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2014年3月

2014年3月21日 (金)

断章21

「目も見えぬ
耳も聞こえぬ
しかし、殺された刹那をしっている
冷たい刃先が自分をえぐった瞬間
芯からわいて出た熱い赤」(*)
未知の詩人のことばがわたしをえぐる
殺されるために生まれてきたような
実験動物の微小すぎるいのち
だがその血の哀しみは深いところからわたしを撃つ
それは存在そのものの哀しみの純粋な叫びだからだ
生を享けたことを痛みとしてしか返せない
だが誰に

犬が死んだ
その不在の夜
有機体としての存在を燃やした骨が
空虚な花たちを見下ろしている
静かにほろんだ愛しいかたちが焼けた台に遺された
その残酷なまでの愛らしきフィギュア
そのままに生きてきたのだ
けなげに生きることがひとの喜びとなり記憶となった
でもやはり死ぬときはどんな生きものも最後の感覚を味わうのだ
その痛みを返す相手がいることがうれしいだけだ

(*)伊藤公成「赤い池」
(2014/3/21)

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断章20

ことばが命と同じぐらいに軽くなったいま
どうしてことばを発せられるか

若者たちはことばの意匠に技を競い
生きることに疲れたものたちはなすすべもなく声を失なう
けれどことばは胃の底から吐き出されようとしている
それはどのようなことばなのか
うつくしいことばは世に無情に流れて消える
意味も根拠も問われないことばだけが時流に乗って
この世の掃き溜めに流れていく

この時代
哲学のことばは浪費され
低能な施政者の紋切り型だけが虚空をうつ
ことばはこれほど価値がなくなったのか
どこかにあるべきことばの力を
いまなお求めることはだれの仕事なのか

ことばはどこまでもことばでしかなくとも
きっと知らないだれかにささやきかける
生きることの意味はここにあるのではないかと
ひとがなにによって生きるのか考えたことはあるかと

絶望することは簡単だ
この世は愚劣と面倒で充ちている
あるべき生とはほど遠くても
そこに近づくことは不可能ではない
よりよく生きるには方法がいる
そのひとにしか意味のない方法が
それがことばだ
それがどんなにささやかなことばでもいい
そのひとにとって生きることと等価であれば
それにもっとふさわしいことばだってあるはずだ
そのひとがことばに開かれていれば
それをもとめるのが詩であれば
そこにこそ詩を書く意味がある
詩が読まれる意味もある
詩が哲学になるとはそのことである
(2014/1/3)

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