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2012年8月14日 (火)

思考のポイエーシス164 〈啓蒙〉の成熟度

 カントは『啓蒙とは何か』の冒頭で〈啓蒙〉についてこんなことを書いている。
《_¨啓蒙とは¨_、_¨人間が自分の未成年状態から抜けでることである¨_。_¨ところでこの状態は¨_、_¨人間がみずから招いたものであるから¨_、_¨彼自身にその責めがある¨_。_¨未成年¨_とは、他人の指導がなければ、自分自身の悟性を使用し得ない状態である。ところでかかる未成年状態にとどまっているのは_¨彼自身に責めがある¨_。というのは、この状態にある原因は、悟性が欠けているためではなくて、むしろ他人の指導がなくても自分自身の悟性を敢えて使用しようとする決意と勇気とを欠くところにあるからである。》(岩波文庫版7ページ、傍点原文)
 つまりは啓蒙されていない状態からみずからの意志で悟性を使用することによって未成年状態を克服することである、ということになる。この克服を〈啓蒙〉と呼ぶのである。
 カントはこのすこしあとで、さらにこう書いている。
《ところでこのような啓蒙を成就するに必要なものは、実に_¨自由¨_にほかならない。しかもおよそ自由と称せられる限りのもののうちで最も無害な自由――すなわち自分の理性をあらゆる点で_¨公的に使用する¨_自由である。(中略)自分の理性を_¨公的に使用する¨_ことは、いつでも自由でなければならない、これに反して自分の理性を_¨私的に使用する¨_ことは、時として著しく制限されてよい、そうしたからとて啓蒙の進歩はかくべつ妨げられるものでない》(岩波文庫版10ページ、傍点原文)
 ここで理性の公的使用とは、カントによれば、「或る人が_¨学者として¨_、一般の_¨読者¨_全体の前で彼自身の理性を使用すること」(同前11ページ)と定義され、理性の私的使用とは「_¨公民¨_として或る_¨地位¨_もしくは公職に任ぜられている人は、その立場においてのみ彼自身の理性を使用することが許される」(同前)とされている。すべてのひとがカントのように学者でないのだから、理性のこの公的使用の限定はやや狭すぎるかとも思うが、カントの時代にあってはこうした理性の公的使用をつうじての自由の実現が許容されうるぎりぎりの主張だったとも考えられる。人間はこうした自由を最大に使用することによってみずからの未成年状態を克服し、啓蒙されるべく努めなければならないのである。
 とはいえ、この未成年状態は、各人において自分が思うほどには生のあらゆる局面で抜け出ているわけではない。人間は生のさまざまな局面においてこの〈未成年状態〉を残存させているのではないかと思われるからである。一見〈大人〉になるということは〈未成年状態〉を克服したものと思われがちであるが、じつはそんなことはなく、理性の日常的惰性的使用にとどまっている人間がいかに多いことかはあらためて証明する必要もないだろう。別に「学者として、一般の読者全体の前で彼自身の理性を使用する」ことではなくても、現代では主観的でなく客観的に説得力をもちうる議論を展開できることが理性の公的使用と呼べるのではないかと思えるので、この自由の実現がどこまでできているかが啓蒙された大人であることの条件となる。ただし特定の利害やたんなる風評にすぎない臆断にまどわされずに人類普遍の視点から議論を展開する力をもつひとがどれだけいるかがほんとうは問題なのである。そういうひとの存在がどれだけ多いかが当該社会の〈啓蒙〉の成熟度なのかもしれない。(2012/8/14)

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