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2012年6月

2012年6月26日 (火)

思考のポイエーシス160 実朝のニヒリズムという起死回生の装置──吉本隆明『源実朝』を読む

 吉本隆明『源実朝』(日本詩人選)を読み終わる。吉本追悼として読み残してきた吉本著作のなかからこの本を選んだのは、実朝という不思議な人物、所与の逃れられない境涯のなかで一大歌人として短い生を全うしえた人間に興味があったからだし、それを吉本がどう理解したかを以前から読みたいと思ってきたからである。

 箱根路をわが越えくれば伊豆の海や
 沖の小島に波のよるみゆ

 大海の磯もとゞろによする波
 われてくだけて裂けて散るかも

といった実朝の最晩年の歌を吉本は最高の作品としつつ、しかし、これらを「途方もないニヒリズムの歌」と解するのである。「悲しみも哀れも〈心〉を叙する心もない。ただ眼前の風景を〈事実〉としてうけとり、そこにそういう光景があり、また、由緒があり、感懐があるから、それを〈事実〉として詠むだけだというような無感情の貌がみえるようにおもわれる」(256頁)と吉本は書いている。

 _^世中【よのなか】^_は鏡にうつる影にあれや
 あるにもあらずなきにもあらず

 このような存在として亡霊のように世の中を生き延びねばならなかった実朝の実存の〈われてくだけて裂けて散る〉かのような鬱然たる空しさは、おそらくどうにも逃れられない生の必然として眼前に見えていた。そうした空虚のような〈心〉にニヒリズムともおぼしい空虚なことばが対応する。しかしこのニヒリズムこそ、異常なほど張りつめた内心の空虚をことばの充溢として外出させる、実朝に残された最後の起死回生の装置だったのである。(2012/6/25)

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2012年6月21日 (木)

思考のポイエーシス159

《「毎月抄」のような、定家の本格的な歌論をよむと、〈和歌〉の創作が、すでに一人の人物が生涯をつぶして修練しなければどうしようもないほどになってしまっているのが、息苦しいほどに看取される。どうしてこういうことになってしまったのか。》(『源実朝』「〈古今的〉なもの」一八九─一九〇頁)
 吉本隆明は源実朝と定家のかかわりについて触れながらこんな問いをたてている。そしてすぐつづけてこれに答えるかのように、つぎのように書いている。
《ある意味では詩の表現の歴史は、言葉の修羅場になってしまう必然性をもっている。その意味ではやむを得ないというほかはない。〈和歌〉もすでに定家の時代には、専門家が生涯をつかってやる修練になってしまって、『万葉』の東歌のような、_¨よいとまけ¨_の即興的な掛合いのようなものが、ひとりでに優れた詩になっていたという時代は、遠い夢のまた夢にすぎなくなっていた。》(同前、一九〇頁、傍点原文)
 定家ほどの歌作者にしてこのように感じさせたのだとすれば、古今集とはたしかに万葉集に見られるような大らかさ、天真爛漫さとはうってかわった技巧性、知的洗練、プロ意識という表現の隘路として〈言葉の修羅場〉を日本語表現史上初めてくぐり抜けなければならなかった事態の産物であると言える。これはなにやら日本近代詩から現代詩へと移行するさいのある種の〈近代性〉あるいは〈近代意識〉の獲得過程とかさなりあうところがある。残念ながら近代には定家ほどの際立った詩論家(短歌における正岡子規を別として)がいなかったために、そうした意識化はたとえば川路柳虹や萩原朔太郎のようないわば手探りの近代化への努力とともに試行錯誤をかさねながらすこしずつ現実化されていったのである。それは吉本亡きあとのいまでも事態の構造は同一である。それは個人の書き手にとっての事態の必然がその時代性とともになにかを起動させるようなかたちでしか新しいものを生み出すのがむずかしいといういまの情況を生んでいるのだ。吉本が実朝について書いているように、《たとえ『万葉集』や『古今集』に本歌をもとめても、どうしようもなく新体になってしまうという時代的な契機が実朝の詩の新しさであった》(同前、一九四頁)のと同じである。
 現代詩はこの暗中模索の情況をなんとしても突破する努力をしなければならない。(2012/6/20)

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2012年6月 6日 (水)

思考のポイエーシス158

 ニーチェはデカルトをはじめとする形而上学的哲学者たちにつぎのような痛烈な批判をしている。
《形而上学者たちの根本信仰は_¨対立しあう諸価値への信仰¨_なのだ。疑うということがどうしてもいちばん必要だったこの敷居のところでまず疑ってみるということが、彼らのうちのもっとも用心深い者たちにすら思い浮かばなかった……彼らはたがいに「スベテニツイテ疑ウ」ことをほめちぎっていたにもかかわらず。人はつまり疑うことができるわけだ――第一に、そもそも対立物なるものは存在するのかどうか、そして第二に、形而上学者たちが自ら太鼓判をおしたあの俗うけする価値評価と価値対立は、ひょっとすると単なる前景的評価にすぎず、ほんの暫定的な遠近法にすぎないのではないか、もしかするとそのうえになお、ある片隅から見られたものであり、ことによると下から見上げたもの、画家たちがよく使う表現をかりるならば、いわば蛙の遠近法なのではないだろうか、と。》(ニーチェ『善悪の彼岸――未来の哲学の序曲』「第1章 哲学者の先入観について」2節)
 たしかにデカルト派(「彼らのうちのもっとも用心深い者」とニーチェが言うのはデカルトを指しているにちがいない)はすべてを疑うことを哲学の出発点にしていると称しているものの、その出発点の敷居のところでもっと根本的に疑うべきものがあるのではないか、すなわち「価値」があると見なされているものは「前景的な」価値でしかないかもしれず、全体を俯瞰することのできない「蛙の遠近法」からの視野しかもっていないのではないか、という批判である。ニーチェはデカルトの哲学的態度を、本来論ずべき問題の手前か地べたから論じた狭小なものでしかない、と言っているのである。
 それにしても「蛙の遠近法」とはじつに巧みな比喩である。こういう視点からいかに多くの問題がいまだに論じられているかを考えてみれば、ニーチェの論法がいまでも有効であることがわかる。(2012/6/5)

