« 思考のポイエーシス162 ニーチェの哲学理論批判 | トップページ | 思考のポイエーシス164 〈啓蒙〉の成熟度 »

2012年8月 4日 (土)

思考のポイエーシス163 脱原発の〈倫理〉

 高知の詩人たちが発行している同人誌「兆」154号で発行人の林嗣夫が「3・11、そして山尾三省――後記にかえて」のなかで、脱産業社会を意図して屋久島に移住した山尾三省について言及しながら、脱原発を主張するひとたちの〈倫理〉をつぎのように要約している。《人類の歴史の中では1%にもならない現代人が、これほどまで地球資源を使い、幾万年も消えることのない放射能によって環境を汚染し、これから生まれてくる未来世代の生存の可能性を奪っていいのか、現在の生活のみを考え、未来への想像力を欠いた生き方に幸せはあるのか》と。
 これはある意味ではすでに言い古された感のある論点だが、こういう見方がいぜんとして繰り返し主張されなければならないこの国の政府の愚かさ、原発関係者の利権まみれの自己本位がいっこうに改まらないことが問題なのである。〈未来への想像力〉という視点がこの連中には根本的に欠けている。自分の生きているあいださえ自分にとって都合がよければ、あとは野となれ山となれ、という夜郎自大なのである。
 ニーチェはこういうひとを指して〈末人〉と呼んだ。――かれらは「_¨真理¨_を犠牲にし、また_¨未来¨_を犠牲にして、おのれの生存をつらぬくからである」(『この人を見よ』岩波文庫版186ページ)。
 文明社会を経たあとで、原始に戻れと主張することは山尾三省のような個人の生き方としてはともかく、社会全体がそのように逆戻りすることはたしかにむずかしい。しかし科学者の自助能力を超えてしまった原子力のように、「もともと地上の生態圏には存在しない、_¨外部¨_の、太陽や銀河系の現象をいきなり(無媒介的に)生態圏に持ち込んだ、異質で過激なエネルギー」は「人間の技術を超えたものとみなければいけない」(中沢新一『日本の大転換』、林からの孫引き)のである。
 原子力科学者がおしなべて〈科学〉の名のもとに〈末人〉的学者化している以上、吉本隆明のように、いちど始めた原子力産業は科学の力で問題をそのつど乗り越える以外に進む道はないなどと考えるのではなく、原子力という未知の野蛮な暴力をいったん全面解除してそこからリスタートする以外に人類が生き延びる方途はありえない。もちろん、この野蛮なエネルギーを放射能汚染というかたちで地球上に蔓延させてしまった以上、これを完全に一掃するにはそのための専門科学の進化や技術の開発、そして幾万年に及ぶ時間がかかるだろうが、いまから現世代が次世代以降に遺し伝えていくための、せめてもの罪滅ぼしとしてやるべき仕事ではないか。原発推進をなお進めようとする〈末人〉たちの跳梁を許さず、責任を一部のひとたちの暴走に限定するのではなく、そうした〈末人〉たちの跳梁を許してきたし、いまもまだこれらの〈末人〉たちを退場させることのできないわれわれすべての共同責任として考えていかなければならないのである。(2012/8/4)

|

« 思考のポイエーシス162 ニーチェの哲学理論批判 | トップページ | 思考のポイエーシス164 〈啓蒙〉の成熟度 »

2012年」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1007862/46575500

この記事へのトラックバック一覧です: 思考のポイエーシス163 脱原発の〈倫理〉:

« 思考のポイエーシス162 ニーチェの哲学理論批判 | トップページ | 思考のポイエーシス164 〈啓蒙〉の成熟度 »