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2013年7月

2013年7月29日 (月)

思考のポイエーシス184:バフチンのドストエフスキー論

 ミハイル・バフチンの『ドストエフスキーの創作の問題(付:より大胆に可能性を利用せよ)』(桑野隆訳、平凡社ライブラリー)はドストエフスキー論としても出色のものだが、これが一九二九年に書かれたバフチンの処女作だというのも驚きだ。訳者の桑野隆の解説によれば、一九六三年になって増補改訂版として『ドストエフスキーの詩学の問題』が刊行され、そちらのほうは邦訳もすでに二種類出ている。こちらにはバフチンの代名詞とも言える「カーニヴァル」論が加えられているが、一九二九年版初版にはまだそういう視点はないため、ポリフォニー論が中心になっているという特徴がある。なんだ、それじゃ増補改訂版のほうがいいじゃないか、ということになりそうだが、どっこいそうではなく、増補改訂版ではいろいろ編集上の注文のためにかなりの不要な改訂がなされてしまって、バフチンのもともとの表現思想が歪められている、というのが訳者の立場であり、あらためて初版を訳出した理由なのである。
 バフチンははじめのほうで自身のドストエフスキー論を概括してつぎのように述べている。
《<G>自立しており融合していない複数の声や意識、すなわち十全な価値をもった声たちの真のポリフォニーは、実際、ドストエフスキーの長篇小説の基本的特徴となっている。</G>作品のなかでくりひろげられているのは、ただひとつの作者の意識に照らされたただひとつの客体的世界における複数の運命や生ではない。そうではなく、ここでは、<G>自分たちの世界をもった複数の対等な意識</G>こそが、みずからの非融合状態を保ちながら組み合わさって、ある出来事という統一体をなしているのである。》(一八ページ)
 つまりドストエフスキーの小説にあっては作者はプロット上の決定権をもたず、主人公のことばや行動はその意識が動くがままに、複数の他者たちとの関係のなかでいわば自動的に生成されていく。現実の世界のように、さまざまに自立した人間たちがそれぞれの考えをもちながら、他者によって影響されてそれぞれの世界を構築していくように、登場人物は作者の単一的な世界の一構成要素にすぎないわけではない。作者によって設定された人物同士がたがいに作用しあっていくことによって物語がどんどん進行していく。
《主人公の内的対話に介入せず中立的で、客体視して完結した主人公像を構成するであろうような、当事者不在の言葉など、ドストエフスキーは知らない。人間の個性を決定的に総括してしまうような〈当事者不在の〉言葉は、ドストエフスキーの構想のなかにはいっていない。自分の最終的な言葉をすでに述べている、確固たる、死せる、完成した、応答なきものは、ドストエフスキーの世界には存在しない。》(二九〇ページ)
 バフチンはドストエフスキーの小説における対話性を強調するが、その対話には登場人物の内実を伴わないことばなどはないとされる。作者が勝手に介入することはできないのである。ドストエフスキーの小説は、自分自身の内心との対話もふくめて対話部分が通常よりも非常に多いように思うが、それらはあらかじめ決められたプロットに乗っかって展開されるのではなく、あたかもそれ自体が自己増殖するように思いがけない方向に読者を(おそらく作者自身をも)連れ去るのである。これが複数の自立した声をポリフォニックに響かせているドストエフスキーの小説だというわけである。いかにもバフチン的なドストエフスキー解釈だが、たとえば『カラマーゾフの兄弟』においてゾシマ長老の死にあたってのアリョーシャの異常な振舞いにたいして作者が割り込んできて擁護するところなど、かならずしも作者の主導性が失なわれているばかりとは思えない箇所もあるので、いささか自身のポリフォニー論に引きつけすぎている感も否めないわけではない。
 バフチンの結語を引いてみよう。
《作者がそれぞれの主人公の自意識に対置しているのは、主人公を外部から包みこみ取り囲んでいる、主人公についての作者の意識ではなく、複数の他者の意識であり、それらは作者と主人公や主人公どうしの張りつめた相互作用のなかであきらかになってくる。/これが、ドストエフスキーのポリフォニー小説なのである。》(三三二ページ)
 つまりこのことは、ドストエフスキーの小説が作者の十全な構想のもとに書かれたものでありながらも、なおそのなかで主人公たちが生き生きとみずからの実存の声を発することができ、それぞれの存在をみずからの自律的なことばの論理においていっそう深めていくことになる、というおそるべき自己生成力をもった世界であることを示している。その自己生成力が作者をさらに突き動かしていくのである。
(2013/7/29)

