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2014年10月

2014年10月27日 (月)

断章22

〈本の文化は壊滅的である政治が悪い教育が悪いマラルメの書物の絶対性はいまやどこにも存在しない
〈本を読むひとはいないひとりよがりで書くひとばかりで誰も興味がわかないそれをいいことに孤高を気取るなばかめ
〈それでもわたしは書くどこに根拠があるのかしらないとは言ってはいけないがそれを知るのもひとつの理由か
〈BOOKISHな人間であるなとつくづく思う本を読み活字を追う時間に追われる因果な人生
〈日々紙の上で跳梁する文字を追っていると現実との接点が怪しくなってくる文字はいつもすでに遅れた時間デリダはそれを差延ディフェランスと呼んだ差異じゃないんだよね遅れ
〈古典なんかはその最たるものさだけど古いことばがいまでもリアルに生きているという逆説それが古典をいま読む意味なのさわかるかねきみ
〈世界はことばでできているこの峻厳たる事実じゃなくて真実テクスト-内-世界という重要な構造認識われわれ世界-内-存在たるヒトに刻み込まれた傷としてのことばに深く納得せざるをえない
〈世の中はつまらない本ばかりでできているこれがそもそもこの国の頽廃の理由だ読んでも利口になるわけじゃなし
〈すこしはものを考えられるようにもならないためにこの国の一億総白痴化教育政策はとられてきたそのツケをみんなではらっているのさ
〈(この「白痴」という単語も変換候補に挙げられなくなっているのもくだらない反差別意識の現われだ)
〈ひさびさにマルクスを読んでみると言うべきことはとことん言わなきゃいけないということを痛感する小熊秀雄もそうだみんなそこまで考えていないし考えることを怖れているからだ
〈わたしがスピノザを読んでいると書くとそんなのわかるのと言ってきた愚かな知り合いがいたこともあったひとは自分の甲羅にあわせてしかひとを理解できないというか理解しようとしないまあそんなのとといっしょにされた自分を哀れむしかないが無知とはつまらぬものだ
〈そこまで書くのかという自分の無恥をわきまえずに自分の知っていることをあたかもなにごとかの発見であるかのようにある大資本家詩人について論じているかつての友人の垂れ流しを読んでいるとなんと猥褻なことか死者を冒涜するのは読むにたえないが読んでしまって疲れる
〈いったい編集者はなにを見てるんだ本の価値もわからない銀行屋ふぜいに経営の本質について幼稚な講釈を聞くのと同じだ本の話をするととたんに逃げ腰になる自分たちは教養がないからとねそんなこととっくに知ってるわい
〈そんなことを言うと友達をなくすとかでもねえ友達なんてそんなものさわたしは本質的に人嫌いだからねでしょうかおのおのがた
〈こうやってことばを書き散らすのは初めてだがこれが詩だったらそんな書き方は詩ではないとひとは言うだろうねTwitterで詩を書くなどは最悪の方法だとでもこれで点数稼いだ詩人がいたではないかこれでも書けるならいいことにするか詩だからすべて許されるかってそんなこと知るもんか

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2014年10月 2日 (木)

思考のポイエーシス187:詩人による批評にならないエッセイという試み?

