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2012年9月 9日 (日)

思考のポイエーシス168 詩人と散文家の分かれるところ

 ニーチェは『悦ばしき知識』のなかで「散文と詩」についてこう書いている。
《散文の大家がほとんどつねに詩人であった(……)ということに、注意されるがいい! まったくのところ、ひとが立派な散文を書くのは_¨詩に直面¨_したときだけだ! というのも散文は、詩との絶え間ない礼節正しい戦いだからである。散文のあらゆる魅力は、それがたえず詩を避け詩に抗するというところにある。》(第二書五二)
 たしかに詩人でなくとも、すぐれた散文家――それが哲学者や批評家のように文章それ自体のみの力で言説を成り立たせることばの専門家は言うに及ばず、それ以外の研究者や科学者のなかにしばしば見られるようなすぐれた文章家――の文章は、その比喩の卓抜さとか独特な言い回しの絶妙な_¨あや¨_において詩的な魅力をたたえ、その文意がいっそう際立っている場合がよくある。詩的な文章を書こうとしてそうなるのではなく、その主張したい内容をなんとかうまく言表化できないかと苦心した結果、無意識のうちにことばの深層に降りていき、そこから当該の領域においてだれも言語化したことのないオリジナルなことばを汲み上げてくるからにほかならない。
 この領域ではおのずから主張したいなにか、発見され言説化されるべきなにかがしかるべきことばを待っているのであって、この事前に言説として達成されるべきなにものかがあらかじめ予測されるのが社会科学、人文科学の領域だとすれば、それは詩のように、あらかじめ言表されるべきものをなにももちえず、ことばが生まれたことによって、いわば事後的に発見されるなにか、まさしくそのように言われることを待っていたなにかとして見出されるものとは明らかにベクトルが異なる。しかし、語られるべきなにかが事前にイメージとしておぼろげに見えていようと、まったく見えていなかろうと、ことばの基層に降りたち、そこからことばを汲み上げるその真摯さこそが、ニーチェが言うように〈詩人〉の名にふさわしいのである。
 散文家が「詩を避け詩に抗する」のは、散文家があらかじめ見据えている主題の展開を、詩人のように自分のことばにたいする直観だけで本能的に「詩句を掘り進める」(マラルメ)のではなく、ことばの関係の組み直しにおいてみずからの主題への接近を可能にすることばの選択を実現するその厳密さにおいてこそ「詩人」であるにすぎない。詩人になろうとして「詩人」なのではなく、ことばの「厳密さの詩学」において「詩人」なのである。
 ところで、本能的な無意識的なことばの探究と、この散文家による「厳密さの詩学」とは別のものなのだろうか。たしかに方法論としては別であるのはもちろんだが、ことばの基層に降りたつところからことばの生理にしたがって厳密にことばを切り出していくその手つきには共通するところがある。そのかぎりなくことばの基層に接近した局面において、ニーチェはすぐれた散文家は「詩人」であると言明したのであるが、この接近からあらためて詩人と散文家の分かれが生じていることも認めなくてはならない。(2012/9/8)

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