2014年

2014年10月 2日 (木)

思考のポイエーシス187:詩人による批評にならないエッセイという試み?

 最近の詩人たちのエッセイを読むと、全体に表層的というか、直感的というか、あまりにも浅いところで思考が進められているように思えてならない。これを良く言えば、理屈にたよらずに詩人らしい直観力が働いているともみなされないわけではない。それ自体が意味がないとも言えないから、ここで必ずしも否定的に考えているわけでもない。
 しかし、詩的ジャーナリズムがこういう傾向をあまり手放しで肯定的にとらえているようだと、いささか話は別にならざるをえない。たしかにどこのジャンルでもこうした安易な思考の傾向が強くなってきているのは否定できないが、それでも現代詩の世界ではそれが目につくようになっているのではないか。なにも現代詩をもっとむずかしく考えるべきじゃないかとか言おうとしているつもりもないが、思考の営為に属する他のジャンルのものと比べると、詩人なのだからちょっとぐらい思考の水準が低くても良しとしているのじゃないかと思わざるをえないのである。これじゃ、ほかでは通用しない。
 ここではわたしのところにまでわざわざ寄贈してくれているものから二例をあげておく。
 ひとつは貞久秀紀『雲の行方』(思潮社)。明示と暗示という概念をテーマとしており、気になって目を通してみた。明示はデノテーション、暗示はアリュージョンまたはコノテーションということになるはずで、言語学的な掘り下げがあるかと思いきや、そういうものではなく、暗示のかたちで明示されているものがあるし、明示されているものも必ずしも自明ではない、といった議論を延々と展開するばかりである。読了時にネットで書いた感想を引けば、《正直言って完読するのに苦労した。哲学的散文詩ともデカルト的な問いとも言えば聞こえはよいが、問いが堂々巡りしてしまうので、いっこうに深まらず、結論らしきものもない。叙述する快楽は感じるが、ひとり相撲かも。》(8月14日)と書いたが、いまも基本的に変わらない。
 もうひとつは谷内修三『谷川俊太郎の「心」を読む』(思潮社)。谷川俊太郎の詩集『こころ』について自身のブログで書きつづけた、批評や意味になる以前のところでの「感想」をまとめたもので、当人は批評や意味になることを極力避けたところで、反射的に感じたものをストレートに書く、というスタイルで一貫している。これはもともと谷内の書き方がそれに近いのであって、谷川俊太郎にたいしてはその感想のスタイルが波長が合ったというにすぎない。谷川はえらく気に入っているようだが、著者としては批評的にこむずかしく論じられるよりはこうしたストレートさが好ましく映ったにしても、谷内のそれが谷川の詩に同調しあるいは抵抗し、その瞬間的な解釈を投げ出す、つまり意味を与えない、というかぎりにおいてしか存在理由をもたないのも、この方法のもう一方の限界を示している。つまりこの方法(感想)は対象にまつわりつく以外に書くことの必然性をもたないのである。批評行為の対象化という突き放しの手続きを意識的に排除することによって得られる書くことの意味は、もはや問われない。しかしそれでも書くことの究極の意味はみずから問わずにいられるものだろうか。(2014/10/1)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

思考のポイエーシス186:存在の問いという原初的衝撃

 パウル・ティリッヒはハイデガーの存在の問い(そこに何かがあるのはなぜか)にたいして神学思想家としてとても重要なことを語っている。
《この問いは、古典的な哲学者たちによって、そもそものはじめから問われてきた問いなのです。もちろんこの問いに答えることはできません。そしてこの「なぜ」は、答えられてはならないものです。この問いは、論理的に答え得る問いではありません。この問いは叫びであり、ある衝撃の表現です。そしてこの衝撃は、すべての哲学的思考の生まれ故郷なのです。》(「ハイデガーとヤスパース」、「みすず」2013年8月号)
 ひとははじめて何かがあるのはどうしてか、という問いに遭遇するとき哲学的衝撃に触れるのである。この問いに論理的に答えることはだれにもできない。しかしそれはだれもが問う問いだとティリッヒは言う。《なぜなら、それは哲学者を生み出す問いだからです。そして、この問いに含意されている衝撃を経験したことがいまだかつてない人は、たとえ哲学史全体を暗記していたとしても、決して自らを哲学者と呼ぶことはできないのです》と。
 この問いは哲学的思考を生み出すが、もう一方では、詩的思考あるいは詩的衝動を生み出すとも言える。そこに何があるか、そこにあるのはどうしてか、と問いを発すれば、そこに見いだされる衝撃は論理的な答えを求めないものだとすれば、哲学的に新たな問いを立てる方向に進むか、そこに立ち止まって詩的言語への変換と展開の方向に脱出路を見いだそうとするかしかないからだ。
 たとえば、ジル=ドゥルーズは、哲学とは何かと問うて、「哲学とはコンセプトを形成し、発明し、作り出す技術(アート)である」と『哲学とは何か』の序文で書いているではないか。とすれば、詩人はこの原初的衝撃からどこへ向かい、何を生み出すのか。(2014/5/21)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年1月 4日 (土)

