2012年

2012年11月25日 (日)

思考のポイエーシス171 沖縄の言説とどう向き合うか

 このところ屋嘉比収『沖縄戦、米軍占領史を学びなおす――記憶をいかに継承するか』(2009年、世織書房)を遅ればせながら読みつづけている。この本は刊行直後に版元から寄贈してもらったもので、以前から読まなければならないと思いながらここまで読めずにきたのだが、その間に著者の屋嘉比氏が早世するという悲運にあってしまい、直接会う機会は永遠に失なわれてしまった。1957年生まれだからわたしよりすこし下の世代になる。沖縄をめぐる諸問題に歴史学・思想史の立場から精力的に仕事をすすめてきた成果がまとめられはじめた矢先だっただけにその早すぎる氏が惜しまれてならない。
 ここではその屋嘉比収が残した仕事をどう読み取っていくべきかということをこの本にそって考えてみたい。
 屋嘉比収は本書の第1章「戦後世代が沖縄戦の当事者となる試み」のなかでみずからの立ち位置を「戦後世代の私たちは、沖縄戦の体験者にはなりえない」としつつ、「体験者との共同作業を積み重ねることで『当事者性』を獲得することが可能だ」(36ページ)と定めている。ここには、沖縄人でありながら、沖縄戦の体験者ではない後続世代としてどのように沖縄の歴史にかかわればよいのかをみずからに問う姿勢が顕著である。沖縄戦という、日本の歴史上初めて苛酷な陸上戦が戦われた事実のなかで、日本軍による沖縄住民の「スパイ視」から虐殺に及ぶ蛮行や、「集団自決」(ノーマ・フィールドによれば「強制的集団自殺」)と呼ばれる肉親が肉親を殺さざるをえない悲惨な状況に追い込まれていった事態の思想的・歴史学的把握など、なかなか一般化しえない現実にたいして、当事者たちの「語り得ないもの」を語ったさまざまな言説をとおして、いかなる理解が可能かを問う屋嘉比の視点はきわめて冷静である。
 ここには、わたしのようにヤマトンチューでありながら沖縄に思いを寄せたいとする者の姿勢がきびしく問われ直す契機がひそんでいる。すなわち、屋嘉比のように沖縄戦の当事者から時間という差異をもつ若い沖縄人世代に比べて、沖縄にたいして「加害者」的位置にあるヤマトンチューとして空間的にも心理的にも距離をもつわたし(たち)がいかにして「体験者との共同作業を積み重ねることで『当事者性』を獲得することが可能」になるのか、そもそもなりうるのかという問題を孕んでいるのではないか。〈当事者性〉というのはどこまで可能なのか。どうしても〈当事者性〉を獲得しなければなにもできないのか、なにかをする資格はないのか、といったことまで考えざるをえないのである。
 屋嘉比収は沖縄の諸問題を考察するなかで、日本「本土」との関係をたえずはかりながら、なおかつ沖縄の言説空間のなかで批判すべきものには正当な批判をしているように読める。たとえば、第4章「仲間内の語りが排除するもの」で写真家比嘉豊光らが映像化した「島クトゥバで語る戦世【いくさゆ】」にたいして、その映像化の成果が、これまでの「標準語」による語りでは得られなかった事実が「島クトゥバ」(沖縄語)で語られることによって、しかも証言者の自然な「語り」を引き出す聞き手側の姿勢によって見事に得られていることを高く評価したうえで、なおかつその「語り」のもつ負の部分も的確に指摘している。つまり証言者と聞き手が同じ「島クトゥバ」を共有するそのスタイルがすでに「仲間内だけの語り」になっていないかとしたうえで、つぎのように書いている。
《しかし、その仲間内の語りは、ある両義性を抱えている。すなわち、語り手と聞き手が同じ言葉を共有しているから、さまざまなことが気楽に語られて、その真相が浮かび上がってくる利点があるとともに、その同じ言葉が共有されているがゆえに、他者の視線や語りを遮断して排除する「仲間内の語り」に陥る危険性という、両義的な側面をもっているのではなかろうか。》(111ページ)
 この屋嘉比の批判は正鵠を得ているだけに、沖縄の言説空間のなかでもつ意味は深刻なのではないかと思う。生前の屋嘉比にたいしてどういう反論があったのかはつまびらかにしないが、当然、「島クトゥバで語る戦世【いくさゆ】」製作者側からの反論やそれを支持するひとたちからの批判もあったのではないかと推察される。それだけ屋嘉比の批判は内部批判的な側面ももっており、沖縄の言説的一体化をめざす立場のひとたちから見れば内部告発的だとされたかもしれない。沖縄戦の〈当事者性〉を獲得しようとしつつ、そこから思想史的になにを引き出すのかという屋嘉比の学問的立場は、当事者たちの情念を理解しながらもそれを超えていこうとする射程をもっているとわたしなどからすれば見えるのだが、そういうヤマトンチュー側の理解がこんどは沖縄側からすれば、いらぬお節介であり、屋嘉比の言説をダシにしたヤマトからの介入と見られなくもない。そういう厄介な二重三重の屈折が沖縄にかんする言説にはあるのだ。屋嘉比が亡くなっているいま、その屋嘉比の内部批判的言説をどう評価すればいいのか、それをどう言説化すればいいのか、わたしはあらためて考えざるをえないのである。(2012/11/25)

