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2013年2月

2013年2月27日 (水)

思考のポイエーシス175:藤井貞和を読みながら原発問題にあらためて言及する

 藤井貞和は時評コラム集『人類の詩』(思潮社)の「人類の詩 後書」(あとがき)のなかで、この批評集の刊行が東日本大震災の前に刊行準備をしていたのを震災の影響で中断したあとで、「前書」と「後書」を付すことで刊行することにしたと書いているが、そのあとで原発についてこんなことを書いている。
《日本社会を覆う、「安全論議」=再稼働の動きは、福島原発事故が収束していない、巨大な犯罪としてあるにもかかわらず、それをあたかも例外であるかのごとき位置に置いて、政治的に進められる。なすべきは福島原発事故を原点に、その人類的な〈悪〉に立ち返っての論議を進めることだろう。そこを外して、推進派の経済的思惑を楯に行われる安全という議論である。福島県への仕打ちとして、最悪の稼働の動きではないか。複雑な議論構造に耐えられるか、いまこそ叡智が試されるときに来ている。》(340ページ)と。
 まったくその通りである。その一方で、震災と原発の被災をリアルタイムでツイッターを使って福島から発信した和合亮一の動きを途中から追うようになったと言って和合を支持しながら、こんなことも書いている。
《あとになって、私の知るところでは、かれへの批判が次から次へ出てきて、信じられないことだ。ツイッターという、現代詩としては新しいメディアを動かし始めたことに対して、だいじな試みであると注目しこそすれ……》(349ページ、なお「……」は藤井の原文通り)
 わたしもその批判者のひとりなので(藤井が認識しているかどうかは知らないが)、いちおう言わせておいてもらう。ここで問題になっている「信じられないこと」というのが何を意味するつもりなのか判然としないが、もし和合のツイッターを使ったリアルタイムの原発(批判)詩が「新しいメディアを動かし始めた」「だいじな試み」だというだけなら、それはまずツイッターというものへの藤井の過剰評価にすぎないし、そんな試みならすでにいろいろなされている。藤井はツイッターについてあまり知らないと言っているからしょうがないが、ツイッターで書ける詩などそもそもそれほどのものではない。ただ問題は、まわりでひとが次々と被災し(そればかりか死んでいき)、自身もかなりの被災体験をしている渦中の和合がそれでも「詩」として、ある意味では異様に昂揚した気分でその体験を実況放送のように書いている、まさにそこに書くことの倫理の問題がひそんでいることなのである。
 その渦中の体験をツイッターででも書くことを、書くことへの飽くなき執念として評価するのは自由だが、特異な状況のなかで書くことの新しい体験を身をもっておこなったことへの和合の意識が、書かれてしまったことにたいして半ば無意識にある種の絶対性、悪く言えば、誰にも批判することのできない無謬性として権力的に主張されていないか、という倫理の問題なのである。まわりで死んでいくひとたちはもともと「ことばをもたない」ひとたちであり、ことばを発することさえ許されない状況のなかに埋没していくなかで、すくなくともことばをツイッターで発信できる環境にいる和合の書かれたものがジャーナリズムの世界で特権的に評価されてしまうそのなかで、書くことのだれにも代行しえない特権的な位置をすばやく獲得した和合の意識と無意識の問題が問われていないということなのである。
 たとえば神山睦美はそのような和合の書く行為にたいして「和合の言葉の発信はとどまるところを知らずというだけではなく、さまざまなメディアに登場することによって、なかば見境ないまでに語り続けられた」(「『信』の言葉」、「現代詩手帖」2012年12月号)ことに〈人間存在のヴァニティ〉の問題を見てとっている。
 神山の批評は穏当なものだが、和合亮一の無自覚なヴァニティへの傾きに懐疑的な視線を送っている。それにくらべても藤井は和合のことばの発信をあまりに手放しで了解しているのではないか、とわたしは思う。
 それとは直接の関係はないが、「現代詩手帖」の1月号で岡井隆が反原発の動きをあざわらう評言をしていたのが気になっている。〈原発を魔女のやうに怖れる風潮もここまで高まると一種滑稽味を帯びる。〉と。
 正確にはかぎりなく弛緩した散文詩「レクイエムの夜まで」のなかのことばであり、評論的なものではないが、詩のかたちをとったからと言って、その評言の反動性というかシニシズムが免除されるとは思えない。鼻持ちならない大人【たいじん】の対応のつもりなのだろう。
 反原発運動がいろいろ内部的に問題をかかえているのは、この種の運動論ではある面で当然だが、それでも藤井が言うように原発が「巨大な犯罪」「人類的な〈悪〉」であることにはかわりはない。自身は宮中の歌会始めにどっぷり浸かっていることを平然と書きながら、こういう評言を書いてしまう歌人を、この世界にくわしい藤井貞和ならどう考えるのかを知りたいと思うのは、わたしばかりではないだろう。(2013/2/27)

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2013年2月12日 (火)

