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2012年6月 2日 (土)

思考のポイエーシス156

 経済的にも世俗的地位にも恵まれていなくても、精神的貴族であることはできるとむかしから信じてきた。それは誰にも命令されず、自分の信ずる価値にむけてのみ自己のエネルギーを注力することができるように、自分の生をコントロールしようとする精神のありかたを指す。ハタからはわがままと見なされようが唯我独尊と思われようが、これは意志的に貫徹しようとしないかぎり実現できない境地である。ひとの目を気にしているようでは、まず不可能である。この生き方がただの思い上がりや錯覚と違うのは、他者の評価にとらわれず自分の力量を冷静に見極める知的能力であって、ただの過信者との違いは見かけは紙一重のようでも本質においてそこには千里の径庭があると言ってよい。
 こういうことにかんしてはニーチェはさすがにポイントをおさえている。『善悪の彼岸――未来の哲学の序曲』のなかでこう書いている。
《高貴な種類の人間は_¨自らを¨_価値を決定する者として感じており、この種の人間は人から是認してもらうことを必要とせず、「私にとって有害なものは、それ自身有害である」と判断する。彼は自分が、およそ事物に最初に栄誉を与えるものであることを知っており、彼は価値を_¨創造する¨_者である。》《自分自身に対する信仰、自分自身に関する誇り、「無私」に対する根本的な敵意と皮肉【イロニー】は、共感や「温かい心」に対するわずかな軽蔑や警戒とまったく同様に、決定的に高貴な道徳のものである。》(「第9章 高貴とは何か」260節)
 こういう観点から見れば、世俗的な評価や他人の眼差しなどは一顧だに与える必要のないものである。
《高貴な人間にとっておそらく理解することのもっともむづかしい事柄の一つは虚栄である……ほかの種類の人間がそれを両手でつかまえたと思っているような場合でも、彼はそれを否定しようと試みることであろう。彼にとって問題なのは、自分自身もっていない――したがってそれに「値する」こともない――ような好評を自らについて呼び起こそうとする者たち、しかもあとになってこの好評を自ら_¨信じる¨_ようになる者たち、を思い浮かべるということなのだ。それは彼にとっては、半ばは個人的にひどく悪趣味で不名誉なことに思われるし、さらに半ばは大いに奇怪で不条理なことに思われる……》(同前、261節)
 晩年のニーチェの境遇を髣髴とさせるところがあるが、そんなものを――みずからの狂気もふくめて――打ち破ったところにニーチェの真の栄光があったことは言うまでもない。文学をはじめ精神的な作業にたずさわろうとする者の多くがこうした精神的貴族でない事態は、今日の文学や詩の世界の哀れむべき姿であっても、この限界を打ち破ろうとする者こそがかならず現われるべきであるし、その者が必ずしも大きな成功を収めるという保証はどこにもないにもかかわらず、新しい精神の歴史はそこから動き出すだろう。(2012/6/2)

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