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2012年10月24日 (水)

思考のポイエーシス170 ルソーの自然法理解

 ルソーは『人間不平等起源論』の序文で法のありかたを自然人(野生に生まれついた人間)との関係でつぎのように定式化している。
《われわれが自然人を知らないかぎり、自然人が受け取った法もしくは自然人の構成にもっともふさわしい法を定義しようとしても無駄である。われわれがこの法にかんしてきわめて明白にわかることは、それが法であるためには、その法を課される人の意志が、その法を知ったうえで従わなければならないばかりか、その法が自然のものであるためには、その法はさらに自然の声によって直接にかたりかけねばならないということである。》(『ルソー選集6/人間不平等起源論・言語起源論』19ページ)
 ルソーはここで〈社会性〉という原理の導入以前に、法とは、自然権がもつべき「人間の魂の最初のもっとも単純な働き」への顧慮、すなわち安楽や自己保存への関心とか同胞の死や苦しみにたいする自然な嫌悪感といった、自然人の理解しうる自然法的な裏づけのある〈法〉でなければならないことを指摘している。18世紀前半という、近代以前の封建社会にあっていちはやく人間社会における不平等の問題を論じたルソーは、一世紀後のマルクスのように〈階級闘争〉というような近代的な視点をもつことはできなかったかわりに、まずは自然法という誰にも否定することのできない観点をよりどころに、直観的に先駆的な社会批判を開始することができたのである。そこにはホッブズやロックといったイギリス哲学の自然法理解への批判的媒介を経ていることも考慮すれば、この社会批判は当時にあって、社会思想家としてのルソーの抜群の新しさであったと言っていい。(2012/10/23)

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2012年9月30日 (日)

思考のポイエーシス169 ニーチェのカント批判

 ニーチェはカントの〈定言的命法〉がよほど嫌いだったらしい。カントの道徳的判断の悲愴なことばにたいしてほとんどアレルギー的とも言える反応を示している。
 ニーチェはこんなふうに書いている。
《「こういう場合には、誰でもそういう風に行為しなければならぬ」と、相変わらず判断する者は自己認識にかけては未だヨチヨチ歩きの赤ん坊といったところだ。そうでもなければ、彼は、世に同一の行為もないし、またありえないことを、知るはずなのだ、――また、なされた行為のいかなるものも全く唯一のやり直しのできない仕方でなされたものであることを、もちろん未来の行為のいっさいにおいても事情は同様であるだろうことを、行為のあらゆる規定は粗大な外面だけに関したものだということを(中略)彼は知るはずなのだ。(中略)だが、われわれときては、_¨われわれが本来それであるところの者となることを欲するのだ¨_、――新しい人間、一度きりの人間、比類ない人間、自己立法的な人間、自分自身を創造する人間に、なることを欲するのだ。そのためには、われわれは、世界におけるいっさいの法則的なもの、必然的なものの、こよなき学び手となり発見者とならねばならない。》(ニーチェ『悦ばしき知識』第四書335節、傍点原文)
〈超人〉を志向するニーチェからすれば、カントの〈定言的命法〉にもとづく道徳的な公準がどれほど幼稚に見えたかは想像するにあまりある。カントは一般的な普遍性をめざし、ニーチェは個の超越性と独自性をめざした。ここにおそらくドイツ哲学の両極の姿が映っているのだろう。現代のわれわれもみずからの社会的実存においてはこの両者の微妙なバランスと選択のうえで生きているのであって、どちらかに徹底することは残念ながらなかなかできない。そこに哲学がそれぞれひとつの指標として立っていることが重要なのである。(2012/9/30)

