思考のポイエーシス167 詩歌における「われ」の表出について
高橋睦郎さんによれば、日本の詩歌史を通じての「三大巨人の第一等に挙げられる天才」*とされる柿本人麿は「作品の上で人間存在における愛と死の深い関わりに到達していたから」であると言う。《人麿の「われ」は人麿個人の「われ」に即しつつ、無限の拡がりを持つ「われ」なるものへと開かれていた》《その実感は人麿個人の「われ」なるものの実感から、非個性の「われ」なるものの実感へと拡がっている。あるいは逆に非個性の「われ」なるものの実感から個人の「われ」の実感へと収斂する。その拡大と収斂の相関関係において、愛と死とは一つになって読む者の心を打つ》と睦郎さんは述べている。そこに斎藤茂吉の『赤光』における「虚実入り混じった相聞」と呼ぶべき「おひろ」連作の「われ」は人麿と繋がるのではないか、という睦郎さんの意見はうなづける。
〈あはれなる女【をみな】の瞼【まぶた】恋ひ撫でてその夜ほとほとわれは死にけり〉という茂吉の歌など、どこまで事実なのかはともかく、死にいたるまでの恋の思いの表出はみごとと言うほかない。個性の表出は非個性化という拡大を通じてより豊かな膨らみのなかにあらためて回収されるのである。
*ここでの引用はすべて「図書」2009年7月号の高橋睦郎「相聞対挽歌――〈詩の授業〉十一」より。なお、ここで「三大巨人」とは、睦郎さんによれば、人麿のほかに世阿弥と芭蕉を指す。(2012/8/28)
(この文章は「西谷の本気でトーク」で掲載した同文の転載です。)
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