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2012年7月

2012年7月15日 (日)

思考のポイエーシス162 ニーチェの哲学理論批判

 ニーチェは自由な眼の認識力を制約し、見失わせる哲学的理論枠組みの問題を批判している。
《われわれは「純粋理性」だの「絶対的精神性」だの「認識自体」だのといったあの矛盾した概念の触手に対して警戒しようではないか。――これらの理論においては、つねにまったく考えうべからざる眼を考えることが要求されている。すなわち、まったくなんらの方向をももたない眼を、漠然と見ることをして初めて本当に何かを見ることたらしめる能動的な解釈的な機能が禁圧され欠如しているような眼を考えることが要求されている。つまりそこでは、一つの矛盾・背理がつねに眼に対して要求されているのだ。そこにあるのは_¨ただ¨_一つの見方において「認識する」ことだけである。(中略)しかし、意志を全く棄却し、感情をことごとく除去すること、それがわれわれにできるとしたら――どうであろうか、それは知性を_¨去勢する¨_ことだと言われないだろうか……》(ニーチェ『道徳の系譜』岩波文庫150-151ページ)
 ここで批判されているのはもちろんカントとヘーゲルだが、哲学とはまさにある物の見方を強制することによってひとつの理論的な概念化をおこなおうとする学であり、ここでのニーチェの批判はそういったいわば哲学の王道を無効と宣告するものである。ニーチェにとって哲学の体系とは自由な発想や解釈への桎梏と化したものだということになる。このことによってニーチェの哲学はアフォリズムや断章を主とした形式とし、みずからが体系化することを免れたが、反面、その哲学は文学的な警句集のようになってしまった。そこに詩人でもあったニーチェの思想が卓抜な警句のかたちに凝縮されて遺されたとも言えるが、哲学史的にはいくつかの重要な概念や人物造型(たとえばツァラトゥストラ)を別にすると、ニーチェは過去や現世の世俗的価値の辛辣な批判者としての相貌のみが傑出しているだけになる。もっともニーチェ自身はそれでまったく異存はないだろうが。その意味でニーチェは哲学者としてまことに稀有な存在であったと言わざるをえないのである。(2012/7/15)

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2012年7月10日 (火)

思考のポイエーシス161 芸術作品の自立性とニーチェの先見性

《私の意見はこうである。ある芸術家をその作品から切り離し、芸術家自身をその作品と同程度の真面目さをもって扱わないということは、確かに最もよい態度である。作者は結局その作品の予備条件であるにすぎない。母胎であり、土壌であり、場合によっては、その上に、またその中から作品が成長する糞土や肥料であるにすぎない。したがって大概の場合には、作品そのものを楽しもうと思えば、作者のことは忘れてしまわなくてはならない。》(ニーチェ『道徳の系譜』岩波文庫123ページ)
 ニーチェはその時代ではいちはやく芸術作品の自立性を、その作者とは独立した価値である作品の構造的自立性を説いていたことになる。ここにもニーチェの現代的洞察力の先見性を見るべきであろう。(2012/7/9)

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