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2012年9月 9日 (日)

思考のポイエーシス168 詩人と散文家の分かれるところ

 ニーチェは『悦ばしき知識』のなかで「散文と詩」についてこう書いている。
《散文の大家がほとんどつねに詩人であった(……)ということに、注意されるがいい! まったくのところ、ひとが立派な散文を書くのは_¨詩に直面¨_したときだけだ! というのも散文は、詩との絶え間ない礼節正しい戦いだからである。散文のあらゆる魅力は、それがたえず詩を避け詩に抗するというところにある。》(第二書五二)
 たしかに詩人でなくとも、すぐれた散文家――それが哲学者や批評家のように文章それ自体のみの力で言説を成り立たせることばの専門家は言うに及ばず、それ以外の研究者や科学者のなかにしばしば見られるようなすぐれた文章家――の文章は、その比喩の卓抜さとか独特な言い回しの絶妙な_¨あや¨_において詩的な魅力をたたえ、その文意がいっそう際立っている場合がよくある。詩的な文章を書こうとしてそうなるのではなく、その主張したい内容をなんとかうまく言表化できないかと苦心した結果、無意識のうちにことばの深層に降りていき、そこから当該の領域においてだれも言語化したことのないオリジナルなことばを汲み上げてくるからにほかならない。
 この領域ではおのずから主張したいなにか、発見され言説化されるべきなにかがしかるべきことばを待っているのであって、この事前に言説として達成されるべきなにものかがあらかじめ予測されるのが社会科学、人文科学の領域だとすれば、それは詩のように、あらかじめ言表されるべきものをなにももちえず、ことばが生まれたことによって、いわば事後的に発見されるなにか、まさしくそのように言われることを待っていたなにかとして見出されるものとは明らかにベクトルが異なる。しかし、語られるべきなにかが事前にイメージとしておぼろげに見えていようと、まったく見えていなかろうと、ことばの基層に降りたち、そこからことばを汲み上げるその真摯さこそが、ニーチェが言うように〈詩人〉の名にふさわしいのである。
 散文家が「詩を避け詩に抗する」のは、散文家があらかじめ見据えている主題の展開を、詩人のように自分のことばにたいする直観だけで本能的に「詩句を掘り進める」(マラルメ)のではなく、ことばの関係の組み直しにおいてみずからの主題への接近を可能にすることばの選択を実現するその厳密さにおいてこそ「詩人」であるにすぎない。詩人になろうとして「詩人」なのではなく、ことばの「厳密さの詩学」において「詩人」なのである。
 ところで、本能的な無意識的なことばの探究と、この散文家による「厳密さの詩学」とは別のものなのだろうか。たしかに方法論としては別であるのはもちろんだが、ことばの基層に降りたつところからことばの生理にしたがって厳密にことばを切り出していくその手つきには共通するところがある。そのかぎりなくことばの基層に接近した局面において、ニーチェはすぐれた散文家は「詩人」であると言明したのであるが、この接近からあらためて詩人と散文家の分かれが生じていることも認めなくてはならない。(2012/9/8)

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2012年8月28日 (火)