思考のポイエーシス174:折口信夫の詩的言語論

 折口信夫は一九五〇年に書かれた「詩語としての日本語」のなかで詩的言語のあるべき方向性についていくつかの重要な提案をしている。当時の現代詩にたいする言及もあるにはあるが、これはほとんど建設的な意味をもたない。この時点での日本語詩は象徴詩のままであるという折口の認識は、その〈象徴〉の意味が上田敏や蒲原有明・薄田泣菫の時代のものの延長として、つまり外国詩の翻訳された観念としてしかとらえられていないから、曖昧である。もっとも折口は日本の詩における浪漫派と象徴派が、ヨーロッパのように時代必然的に交替すべきものとして現われてきたのではなく、いわば同時的に発生したことを見抜いているから、文学史的理解としては外れているわけではない。
「外国に必至的なものであつた象徴派・浪漫派の対立は、我国では見る事が出来なかつた。今から考へれば、日本の詩に限り、象徴派が即浪漫派であつたと謂ふ、不思議な姿を見せてゐる。つまり我国では、_¨ろまんちつく¨_な詩の運動は一足飛びに、理論的に象徴派に入つた事になる。」(『折口信夫全集12』一五三頁)
 たしかに戦前・戦中までの日本近代詩においては象徴派・浪漫派が混在して両立していたということはできる。問題は戦後初期にもその言語意識がそのまま継承されていたかということである。ここはにわかに断を下す準備はないので後日に期すことにして、「詩語としての日本語」の切り開いた視点をここでは確認しておくことにしよう。
 この論文のエピグラフとして掲げられた小林秀雄訳ランボー「酩酊船」の訳に現われているように、「極めて晦渋な第二国語」としての翻訳語の文体が出現しつつあり、もともとの国語(第一国語)とのあいだに断絶があることを指摘して、つぎのように折口は書く。
「二つの国語の接触・感染・影響と言ふ様な直接な効果ではなく、一種不思議な翻訳文が間に横はつてゐて、それの持つ原語とも、国語ともどちらにつかずの文体が、基礎になつてゐるのでは、何としても健全とは言へぬ。(中略)詩語はどこまでも、第一国語と同じものでなくてはならぬと言ふ訣ではなく、第二国語として独立しないまでも、第一国語に対してもつと自由であつてよい訣だ。そこに詩語の権威がある。第一国語から離れすぎてゐると言ふ事が誇るべき事でないと同じに、それに近いと言ふ事が必しも詩語の強みになる訣でもない。」(同前一四二頁)
 ここで主張されていることはベンヤミンの「翻訳者の使命」で言われる、諸言語間の翻訳を通じて理念的に想定される〈純粋言語〉というようなものではもちろんない。しかし、日本語内においてネイティヴな国語と外国詩の翻訳を通して導入された「極めて晦渋な第二国語」とのあいだに「健全とは言」えない関係が構築されつつあるのは事実であり、にもかかわらずその関係が今後の日本語自体にもたらそうとする決定的なことばの変容への予感というか覚悟が問題とされているのである。「だが多く日常の第一国語は、詩語としての煉熟を経てゐない。たゞ生きたままの語である。この日常生活には極度に生活力をもつた第一国語の生活力を、詩語としての生活力に換算するのが、今日の詩人の為事でもあり、大きな期待でもある。」(同前一四二―三頁)と折口が書くのはそのためである。
 そして途中の細かい実例をとばして言えば、折口信夫はこの小論文のまとめとしてつぎのように書く。
「私の話は、詩語としての古語を肯定した。併しこれは、最近までの歴史上の事実の肯定に過ぎない。そしてつゞいて、詩に於ける現在語並びにその文体を悲観して来た。併しこれは、未来語発想と言ふことを土台として考へる時、もつと意義を持つて来る。単なる現代語は、現代の生活を構成するに適してゐる、と言ふ様な合理論に満足出来ぬのである。未来語の出て来る土台として現在語を考へるのである。(中略)こゝに到つて、私は最痛切に悲観した翻訳詩体を意味あるものとして、とりあげねばならなくなつた。翻訳詩を目安として、新しい詩を展示しようとしてゐる詩人たちの努力を無にせずにすむのである。」(同前一五四頁)
 こうして問題は一巡する。「極めて晦渋な第二国語」としての翻訳文体がここで復権するのである。折口はここから先には進んでいかないが、こうした断層化した日本語の現在語の事態を、そこから未来語のでてくるための土台として肯定することによって日本語のヴァイタルな進展を希望したのであろう。すくなくとも現代詩はそうした折口の期待にいくらかは応え、多くは未回答のままであると言うべきである。(2013/2/12)

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2013年2月 9日 (土)

