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2015年4月

2015年4月30日 (木)

思考のポイエーシス191:詩を書くことの必然性

 ひとはなぜ詩を書くのか、あるいは書かなければいけないのか。誰に要請されることもなく――ここでは雑誌などからの注文という世俗的な問題はあらかじめ放念されている――、書くことの代償として得られる報酬もなく(あるいはほとんどなく)、なおそこで命をけずるかのごとくして書かれる詩というものがもしあるとするならば、そこにはなにが賭けられ=書かれているのか。そしてそれはなぜ、いま、なのか。詩はつねに現在形においてなにかが賭けられ=書かれている。
 一九四四年五月のある夜……
 ぼくはひとりの兵士の死に立会った
 かれは木の吊床に身を横たえて
 高熱に苦しみながら
 なかなか死のうとしなかった
 青白い記憶の炎につつまれて
 母や妹や恋人のためにとめどなく涙を流しつづけた
 かれとぼくの間には
 もう超えることのできない境があり
 ゆれる昼夜燈の暗い光りのかげに
 死がやってきてじっと蹲っているのが見えた
 戦争を呪いながら
 かれは死んでいった
 東支那海の夜を走る病院船の一室で
 あらゆる神の報酬を拒み
 かれは永遠に死んでいった
 (ああ人間性よ……
 この美しい兵士は
 再び生きかえることはないだろう)
 どこかとおい国では
 かれの崇高な死が
 金の縁とりをした本のなかに閉じこめられて
 そのうえに低い祈りの声と
 やさしい女のひとの手がおかれている
 一九五三年に「詩と詩論」創刊号に発表された鮎川信夫の「神の兵士」という詩の後半である。読めばわかるとおり、これは戦争中に病いのため帰国を余儀なくされた鮎川が同じ病院船で出会うことになったひとりの(たぶん若い)兵士の病死の記憶を詩にしたものであろう。この〈崇高な〉死者の底知れぬ悲しみ(「母や妹や恋人のためにとめどなく涙を流しつづけた」)は宗教によっても、慰藉されることはあってもけっして償われることはない。鮎川は戦争において森川義信をはじめとするかけがえのない詩友を何人も失なっているが、この「神の兵士」にはそうした鮎川の無念が投影されている。
 いずれにせよ、鮎川信夫はこうした戦争体験の切実さをもって戦後詩人としてのスタートを切ったのである。そしてこの切実さが個人的にも世代的にも持続するかぎりで鮎川の詩はリアリティをもち、その詩論とともに戦後詩を領導することができた。引用した詩「神の兵士」で死者の横に〈やってきてじっと蹲っている〉死の亡霊が存在感をもちつづけるかぎりにおいて、鮎川の詩は必然的な根拠をもつことができたのである。
 しかしこの戦争という過去の亡霊が詩人にいつまでもとりついているわけではない。というか、切実なテーマがひととおり書かれてしまえば、ここから次の地点へ(そういうものがもしあるならば、だが)向かうしかない。そのためにはやはりひとつの断絶を書く必要があったはずである。
 鮎川信夫には一九六三年に発表された「戦友」という詩がある。これは二十年ぶりに会う戦友との再会と別れを想定した作品だ。
 やあ しばらく
 もう忘れたと思っていたよ
 二〇年か
 そんな遠くを見るような眼つきで
 おれを見るな さあ握手
 生きてるにしちゃ 冷たい手だね
で始まり、戦争中の戦闘シーンの記憶がつぎつぎに想起される。そんななかで鮎川はつぶやくように書いている。〈過去でしか会うことのないおれたちだ 何の秘密もあるものか〉〈敵にむかい黙々と出撃し 一夜あければ骨となる/あのきびしさはどこへ行ったか〉と。そして戦後の生き方が問い直される。
 答えられるものなら答えてくれ
 真白な花嫁の胸をした戦友よ
 おれたちがどんなに大きく敗れ おまえたちがどんなに小さく勝利したか
 敵からどんな施しを受け どんな賠償を支払ったか