思考のポイエーシス167 詩歌における「われ」の表出について

 高橋睦郎さんによれば、日本の詩歌史を通じての「三大巨人の第一等に挙げられる天才」*とされる柿本人麿は「作品の上で人間存在における愛と死の深い関わりに到達していたから」であると言う。《人麿の「われ」は人麿個人の「われ」に即しつつ、無限の拡がりを持つ「われ」なるものへと開かれていた》《その実感は人麿個人の「われ」なるものの実感から、非個性の「われ」なるものの実感へと拡がっている。あるいは逆に非個性の「われ」なるものの実感から個人の「われ」の実感へと収斂する。その拡大と収斂の相関関係において、愛と死とは一つになって読む者の心を打つ》と睦郎さんは述べている。そこに斎藤茂吉の『赤光』における「虚実入り混じった相聞」と呼ぶべき「おひろ」連作の「われ」は人麿と繋がるのではないか、という睦郎さんの意見はうなづける。
〈あはれなる女【をみな】の瞼【まぶた】恋ひ撫でてその夜ほとほとわれは死にけり〉という茂吉の歌など、どこまで事実なのかはともかく、死にいたるまでの恋の思いの表出はみごとと言うほかない。個性の表出は非個性化という拡大を通じてより豊かな膨らみのなかにあらためて回収されるのである。

*ここでの引用はすべて「図書」2009年7月号の高橋睦郎「相聞対挽歌――〈詩の授業〉十一」より。なお、ここで「三大巨人」とは、睦郎さんによれば、人麿のほかに世阿弥と芭蕉を指す。(2012/8/28)
(この文章は「西谷の本気でトーク」で掲載した同文の転載です。)

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2012年8月26日 (日)

思考のポイエーシス166 カントの独裁批判

 カントは論文「理論と実践」のなかで、政治的緊急時にあたって主権者と国民とはどういう関係になるのかをカール・シュミットに先駆けて言及している。
《緊急権 (ius in casu neccessitatis) は、最悪の物理的_¨緊急状態¨_において_¨違法行為¨_を敢えてする_¨権利¨_と称せられるものであり、かかるものとしていずれにせよ不合理な権能である、それだから緊急権のようなものがかかる場合に介入して、国民自身の権利を制限する関木【せきぎ】を撤去するための鍵を提供することはできないのである。実際、国家の主権者は、国民が反抗した場合や、或いはまた彼等の不当な受苦に対する不平によって彼等の蜂起を正当化し得ると思いなすような場合には、厳しい態度をもって彼等に臨むことができるのである。ところでこのような場合には、何びとが是非の決定を下すべきであろうか、このことをなし得るのは、公的な最高の司法権を占有する者――とりもなおさず国家主権者にほかならないのである。》(岩波文庫『啓蒙とは何か 他四篇』159-160ページ、傍点は原文)
 周知のように、シュミットは『独裁』(1921年)のなかで〈独裁〉のありかたを〈委任独裁〉と〈主権独裁〉に分けてくわしく分析している。そのなかにカントへの言及は註において2箇所ほど簡単に言及しているにとどまるが、ここでカントが述べているのは、まさに委任独裁が緊急時において主権独裁に転化する場面である。平時における裁量権を独占的に与えられた政治形態が〈委任独裁〉だとすれば、緊急時に主権者の独自の判断で、たとえ国民にとってあるいは外国にとって不利益ないし不当性が認められようと、緊急時の名において主権者が独裁権をふるうのが〈主権独裁〉である。言うまでもなく、第二次世界大戦におけるナチ政権がその典型であり、シュミットはそのお先棒を担いだわけだが、カントはその問題をすでにイギリス革命の推移のうちに、主権者が違反しても国民はそれにたいする「反乱を企てる権能」が規定されていないこと、実際に国民は沈黙していた歴史的事実をあげて、イギリス人がみずからの憲法を世界にたいする良き模範として顕彰しているのを否定している。すなわち、主権者の憲法違反があったとしても、「憲法がかかる場合を予期して政治組織――すなわち、いっさいの特殊な法を発生せしめる根源であるところの組織を(たとえ契約が侵害されたと仮定しても)覆すような法を含むことは、明らかに矛盾である」(同前166ページ)とカントは言う。ここでカントの念頭におかれているのはトマス・ホッブズであるが、ホッブズの主張するような、憲法違反を犯す国家主権者を国民との契約違反のかどで強制的に退去させる強制権なるものの非現実性をカントは指摘しているのである。《国家主権者に対する強制権(言葉或いは行動による反抗)は決して国民には帰属しないのである。》(同前165ページ)と。
 カントは〈独裁〉ということばこそ使っていないが、当時の国家形態の多くが君主制や封建制にもとづいた独裁国家であったところから民主政への展開がまだ望めない段階で、はやくも〈主権独裁〉の本質を見抜いていたことになる。慧眼と言うしかない。もちろんその問題をどう解決していくのかは、シュミットとは異なる見解が必要になるのであり、いまだに現代の課題であることは言うまでもない。(2012/8/26)