思考のポイエーシス185:自発的隷従から自由になること

 エティエンヌ・ド・ラ・ボエシの『自発的隷従論』(Discours de la Servitude volontaire) (*) が今回、ちくま学芸文庫版で刊行された。現代日本の政治状況をみるにつけ、この論が示唆するところはきわめて大きい。そこでこの本について簡単に紹介とコメントをしておきたい。
 ラ・ボエシの論は、一般に多数者が少数者または一者にたいして隷従すること、それも自発的に隷従することの愚と心理を人間の自由の問題と関連して明らかにしたものであって、これはラ・ボエシが生きた時代(1530-1563年)の現実にたいする具体的な批判として書かれたものではなく、抽象的な一般論として専制支配と隷属の関係を分析したものとされている。この、モンテーニュと同時代の、そしてモンテーニュの若き友人として知られるラ・ボエシがこの短い論文を書いたのは、なんと十六歳から十八歳ごろとされている。だから、ここではかれのギリシア・ローマの古典の知識などから得られた素養にもとづいて、人間存在の自由が隷従的関係におかれることによっていかに損なわれているかを論じたものと考えてよい。この時代にこうしたテーマを考察すること自体、きわめて先見性にあふれたもので自由論としても先駆的な仕事と言わざるをえない。たとえば、ラ・ボエシはこんなふうに書いている。
《ここで私は、これほど多くの人、村、町、そして国が、しばしばただひとりの圧政者を耐え忍ぶなどということがありうるのはどのようなわけか、ということを理解したいだけである。その者の力は人々がみずから与えている力にほかならないのであり、その者が人々を害することができるのは、みながそれを好んで耐え忍んでいるからにほかならない。その者に反抗するよりも苦しめられることを望むのでないかぎり、その者は人々にいかなる悪をなすこともできないだろう。》(11ページ)
 この問題設定にもとづき、ラ・ボエシはさらにこう書く。
《信じられないことに、民衆は、隷従するやいなや、自由をあまりにも突然に、あまりにもはなはだしく忘却してしまうので、もはやふたたび目ざめてそれを取りもどすことなどできなくなってしまう。なにしろ、あたかも自由であるかのように、あまりにも自発的に隷従するので、見たところ彼らは、自由を失ったのではなく、隷従状態を勝ち得たのだ、とさえ言いたくなるほどである。》(34-35ページ)
 こうした問題意識からこのラ・ボエシの論は展開されている。そしてこの隷従者の心理はまったくもって今日的な支配―隷従関係においてもそっくりあてはまるのがおそろしいところである。そこにこの数世紀もまえに書かれた論の透徹した洞察力がいまも読み返される必然があると言えるのだ。
《圧政者のまわりにいるのは、こびへつらい、気を引こうとする連中である。この者たちは、圧政者の言いつけを守るばかりでなく、彼の望む通りにものを考えなければならないし、さらには、彼を満足させるために、その意向をあらかじめくみとらなければならない。彼の命に従って働くために、自分の意志を捨て、自分をいじめ、自分を殺さねばならない。》(70ページ)
 ここから圧政者は何人かの取り巻きを作り上げ、その連中に餌を撒くことによってかれらを支配し、その連中がまたさらにその下位に同じような取り巻きを作り、隷従しながらより下位の者を支配するという何重もの構造を作り上げる。これは一種の官僚組織のようなもので、末端までこうした隷従と支配の二重性を生きる者たちの層を生み出す。こうして圧政者はひとりの独裁者でありながら、こうした支配構造の頂点にいて、いながらにして被支配者の自発的隷従を引き出すことができるのである。そこから以下のような必然とそれに代わる人間のありかたが導かれる。
《たしかなのは、圧政者は決して愛されることも、愛することもないということだ。友愛とは神聖な名であり、聖なるものである。それは善人同士の間にしか存在しないし、互いの尊敬によってしか生まれない。それは利益によってではなく、むしろよき生きかたによって保たれる。》(76ページ)
 こうしてラ・ボエシの論は支配と隷従の関係から離れたところに初めて友愛にもとづいた自由な人間関係の成立をみようとするのである。モンテーニュとラ・ボエシの関係がそうであったように。凡庸でなんの見識もない政治家があたかも独裁者のように君臨し、官僚やマスコミがそれに隷従する現代の日本社会の政治的ありかたをみるとき、このラ・ボエシの論はわれわれの生きかたへのおおいなる問題提起となっているのではなかろうか。
(*) エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ『自発的隷従論』西谷修監修、山上浩嗣訳、ちくま学芸文庫、2013年。以下の引用はこの書物より。

| | コメント (0) | トラックバック (0)