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2013年5月 3日 (金)

思考のポイエーシス179:いま、岡井隆をどう読むか

『岡井隆詩集』『岡井隆歌集』(いずれも現代詩文庫)を読み終わった。これまで雑誌以外ではあまり読むことがなかった岡井だが、なぜかこの二冊は著者から恵贈されたので通読したのだが、感心するところもあり、首をひねるところもあって、岡井隆という歌人のしたたかさがとりわけ印象に残った。
 現代詩の世界で話題になった詩集『注解する者』はたしかに斬新な切り口で含蓄豊かなコメントを散文詩脈で書き流してみせて、これはこれでひとつの書法としてある完成度を示してみせたものだし、歌人でありながら現代詩への関心がこれまでどの歌人よりも高かったせいか、現代詩への越境のしかたも板に付いているところがある。そう思って歌集(これは全歌集からのアンソロジーだが)を繙いてみると、最近のものになるほど現代詩的な喩法が自在に取り込まれているのを見て、なるほどと思うところがあった。大辻隆弘の解説「懊悩と豊穣」によれば岡井のこれまでの歌業の流れのなかでも最近のものは「ハイブリッドな口語文語混交体」によって「いよいよ豊穣の境地に入っていこうとしている」そうだが、もしそうならその自在さは饒舌さ、ゆるさなどと紙一重のところにあるノンシャランスでもあって――事実、そういう危険のある歌も数多い――、『注解する者』はその最大の成果であるかもしれない。
 わたしとしては、これまでの岡井への疑問は、初期の吉本隆明による岡井批判(『抒情の論理』に収められている)と、最近の宮中歌会始選者としてのあられもないかかわりぶりにある。前者については先般「現代詩手帖」に書いた吉本隆明論「吉本隆明をめぐる断言肯定命題」でもすこし触れたが、後者にかんしてはかねがね疑問に思ってきたし、北川透をはじめ詩論家たちがこのことになにも触れようとしていないことにも不信感をもってきた。こういういわば「左翼小児病」的な批判はいまどき時代遅れで、たんなる世間知らずであるかのように思われるのであろうか。
「ちよんまげにてあんた宮中へ行くのかと訊くやつも居る 笑而不答【わらつてこたへず】」という歌にあるように、岡井はそうした批判には大人(たいじん)の微笑でやりすごすことができるのだろう。しかしそれでほんとうにいいのか。
 その疑問がいくらか解けるようになったのは、斉藤斎藤の解説「群衆と大衆――岡井隆のぬるぬるについて」に引用されたつぎの岡井の文章であった。ただしこの文は『岡井隆歌集』のなかには入っていない。
《飯島耕一からわたしが歌会始の選者になつたことについて、不快の念と抗議の文章がありそれに答へねばならないので、困る。栄誉とも思はずに受けたが、叱る人が多いので弱つた。褒める人もゐるけど。むかうから来た話はことわらないのがわたしの流儀。若いときと政治的な態度がかはるのはなぜか、これはわたしには個人的にも面白い問題だ。しかし、歌を作るときになにものにも干渉されないぐらゐのつもりはあつたし、どうも現実にはさういふことらしい。》と。
 これを引用した斉藤は岡井の「突き抜けたのらりくらりっぷりがすがすがしい」と書いているが、バカを言っちゃいけない。ここにはいくつか重要な問題がある。まず飯島耕一が現代詩の世界からきちんとした岡井批判をしてくれていたこと。これは現代詩にとってわずかに面目を保つ行動であった。ふたつめは、岡井が選者就任という行為を子供のように叱られたり褒められたりする行為にすぎないと判断していたこと。これは児戯に等しい。依頼されたらなんでも引き受けるというのはあまりに節操がない。そして三つめは、政治的態度が変わることを問われるのをおもしろがっていること。別に思想の変遷が生ずるのはかならずしも悪いことではないけれども、それにはやはり必然的な個人的理由がなければならないのではないか。岡井には左翼経験があるらしいが、それをあたかも他人事のように見ている自分とは誰なのか。そして最後に、歌を作るときにはなにものにも干渉されない気持ちで書いていること。これだけは正しい。ただしこの最後の一事をもって、思想の変遷、政治的行為の選択のでたらめさが、許されるわけではない。すくなくともものを書くという営為にかかわるものとして最小限の矜持をもつべきではないか――以上が、わたしの岡井への根本的な疑問である。
 こういう批判を書いてきたとはいえ、歌人(あるいは詩人)としての岡井隆の腕前をわたしはすこしも否定するつもりはない。
《きのうの敵は今日もなお敵 頬【ほ】をはしる水いたきまで頬を奔【はし】らしむ》(『岡井隆歌集』一四ページ)
《その場限りの嘘といふけどお前ナアその場限りの真実【まこと】もあるぞ》(同七一ページ、詞書として「直接民主主義に捧ぐる哀歌」)
 吉本隆明が言うように、《大切な想いを言葉の表現のうしろにかくしてさり気ない言葉をつぐことができる短歌的な技法が充分に生かされている。これは古典的な詩歌の「象徴」が長い年月でいかに深くまでとどいているかを示している》(「岡井隆の近業について――『家常茶飯』を読む」『岡井隆歌集』一三〇ページ)のが岡井隆の達成地点なのかもしれないと思う。たしかに岡井の歌は、生きているその場その場で思うことをことばの裏に隠しながら、しかも隠していることをどこかに見せつけながらことばを自在に繰り出していく瞬間芸に近いのかもしれない。そこはそんじょそこらのことば遊びであるツイッターなどとは芸の深さがちがうのである。
《すべてこれ架空の日記【にき】と気付きたるそのうれしさのたとへやうなき》(『岡井隆歌集』一二〇ページ)
 この天衣無縫とも言える磊落さにはどうもつける薬がない。岡井の出自のなせるわざとも、政治的無責任さともちがう、あやしい懐の深さが岡井隆の現在なのだろう。(2013/5/3)

*この文章は「西谷の本音でトーク」で書いた同題の文章を転載したものです。

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