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2012年8月18日 (土)

思考のポイエーシス165 理論は何の役に立つか

 カントは「理論と実践」(正式のタイトルは「理論では正しいかもしれないが、しかし実践には役に立たないという通説について」)という論文の冒頭で、理論と実践をつぎのように定義している。
《実践的規則を総括して、この総括そのものを_¨理論¨_と呼ぶのは、これらの規則が或る程度の普遍性をもつ原理と見なされるような場合である。なおこの場合には、かかる規則の使用に必然的影響を及ぼすような多くの条件は無視されるのである。これに対して_¨実践¨_というのは、何によらずただ仕事をしさえすればよいというのではなくて、なんらかの目的を実現するための行為を指すが、しかしその場合にもこの行為は、目的実現の仕方に関してなんらかの一般的原理に従うのである。》(岩波文庫『啓蒙とは何か 他四篇』111ページ、傍点は原文)
 カントはこの理論と実践のあいだを媒介する中間項として規則をもふくむ「悟性概念」と、「判断力」の働きをあげている。実践するにあたっては「何か或るものが与えられた規則の適用を受けるか否かを判別する能力」(『純粋理性批判』第二版)である判断力が必要で、この判断力は独特の才能でもあるので、「こういう天性の能力が欠けている場合には、どんな規則でも誤用されないとは限らない」(同前)とクギをさしている。つまり、理論を知っていても判断力が適切に働かない専門家は実践家として役に立たないと言っているのである。また、その逆もある。「判断力という天賦の能力」をもちながらも、判断の前提である理論や知識がまだ不完全であるというような場合である。問題は実践だけあればよく、理論などは不要だとする「通説」を主張する傲岸不遜な輩である。こうしたひとたちに向けたカントの批判は痛烈である。
《何びとといえども、みずから一個の学に通達していると称しながら、理論を蔑視することはできない、そのようなことをしたら、彼は自分の専門において無知であることを自白するようなものである。彼は実験や経験において模索するにとどまり、およそなんらかの原理を収集して(これらの原理こそ、理論と名づけられるところのものの本体をなすのである)、これに纏まりを与えるでもなく、また彼の研究の成果を全体として(これに方法的な手続きを施したものが、すなわち体系にほかならない)考察することをしないにもかかわらず、理論によって達成せられ得るところのもの以上に到達できると信じているからである。》(岩波文庫『啓蒙とは何か 他四篇』113ページ)
 いかにも哲学を最高の学と信じているカントならではの理屈だが、ことを哲学や理論とまで敷衍しなくとも、日常のレヴェルでも個々の実践をたえず理論や知識の成果と照らし合わせて確認していく姿勢は大事である。理論や知識はいつでも誰でも不足しているのは当然なので、これらの補充や増設を日常化させていくことも必要で、こうしたまわりくどい努力が実践において即効性はなくともいつかは役に立つ。現代詩などには、詩人は詩論や詩史など知らなくてもよい、という横着な考えを述べるひとをときに見かけるが、――それはせいぜい詩を書くのに理論や知識はいらないと言っているつもりだろうが、――いずれにせよ、そんな程度で書いたものなどはたかが知れているのである。理論や知識のそれ自体のおもしろさ、それが相互につながっていくことの豊饒さを知ることは生きていくことの歓びでもあり、それが書く場合のおのずからなる豊かさにつながるのではないだろうか。(2012/8/18)

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2012年8月14日 (火)