 最近の詩人たちのエッセイを読むと、全体に表層的というか、直感的というか、あまりにも浅いところで思考が進められているように思えてならない。これを良く言えば、理屈にたよらずに詩人らしい直観力が働いているともみなされないわけではない。それ自体が意味がないとも言えないから、ここで必ずしも否定的に考えているわけでもない。
 しかし、詩的ジャーナリズムがこういう傾向をあまり手放しで肯定的にとらえているようだと、いささか話は別にならざるをえない。たしかにどこのジャンルでもこうした安易な思考の傾向が強くなってきているのは否定できないが、それでも現代詩の世界ではそれが目につくようになっているのではないか。なにも現代詩をもっとむずかしく考えるべきじゃないかとか言おうとしているつもりもないが、思考の営為に属する他のジャンルのものと比べると、詩人なのだからちょっとぐらい思考の水準が低くても良しとしているのじゃないかと思わざるをえないのである。これじゃ、ほかでは通用しない。
 ここではわたしのところにまでわざわざ寄贈してくれているものから二例をあげておく。
 ひとつは貞久秀紀『雲の行方』(思潮社)。明示と暗示という概念をテーマとしており、気になって目を通してみた。明示はデノテーション、暗示はアリュージョンまたはコノテーションということになるはずで、言語学的な掘り下げがあるかと思いきや、そういうものではなく、暗示のかたちで明示されているものがあるし、明示されているものも必ずしも自明ではない、といった議論を延々と展開するばかりである。読了時にネットで書いた感想を引けば、《正直言って完読するのに苦労した。哲学的散文詩ともデカルト的な問いとも言えば聞こえはよいが、問いが堂々巡りしてしまうので、いっこうに深まらず、結論らしきものもない。叙述する快楽は感じるが、ひとり相撲かも。》(8月14日)と書いたが、いまも基本的に変わらない。
 もうひとつは谷内修三『谷川俊太郎の「心」を読む』(思潮社)。谷川俊太郎の詩集『こころ』について自身のブログで書きつづけた、批評や意味になる以前のところでの「感想」をまとめたもので、当人は批評や意味になることを極力避けたところで、反射的に感じたものをストレートに書く、というスタイルで一貫している。これはもともと谷内の書き方がそれに近いのであって、谷川俊太郎にたいしてはその感想のスタイルが波長が合ったというにすぎない。谷川はえらく気に入っているようだが、著者としては批評的にこむずかしく論じられるよりはこうしたストレートさが好ましく映ったにしても、谷内のそれが谷川の詩に同調しあるいは抵抗し、その瞬間的な解釈を投げ出す、つまり意味を与えない、というかぎりにおいてしか存在理由をもたないのも、この方法のもう一方の限界を示している。つまりこの方法(感想)は対象にまつわりつく以外に書くことの必然性をもたないのである。批評行為の対象化という突き放しの手続きを意識的に排除することによって得られる書くことの意味は、もはや問われない。しかしそれでも書くことの究極の意味はみずから問わずにいられるものだろうか。(2014/10/1)

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思考のポイエーシス186:存在の問いという原初的衝撃

 パウル・ティリッヒはハイデガーの存在の問い(そこに何かがあるのはなぜか)にたいして神学思想家としてとても重要なことを語っている。
《この問いは、古典的な哲学者たちによって、そもそものはじめから問われてきた問いなのです。もちろんこの問いに答えることはできません。そしてこの「なぜ」は、答えられてはならないものです。この問いは、論理的に答え得る問いではありません。この問いは叫びであり、ある衝撃の表現です。そしてこの衝撃は、すべての哲学的思考の生まれ故郷なのです。》(「ハイデガーとヤスパース」、「みすず」2013年8月号)
 ひとははじめて何かがあるのはどうしてか、という問いに遭遇するとき哲学的衝撃に触れるのである。この問いに論理的に答えることはだれにもできない。しかしそれはだれもが問う問いだとティリッヒは言う。《なぜなら、それは哲学者を生み出す問いだからです。そして、この問いに含意されている衝撃を経験したことがいまだかつてない人は、たとえ哲学史全体を暗記していたとしても、決して自らを哲学者と呼ぶことはできないのです》と。
 この問いは哲学的思考を生み出すが、もう一方では、詩的思考あるいは詩的衝動を生み出すとも言える。そこに何があるか、そこにあるのはどうしてか、と問いを発すれば、そこに見いだされる衝撃は論理的な答えを求めないものだとすれば、哲学的に新たな問いを立てる方向に進むか、そこに立ち止まって詩的言語への変換と展開の方向に脱出路を見いだそうとするかしかないからだ。
 たとえば、ジル=ドゥルーズは、哲学とは何かと問うて、「哲学とはコンセプトを形成し、発明し、作り出す技術(アート)である」と『哲学とは何か』の序文で書いているではないか。とすれば、詩人はこの原初的衝撃からどこへ向かい、何を生み出すのか。(2014/5/21)

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