現者としての地位を確立したとしても、この新井の姿勢は亡くなるまで一貫していたと思う。
 *この評論は「現代詩手帖」2015年11月号に掲載された。

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