 眼や耳や手足をなくした不幸な犠牲者に何をしてやったか
 なあ戦友 なぜ黙っている
 まっすくこちらを見ながらおまえは何も見ていない
 すべての秩序が眼の高さにあればいいといった
 安全への愛 怠惰への退却
 妥協の無限の可能性をたよりに
 それがおまえの獲得した一切なのか
 ここでの鮎川の文明批評的な切り口の鋭さは間然とするところがない。たまたま戦場でともに在ったというだけの理由で〈戦友〉になった他者とはもともとどこにも接点がない。敗残者として戦場からもどってみれば敗戦国日本のなんでもない市井の一般人にすぎないかれらには、鮎川のような表現者はただ煙ったいだけの存在にすぎず、問われている生き方の問題など日常のなかに埋没しているかれらにとっては考えたこともない問題のはずである。かれらにとっては〈安全への愛〉〈怠惰への退却〉〈妥協の無限の可能性〉などそれだけで十分なはずであった。それは自明であり、それ以上の理由など必要ないのである。こうして戦後の米軍による占領期を過ぎ、朝鮮戦争の特需を得て立ち直った日本経済は高度経済成長へむけて着実な失地回復を始めていく途上にあった。戦争体験の問い直し、思想化など経ずとも、精神は空洞化しあままで生きのびることができたのが戦後日本人の生きかただた。一九五五年、戦後十年のところで「もはや戦後ではない」といったやや早すぎた日本資本主義復活宣言は、しかしその後の実質的な成長によって〈戦後〉をますます遠くへ追いやりはじめたのである。
 戦争体験を基盤に、戦前からのモダニズム経験を踏まえた鮎川信夫の〈戦後〉もこうして内外ともにそのリアリティを失なっていかざるをえなかったのである。〈さらばだ 戦友/おれたちが本当に分かれるのはこれがはじめてだが ユダの接吻はいらない〉というこの詩の最後は他者との決定的な別れであると同時に戦後社会というひとつの共同性との別れでもあったのだ。
 それからさらに十年後の一九七三年に書かれた「地平線が消えた」という詩になるとこうした決定的な別れはもはや初期の緊張感もなくなって厳然たる事実の最終確認にすぎなくなっていく。
 地上には
 ぼくを破滅させるものがなくなった
 行くところもなければ帰るところもない
 戦争もなければ故郷もない
 時代の批判者でありその同走者でもあった鮎川信夫はこれ以外にもいくつかのテーマを作品化している詩人であって、底の浅い詩人ではなく、じっさいに一九六〇年代以降は戦争体験という主題をはなれて、「Solzhenitsyn」「Who I Am」「必敗者」などという時代をダシにした忘れがたい秀作を残していく、時代を代表する詩人となったのである。。
 鮎川信夫の文明批判者的なありかたにはじつは初期から〈意味〉の回復をその根源的志向にもとうとする思想家詩人としての基礎づけがあった。戦後詩の設立のためには戦争によって失なわれた〈意味〉の回復をこそ実現しなければならなかったからである。一九五五年に書かれた「戦後詩人論」という文章にはこう書かれている。
  戦後の詩と、戦前の詩を区別する最も大切な違いはどこにあるかといえば、詩人も読者も、詩の内容から「意味」を期待するようになったことではないか、とぼくは考えている。それは、歌う詩から考える詩へのプロセスとして理解されるよりも、いっそう深いところで詩人の生き方につながる思想的倫理的問題を提起するものであった。……/戦後社会の荒廃した状況のなかにあって、痛烈な言葉への不信を経験した詩人たちが、生活の土台から切りはなされて形式化してしまった過去の詩の概念に、なんの興味も感じなかったとしても不思議はない。その機能と自律性を失った在来の詩の言葉をすてて、戦後詩人は、言葉の価値を自己の経験によって確かめてゆかなければならなくなったのである。(……)意味の回復への衝動は、世代のちがい、流派のちがいを超えて、すべての詩人の心の奥底にうずいていたように思う。