思考のポイエーシス173:ヴィーコの学問方法批判

 ジャンバッティスタ・ヴィーコは『われらの時代の学問方法について』(岩波文庫では書名としては『学問の方法』と略している)という講演の結論の部分で、こんなことを言っている。
「一つの学問に全精神を傾注し、全生命をついやす人が、その学問が他のあらゆるものより優っており、いかなる点においても最良であると見なし、他のどんなことにも応用するのをわれわれは見かけるが、そういう事態になるのは、おそらく、われわれ自身およびわれわれの手にしているものごとから好ましいものを作り上げようとするという、われわれの本性の弱さによってなのである。」(岩波文庫版151ページ)
 これはどういうことなのであろうか。訳者のひとり佐々木力の「解説」によれば、この一節は名指しはしていないもののデカルト主義を批判しているとのことである。確かにそうなのであろうが、ここはさらに一般的に理解して、いわゆる学者の思い込み、自分の研究の過大評価、「木を見て森を見ず」の、言ってしまえば「学者バカ」ということなのではなかろうか。デカルトのコギト主義が一見謙虚な方法のように見えて、じつはみずからの方法以外の学問を認めない偏狭さをもっているとすれば、多くの学者に共通に見られる「弱さ」なのかもしれない。これを免れるにはヴィーコがそうしていると言うように「夢中になったりせず、みなほどほどに」研究するしかないのであろうか。学問に打ち込むうえでこのバランス感覚はなかなかむずかしいことである。(2013/2/9)

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2013年2月 2日 (土)

断章14

 生き残った饒舌者
 静かにしてくれ!
 降ってふる雪に学べ
 静かに降っては 跡形もなく消える

 いま 言葉は余計
 悲しみも無用
 (田原「津波」より)

田原さんのことばは強い
大震災のときに仙台在住だからわかるんだろう
饒舌にはしゃぐ被災者ツイート
(当人は必死の発信のつもりなのだろうけど)
ことばの手形がこれほど安手に切り出されたことはない
(戦時中はそうだったかもしれないが)
しからばこちらは冷静に クリティカルに
それしかない それでいい

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思考のポイエーシス172:現代詩の空洞化と藤井貞和の怒り

 藤井貞和『人類の詩』という時評コラム集にこんなことばがある。
《一九九〇年代を空白の十年と言うのが当たっているなら、その理由は、冷戦によって破綻し、退場を命ぜられるべき「ポストモダン」が、とって代わる何も産み出されないのを幸いに、これもまた延命したためであり、すきま産業として、(日本では)「新しい歴史教科書」、司馬遼太郎ブーム、あるいは加藤典洋『敗戦後論』(講談社、一九九七)のような、見直し型の言説がしつこい泡として浮かんでくる。》(110ページ)
 なるほど、「見直し型の言説」か。これは言えている。こうした「しつこい泡」もいまどれだけ関心をもたれているかと思うと、どっこいそうでもないらしい。亡くなった網野善彦によれば(と藤井の本から引けば)、《一九四五年を焦点化して、それは「ねじれ」をもたらしたという『敗戦後論』(加藤)の短視野的な評言》とそれに共感する赤坂憲雄にたいして網野はこう言う。
《この前の戦争だけに限定して考えてしまうと、議論が矮小化して、袋小路にはいる危険性がある》《敗戦後の問題だけに限定しないで、もう一度本格的に近代全体、さらに遡ってその根底を考えていかないと問題が解決できないのではないでしょうか》と。
 そして藤井は現代詩においても、まったく同じような大きな視野が要請されていると言う。少なくともここ二、三十年の状況判断だけでは解決のできない問題があると。昨今のうわついた現代詩の無教養路線は詩のことばの歴史をあえて捨象する(知らぬが花)ことによって芸ゴトとしてのことばの綾取りに長けたタレント指向=嗜好だから多くは期待できないが、藤井の言う加藤典洋的「ポストモダン」を現代詩に敷衍してみれば、その代表はいまならさしづめ稲川方人と瀬尾育生だろう。こうした詩の祭司者たらんとする権力志向が隠微に現代詩の本質を箱庭化し、周辺にはおめでたき若手ダンサーたち(おお! そのなかには中年以上のみっともないオッサンもけっこういるぞ)を侍らせている。
 さて、こうしたポストモダン的現代詩認識をどう打開するかというのが次の問題である。そもそも打開する価値があるのか、というところから考え直していく必要があるから、ことは容易でない。まさか藤井貞和のように日本古代の言語の再検討まで溯るのは無理としても、いまの日本語がおかれている発語の空洞化現象(だから何を書いてもいいと思ってしまう詩人ばかりが増殖する)にたいして、大きな歴史的視野からの状況判断と状況批判でひとつひとつ意識的に埋めていく努力をしないと、日本の現代政治のようにどこまでも腐敗し解体していってしまうだろう。藤井の怒りはまさにそこにあり、そうしたエネルギーはいまや誰にでも見えるはずの言語的・政治的・社会的なさまざまな局面から備給されているのだ。これを見習わないわけにはいかない。(2013/2/2)

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2013年2月 1日 (金)

断章13

雨の降りやまないこの夜更け
ノルマの校正仕事から解放されて
それでも多くのことばを読む
ことばに淫し なおことばを追う
いじましくもあるか
詩を問うこと(負うこと?)
「文化や芸術は人間の非社交性から生じた果実」*
たしかにますます人嫌いになるわたし
条件は揃っているぞ
昼間に見た道路の陥没
そのおぞましさが何の比喩なのか
いまはまだ答えを求めてはならない

*カント「世界公民的見地における一般史の構想」

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