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2012年9月

2012年9月30日 (日)

思考のポイエーシス169 ニーチェのカント批判

 ニーチェはカントの〈定言的命法〉がよほど嫌いだったらしい。カントの道徳的判断の悲愴なことばにたいしてほとんどアレルギー的とも言える反応を示している。
 ニーチェはこんなふうに書いている。
《「こういう場合には、誰でもそういう風に行為しなければならぬ」と、相変わらず判断する者は自己認識にかけては未だヨチヨチ歩きの赤ん坊といったところだ。そうでもなければ、彼は、世に同一の行為もないし、またありえないことを、知るはずなのだ、――また、なされた行為のいかなるものも全く唯一のやり直しのできない仕方でなされたものであることを、もちろん未来の行為のいっさいにおいても事情は同様であるだろうことを、行為のあらゆる規定は粗大な外面だけに関したものだということを(中略)彼は知るはずなのだ。(中略)だが、われわれときては、_¨われわれが本来それであるところの者となることを欲するのだ¨_、――新しい人間、一度きりの人間、比類ない人間、自己立法的な人間、自分自身を創造する人間に、なることを欲するのだ。そのためには、われわれは、世界におけるいっさいの法則的なもの、必然的なものの、こよなき学び手となり発見者とならねばならない。》(ニーチェ『悦ばしき知識』第四書335節、傍点原文)
〈超人〉を志向するニーチェからすれば、カントの〈定言的命法〉にもとづく道徳的な公準がどれほど幼稚に見えたかは想像するにあまりある。カントは一般的な普遍性をめざし、ニーチェは個の超越性と独自性をめざした。ここにおそらくドイツ哲学の両極の姿が映っているのだろう。現代のわれわれもみずからの社会的実存においてはこの両者の微妙なバランスと選択のうえで生きているのであって、どちらかに徹底することは残念ながらなかなかできない。そこに哲学がそれぞれひとつの指標として立っていることが重要なのである。(2012/9/30)

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2012年9月 9日 (日)

思考のポイエーシス168 詩人と散文家の分かれるところ

 ニーチェは『悦ばしき知識』のなかで「散文と詩」についてこう書いている。
《散文の大家がほとんどつねに詩人であった(……)ということに、注意されるがいい! まったくのところ、ひとが立派な散文を書くのは_¨詩に直面¨_したときだけだ! というのも散文は、詩との絶え間ない礼節正しい戦いだからである。散文のあらゆる魅力は、それがたえず詩を避け詩に抗するというところにある。》(第二書五二)
 たしかに詩人でなくとも、すぐれた散文家――それが哲学者や批評家のように文章それ自体のみの力で言説を成り立たせることばの専門家は言うに及ばず、それ以外の研究者や科学者のなかにしばしば見られるようなすぐれた文章家――の文章は、その比喩の卓抜さとか独特な言い回しの絶妙な_¨あや¨_において詩的な魅力をたたえ、その文意がいっそう際立っている場合がよくある。詩的な文章を書こうとしてそうなるのではなく、その主張したい内容をなんとかうまく言表化できないかと苦心した結果、無意識のうちにことばの深層に降りていき、そこから当該の領域においてだれも言語化したことのないオリジナルなことばを汲み上げてくるからにほかならない。
 この領域ではおのずから主張したいなにか、発見され言説化されるべきなにかがしかるべきことばを待っているのであって、この事前に言説として達成されるべきなにものかがあらかじめ予測されるのが社会科学、人文科学の領域だとすれば、それは詩のように、あらかじめ言表されるべきものをなにももちえず、ことばが生まれたことによって、いわば事後的に発見されるなにか、まさしくそのように言われることを待っていたなにかとして見出されるものとは明らかにベクトルが異なる。しかし、語られるべきなにかが事前にイメージとしておぼろげに見えていようと、まったく見えていなかろうと、ことばの基層に降りたち、そこからことばを汲み上げるその真摯さこそが、ニーチェが言うように〈詩人〉の名にふさわしいのである。
 散文家が「詩を避け詩に抗する」のは、散文家があらかじめ見据えている主題の展開を、詩人のように自分のことばにたいする直観だけで本能的に「詩句を掘り進める」(マラルメ)のではなく、ことばの関係の組み直しにおいてみずからの主題への接近を可能にすることばの選択を実現するその厳密さにおいてこそ「詩人」であるにすぎない。詩人になろうとして「詩人」なのではなく、ことばの「厳密さの詩学」において「詩人」なのである。
 ところで、本能的な無意識的なことばの探究と、この散文家による「厳密さの詩学」とは別のものなのだろうか。たしかに方法論としては別であるのはもちろんだが、ことばの基層に降りたつところからことばの生理にしたがって厳密にことばを切り出していくその手つきには共通するところがある。そのかぎりなくことばの基層に接近した局面において、ニーチェはすぐれた散文家は「詩人」であると言明したのであるが、この接近からあらためて詩人と散文家の分かれが生じていることも認めなくてはならない。(2012/9/8)

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