« 思考のポイエーシス161 芸術作品の自立性とニーチェの先見性 | トップページ | 思考のポイエーシス163 脱原発の〈倫理〉 »

2012年7月15日 (日)

思考のポイエーシス162 ニーチェの哲学理論批判

 ニーチェは自由な眼の認識力を制約し、見失わせる哲学的理論枠組みの問題を批判している。
《われわれは「純粋理性」だの「絶対的精神性」だの「認識自体」だのといったあの矛盾した概念の触手に対して警戒しようではないか。――これらの理論においては、つねにまったく考えうべからざる眼を考えることが要求されている。すなわち、まったくなんらの方向をももたない眼を、漠然と見ることをして初めて本当に何かを見ることたらしめる能動的な解釈的な機能が禁圧され欠如しているような眼を考えることが要求されている。つまりそこでは、一つの矛盾・背理がつねに眼に対して要求されているのだ。そこにあるのは_¨ただ¨_一つの見方において「認識する」ことだけである。(中略)しかし、意志を全く棄却し、感情をことごとく除去すること、それがわれわれにできるとしたら――どうであろうか、それは知性を_¨去勢する¨_ことだと言われないだろうか……》(ニーチェ『道徳の系譜』岩波文庫150-151ページ)
 ここで批判されているのはもちろんカントとヘーゲルだが、哲学とはまさにある物の見方を強制することによってひとつの理論的な概念化をおこなおうとする学であり、ここでのニーチェの批判はそういったいわば哲学の王道を無効と宣告するものである。ニーチェにとって哲学の体系とは自由な発想や解釈への桎梏と化したものだということになる。このことによってニーチェの哲学はアフォリズムや断章を主とした形式とし、みずからが体系化することを免れたが、反面、その哲学は文学的な警句集のようになってしまった。そこに詩人でもあったニーチェの思想が卓抜な警句のかたちに凝縮されて遺されたとも言えるが、哲学史的にはいくつかの重要な概念や人物造型(たとえばツァラトゥストラ)を別にすると、ニーチェは過去や現世の世俗的価値の辛辣な批判者としての相貌のみが傑出しているだけになる。もっともニーチェ自身はそれでまったく異存はないだろうが。その意味でニーチェは哲学者としてまことに稀有な存在であったと言わざるをえないのである。(2012/7/15)

|

« 思考のポイエーシス161 芸術作品の自立性とニーチェの先見性 | トップページ | 思考のポイエーシス163 脱原発の〈倫理〉 »

2012年」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1007862/46338648

この記事へのトラックバック一覧です: 思考のポイエーシス162 ニーチェの哲学理論批判:

« 思考のポイエーシス161 芸術作品の自立性とニーチェの先見性 | トップページ | 思考のポイエーシス163 脱原発の〈倫理〉 »