思考のポイエーシス164 〈啓蒙〉の成熟度

 カントは『啓蒙とは何か』の冒頭で〈啓蒙〉についてこんなことを書いている。
《_¨啓蒙とは¨_、_¨人間が自分の未成年状態から抜けでることである¨_。_¨ところでこの状態は¨_、_¨人間がみずから招いたものであるから¨_、_¨彼自身にその責めがある¨_。_¨未成年¨_とは、他人の指導がなければ、自分自身の悟性を使用し得ない状態である。ところでかかる未成年状態にとどまっているのは_¨彼自身に責めがある¨_。というのは、この状態にある原因は、悟性が欠けているためではなくて、むしろ他人の指導がなくても自分自身の悟性を敢えて使用しようとする決意と勇気とを欠くところにあるからである。》(岩波文庫版7ページ、傍点原文)
 つまりは啓蒙されていない状態からみずからの意志で悟性を使用することによって未成年状態を克服することである、ということになる。この克服を〈啓蒙〉と呼ぶのである。
 カントはこのすこしあとで、さらにこう書いている。
《ところでこのような啓蒙を成就するに必要なものは、実に_¨自由¨_にほかならない。しかもおよそ自由と称せられる限りのもののうちで最も無害な自由――すなわち自分の理性をあらゆる点で_¨公的に使用する¨_自由である。(中略)自分の理性を_¨公的に使用する¨_ことは、いつでも自由でなければならない、これに反して自分の理性を_¨私的に使用する¨_ことは、時として著しく制限されてよい、そうしたからとて啓蒙の進歩はかくべつ妨げられるものでない》(岩波文庫版10ページ、傍点原文)
 ここで理性の公的使用とは、カントによれば、「或る人が_¨学者として¨_、一般の_¨読者¨_全体の前で彼自身の理性を使用すること」(同前11ページ)と定義され、理性の私的使用とは「_¨公民¨_として或る_¨地位¨_もしくは公職に任ぜられている人は、その立場においてのみ彼自身の理性を使用することが許される」(同前)とされている。すべてのひとがカントのように学者でないのだから、理性のこの公的使用の限定はやや狭すぎるかとも思うが、カントの時代にあってはこうした理性の公的使用をつうじての自由の実現が許容されうるぎりぎりの主張だったとも考えられる。人間はこうした自由を最大に使用することによってみずからの未成年状態を克服し、啓蒙されるべく努めなければならないのである。
 とはいえ、この未成年状態は、各人において自分が思うほどには生のあらゆる局面で抜け出ているわけではない。人間は生のさまざまな局面においてこの〈未成年状態〉を残存させているのではないかと思われるからである。一見〈大人〉になるということは〈未成年状態〉を克服したものと思われがちであるが、じつはそんなことはなく、理性の日常的惰性的使用にとどまっている人間がいかに多いことかはあらためて証明する必要もないだろう。別に「学者として、一般の読者全体の前で彼自身の理性を使用する」ことではなくても、現代では主観的でなく客観的に説得力をもちうる議論を展開できることが理性の公的使用と呼べるのではないかと思えるので、この自由の実現がどこまでできているかが啓蒙された大人であることの条件となる。ただし特定の利害やたんなる風評にすぎない臆断にまどわされずに人類普遍の視点から議論を展開する力をもつひとがどれだけいるかがほんとうは問題なのである。そういうひとの存在がどれだけ多いかが当該社会の〈啓蒙〉の成熟度なのかもしれない。(2012/8/14)

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2012年8月 4日 (土)

