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2013年3月

2013年3月28日 (木)

思考のポイエーシス178:モンテーニュの結婚をめぐる考察

 モンテーニュの『エセー』第2巻第35章「三人の良妻について」はモンテーニュらしく精彩あふれる考察に充ちている。この章の後半は3人の妻(そのうちのひとりは弟子である暴君ネロに自死を命じられたセネカの妻)が夫の死にさいして、みずからもいっしょに死のうとする「善良さと愛情の力を示した」具体例を挙げたものである。それぞれの事情において切羽詰まった状況のなかで高邁な精神の表われと言うべきものばかりだが、そうした例が稀少であるだけ、前半の夫婦をめぐる考察は鋭く真相に迫っているものと言ってよい。
 冒頭、結婚の義務についてモンテーニュはこう書く。
《結婚とは、厄介な事情がたくさんからまった取引【マルシェ】であって、ひとりの女性の意志が、全体として長期間持続することは、なかなか困難なのである。》(ミシェル・ド・モンテーニュ[宮下志朗訳]『エセー5』288ページ)
 男においても事情は同じようなものだが、いずれにせよこの困難を乗り切ってくれた女性にたいして男は感謝すべきかもしれない。そういうケースは稀であるが。
 モンテーニュによれば、その当時の妻たちは「義務や激しい愛情は、夫が死んだときまで、出さずにしまっておくのが当たり前」になっている結果、死んでからでは出し遅れの証文みたいなもので、「死んでからでないと夫を愛さないことの証拠のようなものだ」と言う。だから「生は争いで満ちあふれ、死は愛情と礼儀で満ちあふれている」(同前)という皮肉なことになる。
《悲しみの少ない女たちほど、派手に泣く》とはモンテーニュによるタキトゥスの書き替え(同289ページ)らしいが、真実に迫っていると言うべきか。今日でもまったく通用する痛烈なアフォリズムである。
《わたしが生きているときには、顔につばするようなことをした人間が、こっちが死にかけたら、足をさすりにやって来たりしたら、それこそ、腹が立って生き返るのではないだろうか。》(同前)これは想像するだけで笑える。
《夫の死に涙を流すことに、なにかしら名誉があるとしたら、それは生前に笑った妻だけに与えられるべきものだ。夫の生前に泣いた女たちは、寡婦となったら、心の中だけではなくて、表情に出して笑うがいい。》(同前)
《夫に先立たれて、メキメキと元気にならないような寡婦は少ない――健康ばかりは、うそをつけないのである。》(同前)これは広くみられるわりと凡庸な真実だが、後半のレトリックが優れている。
 訳注にあるつぎのセネカのことばも的確で、現代においてますます通じる観察だ。
《実際は、たいていの人間は人に見せるために涙を流すのであって、見ている者がいなくなれば、途端にその目は乾いてしまう。》(『心の平静について』一五の六)
 現代の乾いた夫婦関係において、このモンテーニュやセネカの考察が時代を超えてどれほど賢明であるかは驚くほどである。ローマ時代やモンテーニュの時代の結婚観、夫婦観を究極的に体現したここで挙げられた三人の良妻のようには、いまの女性たちには対応することはできないだろうが、問題はそのことではなく、この章のはじめでモンテーニュがふれているように、よい結婚であるかどうかが「両者の結びつきがどのくらい続いたのか、それがつねに穏やかで、忠実で、快適なものであったか」が問われているということなのである。わたしもふくめてどれだけの夫婦がこの問いに耐えられるだろうか。(2013/3/23)

(この文章は「西谷の本気でトーク」で掲載した同題の文章の転載です。)

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思考のポイエーシス177:モンテーニュの臭さ

 モンテーニュは自分の弱さを卑下しながら、こんなふうに書いている。
《危険と直面すると、わたしの場合、どうやってこれを逃れようかと考えるよりも、むしろ、これを逃れることなど、どうでもいいことではないかという風に発想する。そして、このままだと、はたしてどうなるのだろうかと考えるのだ。できごとを調整できなければ、自分自身を調整するのだし、できごとがわたしに合わせないのなら、こちらから合わせにいく。運命をかわしたり、逃れたり、ねじ曲げたり、先見の明をもって、ことがらを自分の有利な方向に導くといった才覚を、わたしはほとんど持ち合わせてはいない。そのようなことに求められるつらさや気苦労に耐えるだけの忍耐力などは、さらに持ち合わせていない。》(ミシェル・ド・モンテーニュ[宮下志朗訳]『エセー5』87ページ)
 わたしもときにそんな気になるが、実際はそんな遁辞を言っていてすまされるようなわけにはいかない。モンテーニュの出自と環境がこんな悠長なことを書いていられるのだから。このような記述こそルソーがもっとも嫌うものだろう。
 ルソーは『孤独な散歩者の夢想』のなかでこんなことを書いていたではないか。
《わたしはいつもモンテーニュのいつわれる無邪気さを笑っていた。彼は自分の欠点を白状するようなふりをしながら、ただ好ましい欠点しか暴露しないように用心しているのだ。》(岩波文庫、181ページ)
 ルソーのように逆境に身をさらされつづけた人間だからこそ、このモンテーニュの臭さがよく見抜けたのだ。(2013/3/9)

(この文章は「西谷の本音でトーク」の同題の文章を転載したものです。)

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2013年3月 1日 (金)

思考のポイエーシス176:思考を思考する思考

 アリストテレスの「第一動者」とはみずから動くことも動かされることもないが、他のすべてのものを動かす。それはアリストテレスによれば「自己回帰の運動、循環運動」だとされるそうだが、デリダはこの自己回帰の循環運動を「思考を思考する思考」として欲望可能だとする。運動の欲望としての自己回帰が思考の欲望ということになる。このあたりの機微をサミュエル・ウェーバーはつぎのようにまとめている。
《思考は(……)自己が自己反省の過程を通して「自己享楽」する運動として、言い換えると時間と空間を越えて_¨同じままにとどまっている¨_能力に、つまり_¨一にして同¨_である能力――そのように_¨あり続ける¨_能力――に快を感じる運動として定義される。》(「ならず者民主主義」、「みすず」2010年7月号、傍点原文通り)
 まことに魅力的な〈思考〉の定義である。なんとも無時間的な運動であるから、そういう運動概念自体が自己矛盾してしまいかねないのだが――なぜなら運動とは時間と空間のなかを移動することであるから――、それでも思考を思考する思考という自己同一性への欲望こそが思考の運動を引き起こし、継続させ、ありうべき着地点で思考が自己完結する、というかたちでまた新たな思考を発生させうる。そういう思考の永遠性への欲望が解放されようとしているのであり、その更新されるダイナミズムこそ思考のポイエーシスへの欲望なのである。(2013/2/28)

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