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2013年7月14日 (日)

断章17

眠い ひたすら眠いのに
急に抱き起こされるから首が垂れてしまう
かわいがってくれるのはわかるけど
ちょっと人間様の都合で勝手だよね
でも やっぱりうれしい
歳とって弱ってきたし
誰かがいてくれないと不安で
つい鳴き声ももれてしまうのよね
おしっこもおむつの中で漏れてしまう
気持ち悪くってじっとしていられない
早く代えてくれって言うの!
わがままな奴だと思われているらしいけど
でもそうなんだけど
どこかちがう
わけがあるのよね
だってまだ歩いてみたいし
寝てばっかりじゃじいさんみたいじゃないか
たしかにもう十六歳にもなったし
まわりじゃ年下がどんどん死んでるみたい
こちらだって先日は冷たいスイカ食わされて
急性膵炎とか言われて死ぬとこだった
あのときは苦しかったな
もう死んじゃうのかなと思ったし
そう言われていたみたい
医者に覚悟してくださいなんて言われていたみたい
すごく心配してくれたんだ
だから生き返れたんだろうな
深夜の動物緊急センターなんてもう行きたくないし
いつものアニマルクリニックの女医さんだって
手を焼いていたよ
親父がようす見に来たから連れ帰ってもいいって
やっぱり死なれたらいやなんだ
でもいまは熱い東京はなれて涼しいから
ますますよく寝てしまう
このさきどのくらいこんな生活できるのかな
きょうだってクルマに乗せられてソバ食いのつきあいさせられて
大好きなソバのおこぼれを頂戴したよ
まえだったら上向いてソバをつるつる吸い込んで
麺食い犬なんて笑われていたけど
好きなものはいまでも好き
こんな人生 じゃなくって犬の一生もいいんだろうな
もうすこし生きようっと
(2013/7/14)

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2013年7月13日 (土)

思考のポイエーシス183:思考の生産性について――十九世紀末のイタリア版マルクス主義論争から

 イタリアのマルクス主義者、アントニオ・ラブリオーラは社会主義と哲学について書いた一八九七年の論考で思考するということについてつぎのように書いている。
《思考することは生産することです。学ぶとは再生産することをつうじて生産することなのです。わたしたちは、わたしたち自身が思考し、生産し、検証し、再検証することをつうじて生産できるものしか、それも、いつもわたしたち自身に属する力によって、またわたしたち自身が置かれている社会的領域とそこからの視角によって生産できるものしか、十分に知ることはできないのです。》
 これはマルクス主義の生産にかんする理論とは別に、思考をめぐらすことの生産性を積極的に肯定するとともに、その思考の生産性あるいは生産の思考がその個人のおかれた歴史的社会的な環境によって強力に掣肘されているものであることを指摘している。とはいえ、思考することが物質的生産物の労働生産という実践から峻別された、理論と実践という二項対立の片割れとしてではなく、思考それ自体も生産なのであるという強い定義を主張するものになっている。マルクス主義的観念における労働者と知識人の位相の相違(知識人は労働者にたいして二次的役割しかもてないという先験的な存在規定)を越えて知識人の生産への寄与という視点をもたらすものでもあった。
 このラブリオーラを引用しつつ、ジョヴァンニ・ジェンティーレは一八九九年に書かれた「実践の哲学」において書いている。
《思考が実在的であるのは、それが対象を立てるからであり、またそのかぎりにおいてのことである。思考が存在するとしよう。そのときにはひとは思考している。(……)もし思考しているならば、そのときにはひとは製作をおこなっている。だから思考の実在性、対象性は、思考の本性そのものから出てくることなのだ。これがマルクス的現実主義の最初の帰結のひとつである。》
 ここでジェンティーレはラブリオーラをふまえてさらに「思考の実在性、対象性」についてまで言及している。マルクス的現実主義云々はともかく、これも〈思考〉の現実的可能性を強く肯定する議論になっている。ここに十九世紀末イタリアにおいてマルクスの理論およびマルクス主義をめぐる知識人間でなされた高度哲学的論争が、知識人の理論的言説の生産可能性を主導的なものとして実現させようとするもうひとつの運動であったことがわかる。このことは当時の時代的背景を別にしても、またマルクスの言説を離れても、思考すること、思想の自立性が現代においても強い意味をもっていることを教えてくれるのではないだろうか。

*これらの論文は近刊の『イタリア版「マルクス主義の危機」論争――ラブリオーラ、クローチェ、ジェンティーレ、ソレル』に収録されている。(2013/7/13)

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