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2012年6月 6日 (水)

思考のポイエーシス158

 ニーチェはデカルトをはじめとする形而上学的哲学者たちにつぎのような痛烈な批判をしている。
《形而上学者たちの根本信仰は_¨対立しあう諸価値への信仰¨_なのだ。疑うということがどうしてもいちばん必要だったこの敷居のところでまず疑ってみるということが、彼らのうちのもっとも用心深い者たちにすら思い浮かばなかった……彼らはたがいに「スベテニツイテ疑ウ」ことをほめちぎっていたにもかかわらず。人はつまり疑うことができるわけだ――第一に、そもそも対立物なるものは存在するのかどうか、そして第二に、形而上学者たちが自ら太鼓判をおしたあの俗うけする価値評価と価値対立は、ひょっとすると単なる前景的評価にすぎず、ほんの暫定的な遠近法にすぎないのではないか、もしかするとそのうえになお、ある片隅から見られたものであり、ことによると下から見上げたもの、画家たちがよく使う表現をかりるならば、いわば蛙の遠近法なのではないだろうか、と。》(ニーチェ『善悪の彼岸――未来の哲学の序曲』「第1章 哲学者の先入観について」2節)
 たしかにデカルト派(「彼らのうちのもっとも用心深い者」とニーチェが言うのはデカルトを指しているにちがいない)はすべてを疑うことを哲学の出発点にしていると称しているものの、その出発点の敷居のところでもっと根本的に疑うべきものがあるのではないか、すなわち「価値」があると見なされているものは「前景的な」価値でしかないかもしれず、全体を俯瞰することのできない「蛙の遠近法」からの視野しかもっていないのではないか、という批判である。ニーチェはデカルトの哲学的態度を、本来論ずべき問題の手前か地べたから論じた狭小なものでしかない、と言っているのである。
 それにしても「蛙の遠近法」とはじつに巧みな比喩である。こういう視点からいかに多くの問題がいまだに論じられているかを考えてみれば、ニーチェの論法がいまでも有効であることがわかる。(2012/6/5)

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