« 2014年10月 | トップページ | 2015年3月 »

2015年2月

2015年2月22日 (日)

思考のポイエーシス189:佐々木力の核科学批判

 佐々木力の長大な「ベイコン主義自然哲学の黄昏」(「思想」2011年11月号)をおもしろく読み、いろいろ学ぶことが多かった。この論文で佐々木が言いたいことは、16世紀イギリス生まれの哲学者フランシス・ベイコンの哲学的学問的野心が人間による自然の支配というところにあったとしたうえで、現代の〈フクシマ〉以後の科学のありようがそのベイコン的科学の野心の著しく歪められた形態に成り下がっている、と要約することができる。
 大法官職の息子として生まれたベイコンは、みずからも有力な政治家として当時のイギリスにおいて大きな役割をはたした人物でもあるが、その位置からみるときベイコンの学問的科学的野心は科学の力によって自然をできるかぎりコントロールして人間界に寄与しようとするものであった。佐々木によれば、それは自然破壊思想というよりは「人間愛」に充ちたものであった。プラトン的な精神力によるものではなく、「事物〔自然界〕への人間の支配権」は技術と学問によるのである、とベイコンは書いている。プラトンやアリストテレスの時代とちがって、ベイコンの生きた時代はすでにこうした機械的技芸の発達を受けて、より技術的学問的に自然に相対することができはじめていたからである。
 こうしたベイコン的学問のパラダイムは西欧近代文明の「先進性」を保証するものとして現代にまで及ぶものであったわけだが、佐々木によれば、このベイコン的パラダイムが問題になってきたのは、現代資本主義が脱植民地主義を実現してから資源と自然環境にたいする破壊者として立ち現われてくるようになってからである、という。「自然に敵対する帝国主義」というのが佐々木の現代帝国主義にたいする根本規定であるが、その最たるものが原子力テクノロジーが抱える問題である。
 16/17世紀の科学思想史家であると同時に東北出身者である佐々木力にとって、東日本大震災にともなう福島第一原発事故こそは断じて許すことのできない人災(わたしはこれを「学災」と呼んでみたい)であり、科学思想のおそるべき頽落であると認識されたにちがいない。この論文が原発事故と同じ年に書かれたことに注意しなければならないのはそのためである。「反原発」はいまや差別に抵抗するものであるという反骨の核科学者、小出裕章に佐々木が同意するのも、東北人・佐々木力の面目躍如たるものでもある。佐々木は論文の終りのほうでこう書いている。
《私は、近代西欧科学の成果を否定し、その延長上にある現代科学技術を全面的に否定しようとするのではない。むしろ、その知見を尊重し、そのうえで、現代のわれわれが採用するテクノロジーを主体的に選択しなければならないと主張しているのである。原子力テクノロジーは、それが先端的科学に基づいているから採用してはならないというのではなく、科学技術的に放射能が統御不可能であり、人類に災厄をもたらすから、使用してはならないとするのである。論拠は徹頭徹尾科学的なのである。とりわけ、地震が頻発する日本において、原発を建設維持しようとするのはまったく愚行である。》
 現代の核科学は〈ウルトラ・ベイコン的科学〉として本来のベイコン的学問の健全で高貴な自然哲学的野心から大きく逸脱し、反自然的なものにまで後退してしまったことを佐々木は厳しく断罪しているのである。(2015/2/19)
*これは「西谷の本音でトーク」ブログの同題の文章に若干の追加をしたものです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年2月 7日 (土)

思考のポイエーシス188:ツェランとことばへの信念

 ツェランは「ハンザ自由都市ブレーメン文学賞受賞の際の挨拶」(一九五八年)のなかでこんなふうに書いている。
《もろもろの喪失のただなかで、ただ「言葉」だけが、手に届くもの、身近なもの、失われていないものとして残りました。/……そうです、すべての出来事にもかかわらず。しかしその言葉にしても、みずからのあてどなさの中を、おそるべき沈黙の中を、死をもたらす弁舌の千もの闇の中を来なければなりませんでした。言葉はこれらをくぐり抜けて来、しかも、起こったことに対しては一言も発することができませんでした、――しかし言葉はこれらの中を抜けて行ったのです。》(『パウル・ツェラン詩論集』飯吉光夫訳、六一ページ)
 ここでの「もろもろの喪失」「おそるべき沈黙」「死をもたらす弁舌の千もの闇」とはアウシュヴィッツに代表されるユダヤ人虐殺の、ことばさえも絶句させられる出来事の苛酷さを指しているのは言うまでもない。しかしツェランはそうした絶句と苦しみのなかでさえことばが、ことばのみが生き抜いてきたこと、それが「ふたたび明るい所に出ることができ」たことを信じている。
 このことはわたしにツェランが戦後の一九六七年夏、トートナウベルクのハイデガーの山荘を訪れたさいのことを詳細に記述したフィリップ・ラクー=ラバルトのツェラン論『経験としての詩――ツェラン・ヘルダーリン・ハイデガー』の印象深い一節を思い出させる。
《一言、単純な一言が問題なのである。ツェランは書く――なにを書くのか。一行、あるいはひとつの詩句だ。彼はただ語を要求する。そして、その語はあきらかに口にされることはなかった。なにもなく、沈黙、だれも。語は到来しない。》《その語とはもっとも控えめな語であり、それでいて口にすることがもっとも困難で、まさしく「自己からの脱出」を要求する語である、と。〈西洋〉全体が、贖罪のパトスのうちにありながら、けっして口にすることができなかった語であり、これを言えるように学ぶことは私たちに残されたことなのだ。もしその語を言えなければ、私たちは崩れさることになるであろう。その語とは、_¨すまない¨_(<I>pardon</I>)という語である。》(谷口博史訳、九二─九三ページ)
 ツェランがハイデガーに期待したのは、ハイデガーが一時期とはいえナチに加担したこと、ユダヤ人の追放さらには虐殺へのレールに乗ったことにたいして、哲学者としての責任において謝罪のことば、それもひとこと、「pardon」であったということ、それにもかかわらず、ハイデガーからはなんのことばもなかった、そのことがハイデガーに私淑していたツェランにとって決定的なダメージを与えたことになる。それが三年後(一九七〇年)のツェランのセーヌ川への投身自殺に帰着したのではないか、ということは推察しうることである。
 ツェランは同じ文章で、ことばへの信頼についてこう書いている。
《詩はことばの一形態であり、それゆえにその本質上対話的なものである以上、いつかはどこかの岸辺に――おそらくはに――流れつくという(かならずしもいつも希望にみちてはいない)信念の下に投げこまれる投壜通信のようなものかもしれません。詩はこのような意味でも、途中にあるものです――何かをめざしています。》(同六二ページ)
 この一縷の望みのような信念、それをツェランはハイデガーからの謝罪の一言に託したのかもしれない。ツェランが講演「子午線」で言うところの「絶望的な対話」の不成立、投壜通信はついに「心の岸辺」に回収されなかったのである。(2015/2/6-7)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2014年10月 | トップページ | 2015年3月 »