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2012年11月25日 (日)

思考のポイエーシス171 沖縄の言説とどう向き合うか

 このところ屋嘉比収『沖縄戦、米軍占領史を学びなおす――記憶をいかに継承するか』(2009年、世織書房)を遅ればせながら読みつづけている。この本は刊行直後に版元から寄贈してもらったもので、以前から読まなければならないと思いながらここまで読めずにきたのだが、その間に著者の屋嘉比氏が早世するという悲運にあってしまい、直接会う機会は永遠に失なわれてしまった。1957年生まれだからわたしよりすこし下の世代になる。沖縄をめぐる諸問題に歴史学・思想史の立場から精力的に仕事をすすめてきた成果がまとめられはじめた矢先だっただけにその早すぎる氏が惜しまれてならない。
 ここではその屋嘉比収が残した仕事をどう読み取っていくべきかということをこの本にそって考えてみたい。
 屋嘉比収は本書の第1章「戦後世代が沖縄戦の当事者となる試み」のなかでみずからの立ち位置を「戦後世代の私たちは、沖縄戦の体験者にはなりえない」としつつ、「体験者との共同作業を積み重ねることで『当事者性』を獲得することが可能だ」(36ページ)と定めている。ここには、沖縄人でありながら、沖縄戦の体験者ではない後続世代としてどのように沖縄の歴史にかかわればよいのかをみずからに問う姿勢が顕著である。沖縄戦という、日本の歴史上初めて苛酷な陸上戦が戦われた事実のなかで、日本軍による沖縄住民の「スパイ視」から虐殺に及ぶ蛮行や、「集団自決」(ノーマ・フィールドによれば「強制的集団自殺」)と呼ばれる肉親が肉親を殺さざるをえない悲惨な状況に追い込まれていった事態の思想的・歴史学的把握など、なかなか一般化しえない現実にたいして、当事者たちの「語り得ないもの」を語ったさまざまな言説をとおして、いかなる理解が可能かを問う屋嘉比の視点はきわめて冷静である。
 ここには、わたしのようにヤマトンチューでありながら沖縄に思いを寄せたいとする者の姿勢がきびしく問われ直す契機がひそんでいる。すなわち、屋嘉比のように沖縄戦の当事者から時間という差異をもつ若い沖縄人世代に比べて、沖縄にたいして「加害者」的位置にあるヤマトンチューとして空間的にも心理的にも距離をもつわたし(たち)がいかにして「体験者との共同作業を積み重ねることで『当事者性』を獲得することが可能」になるのか、そもそもなりうるのかという問題を孕んでいるのではないか。〈当事者性〉というのはどこまで可能なのか。どうしても〈当事者性〉を獲得しなければなにもできないのか、なにかをする資格はないのか、といったことまで考えざるをえないのである。
 屋嘉比収は沖縄の諸問題を考察するなかで、日本「本土」との関係をたえずはかりながら、なおかつ沖縄の言説空間のなかで批判すべきものには正当な批判をしているように読める。たとえば、第4章「仲間内の語りが排除するもの」で写真家比嘉豊光らが映像化した「島クトゥバで語る戦世【いくさゆ】」にたいして、その映像化の成果が、これまでの「標準語」による語りでは得られなかった事実が「島クトゥバ」(沖縄語)で語られることによって、しかも証言者の自然な「語り」を引き出す聞き手側の姿勢によって見事に得られていることを高く評価したうえで、なおかつその「語り」のもつ負の部分も的確に指摘している。つまり証言者と聞き手が同じ「島クトゥバ」を共有するそのスタイルがすでに「仲間内だけの語り」になっていないかとしたうえで、つぎのように書いている。
《しかし、その仲間内の語りは、ある両義性を抱えている。すなわち、語り手と聞き手が同じ言葉を共有しているから、さまざまなことが気楽に語られて、その真相が浮かび上がってくる利点があるとともに、その同じ言葉が共有されているがゆえに、他者の視線や語りを遮断して排除する「仲間内の語り」に陥る危険性という、両義的な側面をもっているのではなかろうか。》(111ページ)
 この屋嘉比の批判は正鵠を得ているだけに、沖縄の言説空間のなかでもつ意味は深刻なのではないかと思う。生前の屋嘉比にたいしてどういう反論があったのかはつまびらかにしないが、当然、「島クトゥバで語る戦世【いくさゆ】」製作者側からの反論やそれを支持するひとたちからの批判もあったのではないかと推察される。それだけ屋嘉比の批判は内部批判的な側面ももっており、沖縄の言説的一体化をめざす立場のひとたちから見れば内部告発的だとされたかもしれない。沖縄戦の〈当事者性〉を獲得しようとしつつ、そこから思想史的になにを引き出すのかという屋嘉比の学問的立場は、当事者たちの情念を理解しながらもそれを超えていこうとする射程をもっているとわたしなどからすれば見えるのだが、そういうヤマトンチュー側の理解がこんどは沖縄側からすれば、いらぬお節介であり、屋嘉比の言説をダシにしたヤマトからの介入と見られなくもない。そういう厄介な二重三重の屈折が沖縄にかんする言説にはあるのだ。屋嘉比が亡くなっているいま、その屋嘉比の内部批判的言説をどう評価すればいいのか、それをどう言説化すればいいのか、わたしはあらためて考えざるをえないのである。(2012/11/25)

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