思考のポイエーシス163 脱原発の〈倫理〉

 高知の詩人たちが発行している同人誌「兆」154号で発行人の林嗣夫が「3・11、そして山尾三省――後記にかえて」のなかで、脱産業社会を意図して屋久島に移住した山尾三省について言及しながら、脱原発を主張するひとたちの〈倫理〉をつぎのように要約している。《人類の歴史の中では1%にもならない現代人が、これほどまで地球資源を使い、幾万年も消えることのない放射能によって環境を汚染し、これから生まれてくる未来世代の生存の可能性を奪っていいのか、現在の生活のみを考え、未来への想像力を欠いた生き方に幸せはあるのか》と。
 これはある意味ではすでに言い古された感のある論点だが、こういう見方がいぜんとして繰り返し主張されなければならないこの国の政府の愚かさ、原発関係者の利権まみれの自己本位がいっこうに改まらないことが問題なのである。〈未来への想像力〉という視点がこの連中には根本的に欠けている。自分の生きているあいださえ自分にとって都合がよければ、あとは野となれ山となれ、という夜郎自大なのである。
 ニーチェはこういうひとを指して〈末人〉と呼んだ。――かれらは「_¨真理¨_を犠牲にし、また_¨未来¨_を犠牲にして、おのれの生存をつらぬくからである」(『この人を見よ』岩波文庫版186ページ)。
 文明社会を経たあとで、原始に戻れと主張することは山尾三省のような個人の生き方としてはともかく、社会全体がそのように逆戻りすることはたしかにむずかしい。しかし科学者の自助能力を超えてしまった原子力のように、「もともと地上の生態圏には存在しない、_¨外部¨_の、太陽や銀河系の現象をいきなり(無媒介的に)生態圏に持ち込んだ、異質で過激なエネルギー」は「人間の技術を超えたものとみなければいけない」(中沢新一『日本の大転換』、林からの孫引き)のである。
 原子力科学者がおしなべて〈科学〉の名のもとに〈末人〉的学者化している以上、吉本隆明のように、いちど始めた原子力産業は科学の力で問題をそのつど乗り越える以外に進む道はないなどと考えるのではなく、原子力という未知の野蛮な暴力をいったん全面解除してそこからリスタートする以外に人類が生き延びる方途はありえない。もちろん、この野蛮なエネルギーを放射能汚染というかたちで地球上に蔓延させてしまった以上、これを完全に一掃するにはそのための専門科学の進化や技術の開発、そして幾万年に及ぶ時間がかかるだろうが、いまから現世代が次世代以降に遺し伝えていくための、せめてもの罪滅ぼしとしてやるべき仕事ではないか。原発推進をなお進めようとする〈末人〉たちの跳梁を許さず、責任を一部のひとたちの暴走に限定するのではなく、そうした〈末人〉たちの跳梁を許してきたし、いまもまだこれらの〈末人〉たちを退場させることのできないわれわれすべての共同責任として考えていかなければならないのである。(2012/8/4)

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2012年7月15日 (日)

思考のポイエーシス162 ニーチェの哲学理論批判

 ニーチェは自由な眼の認識力を制約し、見失わせる哲学的理論枠組みの問題を批判している。
《われわれは「純粋理性」だの「絶対的精神性」だの「認識自体」だのといったあの矛盾した概念の触手に対して警戒しようではないか。――これらの理論においては、つねにまったく考えうべからざる眼を考えることが要求されている。すなわち、まったくなんらの方向をももたない眼を、漠然と見ることをして初めて本当に何かを見ることたらしめる能動的な解釈的な機能が禁圧され欠如しているような眼を考えることが要求されている。つまりそこでは、一つの矛盾・背理がつねに眼に対して要求されているのだ。そこにあるのは_¨ただ¨_一つの見方において「認識する」ことだけである。(中略)しかし、意志を全く棄却し、感情をことごとく除去すること、それがわれわれにできるとしたら――どうであろうか、それは知性を_¨去勢する¨_ことだと言われないだろうか……》(ニーチェ『道徳の系譜』岩波文庫150-151ページ)
 ここで批判されているのはもちろんカントとヘーゲルだが、哲学とはまさにある物の見方を強制することによってひとつの理論的な概念化をおこなおうとする学であり、ここでのニーチェの批判はそういったいわば哲学の王道を無効と宣告するものである。ニーチェにとって哲学の体系とは自由な発想や解釈への桎梏と化したものだということになる。このことによってニーチェの哲学はアフォリズムや断章を主とした形式とし、みずからが体系化することを免れたが、反面、その哲学は文学的な警句集のようになってしまった。そこに詩人でもあったニーチェの思想が卓抜な警句のかたちに凝縮されて遺されたとも言えるが、哲学史的にはいくつかの重要な概念や人物造型(たとえばツァラトゥストラ)を別にすると、ニーチェは過去や現世の世俗的価値の辛辣な批判者としての相貌のみが傑出しているだけになる。もっともニーチェ自身はそれでまったく異存はないだろうが。その意味でニーチェは哲学者としてまことに稀有な存在であったと言わざるをえないのである。(2012/7/15)

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