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2012年6月 5日 (火)

思考のポイエーシス157

《高貴な魂は自らに対して畏敬を抱いている。》(ニーチェ『善悪の彼岸』「第9章 高貴とは何か」287節、原文傍点)
 ――なんと強いことばだろう。高貴な魂は純粋であり、他者を必要としないのだ。ニーチェはこの命題の直前でこう書いている。
《今日では芸術家や学者たちのあいだに、いかに高貴なものへとある深い欲求によって駆りたてられているかを、その作品によって示している者たちが、たっぷり見いだされる……しかし、この高貴なもの_¨への¨_欲求こそまさに、高貴な魂そのものの欲求とは根本的に異なっているのであって、まさしく、このような魂が欠けていることの、雄弁で危険な標識なのである。ここで決定し、ここで位階の序列を確定するのは、(中略)それは作品ではなくて_¨信仰¨_である。すなわち、ある高貴な魂が自分自身に関してもっている、何らかの根本確信であり、求められもせず、見いだされもせず、おそらくはまた失われもしない、あるものである。》
 高貴な魂は自足する。そして自らをただ畏敬しているのだ。高貴なものをめざすことこそがすでにして高貴でないという厳然たる証拠になる。世の中にはそうした人たちがあふれかえっているから、一見するだけで見分けがつきにくいこともある。高貴な魂はひっそりと自足しているから目立たないが、高貴を装う魂は目立とうとするから、わかるひとにはすぐに馬脚をあらわしているのだが、世の中にはわからないひとが多すぎるし、そのうえ権力や世論を支配していることが多いので、あたかも欺瞞的な高貴さが流通してしまう。これがニーチェの言う〈賤民支配〉なのだ。いま現在、まったくこのように世の中は推移している。救いようがない!(2012/6/4)

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2012年6月 2日 (土)

思考のポイエーシス156

 経済的にも世俗的地位にも恵まれていなくても、精神的貴族であることはできるとむかしから信じてきた。それは誰にも命令されず、自分の信ずる価値にむけてのみ自己のエネルギーを注力することができるように、自分の生をコントロールしようとする精神のありかたを指す。ハタからはわがままと見なされようが唯我独尊と思われようが、これは意志的に貫徹しようとしないかぎり実現できない境地である。ひとの目を気にしているようでは、まず不可能である。この生き方がただの思い上がりや錯覚と違うのは、他者の評価にとらわれず自分の力量を冷静に見極める知的能力であって、ただの過信者との違いは見かけは紙一重のようでも本質においてそこには千里の径庭があると言ってよい。
 こういうことにかんしてはニーチェはさすがにポイントをおさえている。『善悪の彼岸――未来の哲学の序曲』のなかでこう書いている。
《高貴な種類の人間は_¨自らを¨_価値を決定する者として感じており、この種の人間は人から是認してもらうことを必要とせず、「私にとって有害なものは、それ自身有害である」と判断する。彼は自分が、およそ事物に最初に栄誉を与えるものであることを知っており、彼は価値を_¨創造する¨_者である。》《自分自身に対する信仰、自分自身に関する誇り、「無私」に対する根本的な敵意と皮肉【イロニー】は、共感や「温かい心」に対するわずかな軽蔑や警戒とまったく同様に、決定的に高貴な道徳のものである。》(「第9章 高貴とは何か」260節)
 こういう観点から見れば、世俗的な評価や他人の眼差しなどは一顧だに与える必要のないものである。
《高貴な人間にとっておそらく理解することのもっともむづかしい事柄の一つは虚栄である……ほかの種類の人間がそれを両手でつかまえたと思っているような場合でも、彼はそれを否定しようと試みることであろう。彼にとって問題なのは、自分自身もっていない――したがってそれに「値する」こともない――ような好評を自らについて呼び起こそうとする者たち、しかもあとになってこの好評を自ら_¨信じる¨_ようになる者たち、を思い浮かべるということなのだ。それは彼にとっては、半ばは個人的にひどく悪趣味で不名誉なことに思われるし、さらに半ばは大いに奇怪で不条理なことに思われる……》(同前、261節)
 晩年のニーチェの境遇を髣髴とさせるところがあるが、そんなものを――みずからの狂気もふくめて――打ち破ったところにニーチェの真の栄光があったことは言うまでもない。文学をはじめ精神的な作業にたずさわろうとする者の多くがこうした精神的貴族でない事態は、今日の文学や詩の世界の哀れむべき姿であっても、この限界を打ち破ろうとする者こそがかならず現われるべきであるし、その者が必ずしも大きな成功を収めるという保証はどこにもないにもかかわらず、新しい精神の歴史はそこから動き出すだろう。(2012/6/2)

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