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2012年6月21日 (木)

思考のポイエーシス159

《「毎月抄」のような、定家の本格的な歌論をよむと、〈和歌〉の創作が、すでに一人の人物が生涯をつぶして修練しなければどうしようもないほどになってしまっているのが、息苦しいほどに看取される。どうしてこういうことになってしまったのか。》(『源実朝』「〈古今的〉なもの」一八九─一九〇頁)
 吉本隆明は源実朝と定家のかかわりについて触れながらこんな問いをたてている。そしてすぐつづけてこれに答えるかのように、つぎのように書いている。
《ある意味では詩の表現の歴史は、言葉の修羅場になってしまう必然性をもっている。その意味ではやむを得ないというほかはない。〈和歌〉もすでに定家の時代には、専門家が生涯をつかってやる修練になってしまって、『万葉』の東歌のような、_¨よいとまけ¨_の即興的な掛合いのようなものが、ひとりでに優れた詩になっていたという時代は、遠い夢のまた夢にすぎなくなっていた。》(同前、一九〇頁、傍点原文)
 定家ほどの歌作者にしてこのように感じさせたのだとすれば、古今集とはたしかに万葉集に見られるような大らかさ、天真爛漫さとはうってかわった技巧性、知的洗練、プロ意識という表現の隘路として〈言葉の修羅場〉を日本語表現史上初めてくぐり抜けなければならなかった事態の産物であると言える。これはなにやら日本近代詩から現代詩へと移行するさいのある種の〈近代性〉あるいは〈近代意識〉の獲得過程とかさなりあうところがある。残念ながら近代には定家ほどの際立った詩論家(短歌における正岡子規を別として)がいなかったために、そうした意識化はたとえば川路柳虹や萩原朔太郎のようないわば手探りの近代化への努力とともに試行錯誤をかさねながらすこしずつ現実化されていったのである。それは吉本亡きあとのいまでも事態の構造は同一である。それは個人の書き手にとっての事態の必然がその時代性とともになにかを起動させるようなかたちでしか新しいものを生み出すのがむずかしいといういまの情況を生んでいるのだ。吉本が実朝について書いているように、《たとえ『万葉集』や『古今集』に本歌をもとめても、どうしようもなく新体になってしまうという時代的な契機が実朝の詩の新しさであった》(同前、一九四頁)のと同じである。
 現代詩はこの暗中模索の情況をなんとしても突破する努力をしなければならない。(2012/6/20)

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