 この文章が一九五五年という時期に書かれていたことに注意しておきたい。すでに戦後詩の実践者として地位を築いてきていた鮎川だが、そのかれにして〈意味〉への期待というのは与えられたものでなく、新たに勝ち取られるべきものだったのだ。このころの鮎川が〈死の灰〉論争や詩人の戦争責任の追及にふかくかかわっていたことは、この〈意味〉の回復の主張と符節をあわせている。そういうふうにみると、最近の一部の詩や詩論でできるだけ〈意味〉にならないような方法を模索しようとする傾向がみられるのは、鮎川が戦後史の発端で選び取ってきた方法的自覚から後退するもので、へたをすると鮎川が否定的にのりこえてきたモダニズム的方法への回帰に陥る危険を感じないわけにはいかない。
 鮎川信夫が戦争体験からの脱却を〈意味〉に託したとすれば、同じ戦争体験でもユダヤ人の捕囚としてより苛酷な収容所体験をしたパウル・ツェランが依拠しようとしたのは「言葉」だけであった。ツェランが自殺する直接の引き金になったとされている一九六七年夏のハイデガーの山荘への訪問の意味についてはフィリップ・ラクー=ラバルトの『経験としての詩』にくわしいが、(このあたりのことは「思考のポイエーシス188:ツェランとことばへの信念」参照)ジャック・デリダもまた近刊の『赦すこと――時効にかかり得ぬものと赦し得ぬもの』のなかでやはりこのツェランの詩「トートナウベルク」について触れている。そこでデリダはラクー=ラバルトらの解釈とは一線を画すように、次のように書いている。
  ツェランの詩「トートナウベルク」、すなわち彼がハイデガーのもとへのみずからの訪問の記念と証言として書いたあの詩の多くの解説者たちが、失望に終わったある期待の痕跡、すなわち、乞われた_¨赦し¨_を意味してもよかったハイデガーの一つの_¨語¨_へのツェランによる期待の痕跡として読んできたことに接近させてみたいと思う。私は、そのような解釈を確証したりあるいは覆したりする危険を冒すつもりはとりわけないし、ツェランの詩の文字そして省略法に対する敬意をこめて、そのように透明で一義的な読解のほうへ歩を急がせるつもりもない。私がそうするのを差し控えるのは、ただたんに解釈学上の慎重さあるいは詩の文字に対する敬意によってだけではない。むしろそれは、赦し(授けられるあるいは乞われる)は、赦しの宛先は、もしそのようなものがあるならば、永久に決定不可能な仕方で両義的なままにとどまるべきであるということを私が示唆したいからである。私は、曖昧であるとか怪しげだとか中間色めいているなどと言いたいのではない。そうではなく、知の領野、事を限定する理論的判断の、一つの自己固有化可能な意味の自己呈示の領野におけるあらゆる限定に対して異質であると言いたいのだ。そこにあるのは一つのアポリア的論理であり、少なくともこの視点からするなら、赦しは贈与と共通のものをそなえているだろう、だが私はこのアナロジーをここでは作業中のままないし放置したままにしておこう。(守中高明訳)
 なんともデリダ的な独特の判断中止(アポケー)だが、そう言われてみると、たしかにラクー=ラバルトの解釈はやや一義的ないしドラマティックすぎるように思えてくる。つまり、ツェランはハイデガーからの「赦しを乞うことば=Pardon」がほしかったのだとするのは、デリダからすれば単純すぎるというわけである。ただツェランの詩論における「言葉」の絶対性を思うとき、ハイデガーからのユダヤ人虐殺への間接的加担への謝罪のことばをツェランが切に希求していたことを否定することはどうしてもできない。ツェランの「トートナウベルク」という詩が難解であればあるほど、そこに謎めいて表出されたことばの散乱のなかに深い意味を汲み取りたくなる。
「トートナウベルク」とはつぎのような部分をもっている。
 その山荘
 のなかで
 その記念帳のなかに書き込まれた
 (どのような名の数々をそれは載せてきたのか
 私の名の前に?)
