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2013年6月

2013年6月22日 (土)

思考のポイエーシス182:ことばのポリフォニーとしてのドストエフスキーの小説

 ミハイル・バフチンはドストエフスキーの小説についてこんなふうに書いている。
「ドストエフスキーの構想のなかでは、主人公は十全な価値をもった言葉の担い手であり、作者の言葉の物言わぬ、声なき対象ではない。主人公についての作者の構想は、<G>言葉についての構想</G>である。したがって主人公についての作者の言葉も、<G>言葉についての言葉</G>である。それは、言葉としての主人公に向けられており、またそれゆえに<G>言葉に対話的に向けられている</G>。(桑野隆訳『ドストエフスキーの創作の問題』95ページ、ゴチックは原文)
 またすこし先のところでバフチンはこうも書いている。
「ドストエフスキーの主人公は、自分自身についてや自分の身近な環境についての言葉であるだけでなく、世界についての言葉でもある。主人公は意識している者であるだけでなく、イデオローグでもある。」(同99ページ)
 ここで注意しておきたいが、「イデオローグ」とは政治主義的な意味ではなく、「イデーをもつひと」というぐらいの意味であろう。ドストエフスキーを〈<G>ポリフォニー小説</G>の創造者〉(同19ページ)と徹底的に位置づけるバフチンからすれば、ドストエフスキーの小説は作者による一元的なイデーの展開としてのモノローグ的な世界ではなく、それぞれの登場人物のセリフがそれぞれの独立した主体性と世界観をもって小説自体を駆動していく力能なのであって、だからこそのイデオローグなのだが、いずれにせよ、こうした〈ポリフォニー小説〉においては、主人公とはみずからのことばの組成体であり、作者による一元的(モノローグ的な)統括の対象となってはいない。主人公が「十全な価値をもった言葉の担い手」であり、主人公についての作者の構想は「言葉についての構想」となり、したがって作者が主人公について語るときは「言葉についての言葉」という構造になる。ドストエフスキーの小説はそもそもセリフの多い小説だと思うが、徹底してポリフォニックな(つまり多声的な)ことばによって織りなされているテクストなのである。それらはまた対等なことばとして、しかも作者から相対的に独立したことばのテクストとして織りなされている。そこにドストエフスキーの独自性があるのだが、それをバフチンは1923年に書いたドストエフスキー論でいちはやく指摘している。その先駆性と独創性には見るべきものがある。(2013/6/21)

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