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2013年5月17日 (金)

思考のポイエーシス180:萩原朔太郎と〈死後の生〉

 萩原朔太郎に「死なない蛸」という散文詩がある。水族館に飼われていた蛸が、いつのまにか存在を忘れられ、ひとびとはその蛸は死んだものと思っていた。腐った海水だけが水槽にたまっていたのだが、蛸は死んでいなかったのだ。
《けれども動物は死ななかつた。蛸は岩影にかくれて居たのだ。そして彼が目を覺した時、不幸な、忘れられた槽の中で、幾日も幾日も、おそろしい飢饑を忍ばねばならなかつた。どこにも餌食がなく、食物が全く盡きてしまつた時、彼は自分の足をもいで食つた。まづその一本を。それから次の一本を。それから、最後に、それがすつかりおしまひになつた時、今度は胴を裏がへして、内臟の一部を食ひはじめた。少しづつ他の一部から一部へと。順順に。/かくして蛸は、彼の身體全體を食ひつくしてしまつた。外皮から、腦髓から、胃袋から。どこもかしこも、すべて殘る隈なく。完全に。》
 そして番人が気づいたときには水槽は空っぽになっていたのである。ところがそのあとがすごい。
《けれども蛸は死ななかつた。彼が消えてしまつた後ですらも、尚ほ且つ永遠にそこに生きてゐた。古ぼけた、空つぽの、忘れられた水族館の槽の中で。永遠に――おそらくは幾世紀の間を通じて――或る物すごい缺乏と不滿をもつた、人の目に見えない動物が生きて居た。》〔「そこに」に◎付き〕
 こうして怨念と化した蛸が目にみえずに存在をつづけているという想念はわたしを震撼させる。これは言うまでもなく蛸に擬せられた人間存在の問題であるからだ。個人は死してどこか見えない存在として生きつづけるのかもしれない。たんに宗教的観念としての〈不死〉といったものではなく、怨霊といったこの世への未練でもなく、ただひたすら存在者の結末としての生の永遠の存続、あるいは〈死後の生〉。この永遠に存続する生は人間がいなくなったあとの世界(宇宙)をも凝視しつづけるのではないか。
 レヴィ=ストロースはこんなことを書いている。
《存在することの現実への直観と不可分に結びついている、存在しないという現実がある。というのも、人間には、生き、戦い、考え、信じ、とくに勇気をもちつづけていくことが課せられ、しかも彼は以前には_¨地球上に¨_いなかったことや、つねに_¨地球上に¨_いつづけるわけではないこと、さらにはそれ自身消滅することの約束されたひとつの_¨惑星の表面¨_から人間が間違いなく消えていくのと同時に、人間の労働、苦しみ、喜び、希望、作品もまたあたかも存在したことがなかったようになくなるという確実さを一瞬も見失うことはない(……)》(『裸の人』)
 この〈存在しないという現実〉とは〈死後の生〉でもあり、もしかしたら生まれる以前の生でもあり、地球が消滅したあとにも生きつづけるものかもしれない。そうなると汎神論的存在にちかいものかもしれないが、そこに宗教や神、さらにはアニミズム的な観念を持ち込まずにいることこそ朔太郎的な詩のイメージの強さであり、文学の〈死後の生〉としての価値なのである。(2013/5/17)

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