 その記念帳のなかに書き込まれた
 その行、
 今日、一つの期待の――
 思考する者の
 言葉
 心へと
 来たるべき、[……]
 ツェランの詩がいかに難解で謎めいていようと、ツェランが表現者としてことばしか依拠するものがなかったということは見逃せない。しかも旧ルーマニア領チェルノヴィッツ生まれのユダヤ系ドイツ人という出自をもつツェランは生まれながらにしてドイツ語という、のちに敵性語とさえなってしまう言語を母語にせざるをえない詩人だったし、そのドイツで抹殺対象の人間としてとらえられるという深い傷を負った詩人である。戦後はパリに住まうが、一生あてどのない生活を送らざるをえなかったことになる。みずからの師匠とも目したハイデガーにお詫びのことばをえられなかったツェランが深い絶望に陥ったとしてもゆえなきことではない。ともあれ、そういう出自と生活環境にあったツェランだからこそ、その詩のことばは切実だったはずである。
 そういうツェランを思うとき、もうひとり思い起こすべきなのが、在日朝鮮人詩人としての金時鐘(キム・シジョン)である。最近、岩波新書として刊行された『朝鮮と日本に生きる――済州島から猪飼野へ』(二〇一五年)には済州島四・三事件についての詳細な凄惨極まる記述があるが、それ以前に刊行されていた金石範との対談『なぜ書きつづけてきたか なぜ沈黙してきたか――済州島四・三事件の記憶と文学』(二〇〇一年、平凡社)はより包括的に金時鐘の沈黙と詩人としての存在のありようを教えてくれる貴重な書である。そのなかで金石範による金時鐘を総括することばがある。
《彼〔金時鐘〕は詩人としてぎりぎりのところで実践活動に参加した。その中で、彼が武器にしたものは何かというと、日本語ですよ。彼は、解放後、それまでの「日本人」であることを否定されたが、数年後、その日本へはじめて来る。そこで結局、今度は日本語を武器にして文学をやっていくことになる。これは非常に矛盾する話だ。(……)日本語は戦前、鞭と脅迫によって覚えさせられたものだ。それは戦後一旦、否定されたはずのものだった。ところが今度は、日本にやって来て再び日本語を使って詩を書くとなった時、時鐘にとっての日本語の意味は、心理的にも日本にずっとおった人間とは違う要素を持ってくるんじゃないかと思う。そこに見えるのが論理性である。私の言う論理性というのは意志の力だ。時鐘の詩は意志だ。意志は必ず論理性を持っている。構想的な力です。》(一四七─一四八頁)
 この評言は金時鐘という特異な在日朝鮮人詩人の存在を考えるうえでコンパクトな理解を得られる規定になっている。皇国少年として植民地朝鮮で育ち、日本語文学を小さいときから学習したが、日本の敗北によって独立朝鮮を他動的に与えられることになり、その後の南北分断という国際政治力学のなかで南朝鮮は米軍政支配のもと旧植民地系親日勢力の軍事的暴力的支配にさらされることになる、そのなかで済州島に生まれ育った金は急速に左翼の運動家になっていくのだが、日本ではあまり知らされることのなかった四・三事件を原因として日本に密航船で命からがら渡ってくるところから金の日本での苛酷な闘争人生が始まるというわけだ。こうした金の日本語の詩とはツェランとは別の意味で疎外を前提として引き受けるなかから発されたものだったわけである。わたしの若書きの長篇評論『方法としての戦後詩』(一九八五年、花神社)のなかで当時としてはいちはやく金の詩集『猪飼野』について一節をわたしは書いているが、在日朝鮮人の苦難といった、いまからみると通り一遍のものにすぎなかったことがわかる。金はすでにこう書いていたのだ。
 日本人に向けてしか
 朝鮮でない
 そんな朝鮮が
 朝鮮を生きる!
 だから俺に朝鮮はない。
     (「日々の深みで(1)」
 こうしたことばの強さはどこからくるのか。言うまでもなく日々を生きる存在の深みからにほかならない。ことばが書かれるべくして書かれているからこその強さなのだ。詩を書くことの必然性とはそうした存在論的な根拠なしでは生起しないのである。(2015/4/29-30)

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