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2013年9月

2013年9月12日 (木)

断章18:難解な野村喜和夫

未知の若い詩人から野村喜和夫「難解な自転車」についての詩かエッセイを頼まれた
うっかり締切を過ぎてしまったがなんとかなるだろう
ということで書きはじめたのが以下の文
これを詩とみるかエッセイとみるかは読むひとにまかせよう
改行しているところをみるといまのところは詩のつもり
つまり見たところ改行していれば
詩とみなす
というのが当今の詩的流儀だからいまのところそれにしたがっているにすぎない
どうなるかわからないところで書きはじめているが
指定の六〇行から一〇〇行もつだろうか
こういう緩さでものを書くのは初めてなのでうれしい

なぜか家のまえに自転車が放置されている
そのことへのわからなさが一篇の詩をかたちづくる
あまつさえ詩集のタイトルにまでなってしまう
〈ものを移すということ。あるものを、それが本来置かれるべき場所から、べつのとんでもない場所に移すということ。すると俄然、そのものは特別の美を放ちはじめる。〉(*)
そこにデュシャンの「便器」やロートレアモンの「ミシン」がご愛嬌のように出てくるのが野村流だ
これは修辞学的にはメトニミー(換喩)と呼ばれる
すると〈難解な自転車〉とはメトニミーなのかメタファーなのか
自転車がありうべきでない自宅の前に放置される
これ自体はメトニミーではない
たんなる移動だ
だが そう書かれるとすでにたんなる移動ではなくなる
〈とんでもない場所〉に移された自転車について書くということは
それ自体が事物の世界からエクリチュールの世界への移動だからだ
だがすでに〈難解な〉という修飾語が付けられてしまった
これはこの形容詞が〈本来置かれるべき場所〉から逸脱して自転車の形容詞となること自体においてこの移動はメタファーにちかい
そう言えば野村喜和夫はかつてメタファーを古くさいものとして否定したことがあったな
わたしは「隠喩的思考」(**)という二十二年前の論考で
詩的言語の構造そのものが隠喩であることを指摘しているので
野村君とは詩についての認識がちがう
単純に言えば
詩という体裁をとるととたんにそこに置かれたことばが隠喩として機能するということである
いま現在ここに書きつけていることばも隠喩である
だからそのまま解釈してはいけないということになる

思い出したが
以前ある場所(***)で野村喜和夫の詩は「よだれ」であると当人の前で言明したことがあった
まことに失礼な話だが
いまその部分を読み返してみるとけっこういいことを言っている
当人もあきれかえって「いろいろ言っていただいて、つけくわえることはありません(笑)」だと

あれから十年もたっているが
野村喜和夫の詩はやはり一貫して「よだれ」であって
最近はそれに粘りがでてきて糸を引くようになっている
この放置自転車の話も実話だと聞いたが
それでもこんな意味ありげな詩にしてしまい
〈私の 頭の どこか へりに ひ ひっ
かかって いる
難解な 難解な
自転車よ〉
と〈ひ ひっ/かかって〉歌える野村喜和夫の口唇的エクリチュールの垂涎的愉快さ
そして最後に
〈誰か 髪の 長い
すらりとした 肢体の
誰かに またがって もらって 颯爽と
私の 頭の どこか へりから
立ち 去れ 難解な
自転車よ〉
といつもの野村的性欲の一端をちょろりと見せて
どこまでもキワオはエロスの街道を突っ走って行くのである
この意味で
〈難解な自転車〉とはじつは野村喜和夫自身のメタファーなのだ
詩を書くひとはみずからの詩のメタファーになる
という一般的なことを言いたいのではない
意図せず野村喜和夫はメタファーの詩人であることを
誰よりもその書く詩において体現しているのである
そう読み取ってしまえば
ここに難解でない野村喜和夫がいる
とも言えそうだが
もしかしたらそれこそが難解な野村喜和夫なのかもしれない

ところで
わたしのこの文は野村喜和夫的よだれのパスティーシュなのだが
とわざわざ断る必要ももはやないだろう

(*)野村喜和夫「難解な自転車」冒頭。
(**)「現代詩手帖」一九九一年八月号、野沢啓『隠喩的思考』一九九三年、思潮社、所収。
(***)「現代詩手帖」二〇〇三年十二月年鑑号での野村喜和夫、和合亮一との鼎談討議「持続と模索、それぞれの途上で」。

(これは「難解な野村喜和夫」と題して「詩の練習」第8号に掲載されました。編集人の杉中昌樹さんの了解を得てここに掲載します。)
(2013/7/23)

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