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2012年4月

2012年4月30日 (月)

思考のポイエーシス153

 見てはならないものを見てしまった、という罪障感にも似たなんともやりきれない後ろめたさの感情をそれらはともなっていた。言語を絶するとか、聞きしにまさる、といった紋切り型で表現してしまうことの猥褻さを憚られるような凄惨な画像の連続と呼ぶべきだろう、気仙沼市の、南三陸町の、女川町のそれらは一帯がかつてガレキの山であったことを容易に想像させられるような、土台だけ残された敷地跡、窓ガラスも扉もなくなって髑髏のような骨組みだけの残骸をところどころにさらしている鉄筋コンクリートの建物、ぐしゃぐしゃにつぶれたまま積み上げられた大量の自動車のヤマをいたるところに繰り広げていた。周囲の道路もコンクリートがところどころ剥がれた砂利道のままであるが、そうした空洞や傷跡の光景が逆に震災後一年ちょっと経過したことの証拠になっている。町中にまで運ばれてしまったという漁船は一部を除いて片づけられていたのであろう、まさにそのことが震災直後のガレキだらけの町の惨状を幻視させる。この何もなさとは何か。もともと何もなかったのではもちろんなく、失なわれたものの底知れぬ思いの断ち切れなさとでも呼ぶしかない何ものかの絶対的な喪失、無念さが幻のようにその場に漂っているのかもしれないが、でもそこにはじつはなにもない。そのことの無惨さにこそ直面することでことばをうしなわざるをえないのだ。
 この連休のあいだにようやく東日本大震災後の被災地の気仙沼市、南三陸町、女川町を見てまわった。これとても今回の大震災とそれにつづいた福島原発事故の全体からすればほんの一部をかいま見ただけであるし、当事者たちにじかに触れて話を聞いてみたわけでもない。むしろこうしたかけがえのなさの喪失を遅ればせながら了解するためにこそたとえ一部でも現場を膚で知る必要があったのである。
 容易にことばにすることのできないこの了解を、しかしながら、なんとしてもことばにしていかなければならない。では、どういうことばで支えていけばいいのか。ことばによって何ごとかを変革していかなければならないとすれば、なにが可能なのか。原発事故の今後の処理もふくめて、こうした時代を断絶させるような天災、人災にたいして人間はどうして自己を立ち直らせることができるのか、そういう力はなによりもことばの力、思想の力以外にはないだろう、というのがわたしの見立てである。物質的な援助や心情的な応援は一時的なものでしかなく、被災地の人間はもちろんだが、人間すべてがこの被災によって大なり小なり深く受け止めざるをえなかった傷からどうやって回復するのかが思想の問題として問われるのである。
《神の同情にせよ、人間の同情にせよ、同情は恥知らずである。助けようとしないことは、助けようとすぐに駆けよってくる徳よりも、高貴でありうるのだ。/しかるに、そのような同情が、卑小な人間たちのあいだでは、今日、徳そのものと呼ばれている。――かれらは大いなる不幸、大いなる醜さ、大いなる奇形にたいして、なんの畏敬をももたないのだ。》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第四部「最も醜い人間」)
 この惨状を眼前にしてニーチェのこうしたことばを引くことは誤解を招きかねない。しかし今回の東日本大震災にたいする政府やマスコミの動きを見ていると、かれらの卑小さこそが事態の解明、収拾を誤らせ、ゆがんだ方向に導き、必要な手立ての遅れをうみだしてきたことは明らかである。しかもその方向性はいまもって改善されるどころか、人間の生の根源的な回復をたんなる惰性的政策や既得利権確保の犠牲にして恥じない。TPP導入によって日本農業の健全な発展を阻害し、原発再稼働を企むことによって人間生活の危機管理よりも利権派の利益を優先しようとするリアル・ポリティックスの極度の貧困を見れば、ニーチェの箴言は〈震災後〉の人間世界を考えるうえでなんとも示唆的である。人間がみずからの力による自己回復を実現するために必要なのが同情や一時的な援助ではなく、その自己回復をうみだすための思想的な作業――現状の批判的再構築のための立案、推進、理論的整備――であることが理解されよう。ことばがそこで大きな力を発揮することは言うまでもない。(2012/4/30)

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2012年4月20日 (金)

思考のポイエーシス152

 ニーチェは『ツァラトゥストラ』のなかで、大都市の喧噪から逃れてみずからの精神の故郷たる孤独な山上の生活にもどったツァラトゥストラにこんなことばを吐かせている。
《ここ〔故郷としての孤独〕では、いっさいの存在のことばとそのことばの櫃とが、わたしに向かって開かれる。いっさいの存在が、ここではことばになろうとする。いっさいの生成がここでは語ることをわたしから学ぼうとする。》(第三部の「帰郷」)
 このことばはすぐつづくパッセージにあるように、「いっさいの言説がむだになる」ような下界――そこでは「忘れることと通り過ぎることとが、最善の知恵である」――とは逆に、ことばこそが真に求められている。すべての存在がことばになろうとし、ことばはそれらの存在の証しとなろうとする。ここではまさにハイデガー的な意味での〈存在の家〉としてのことばの問題が先駆的に示唆されているのである。ニーチェのこの部分を踏まえているのかどうか不明だが、ハイデガーはこんなふうに書いている。
《存在史的な本質によれば、言葉は存在から生まれ、存在で組み立てられた存在の家です。だからこそ言葉の本質を存在との一致から、しかもその一致として、つまり人間本質の住み家であると考えることが重要なのです。(……)むしろ言葉は存在の家であり、人間はそこに住みながら存在の真理を見張りつつ、存在の真理に属しています。そうして人間は脱=自的に存在しています。》(『ヒューマニズムについて』)
 ことばの本質が存在と一致するというハイデガーの言語哲学は、周知のように、言語の究極としての詩へとつながっていくものだが、ニーチェの存在とことばの同一化への志向もまた、いきつくところ至福の境地に達したことば、すなわち詩の理想的実現を孕んでいたと考えてよい。ことばは人間本質にとっての〈存在の家〉であり、そこで人間はことばによって、ことばのなかに〈脱=自的に〉存在を実現する。ツァラトゥストラとはその形象化されたモデルのひとつなのかもしれない。(2012/4/19)

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2012年4月16日 (月)

断章12

仕事上かかわらなくてはならないだけで
およそかかわりたくないひと
ああいやだ おおいやだ
と岩田宏は言ってくれたな
使い減らしてきた時間の予備も少なくなった
むだにしていいのは自分のためだけ
他人の凡庸さは許さない
《勇気は最善の殺害者である。攻撃する勇気は。》(*)
生きることが闘争であることを
いまほど感じることはない
もはや守るほどの生はない
つまらぬこだわりなど踏みつぶせ
なあ きみたち
ことばの綾取りゲームは終りだぜ

*ニーチェ『ツァラトゥストラ』

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2012年4月10日 (火)

思考のポイエーシス151

 小林康夫編『〈時代〉の閾──戦後日本の文学と真理』(UTCPブックレット25)に収録された「小説をめぐる対話」のなかで松浦寿輝は《読む》こととはなにかをめぐって次のように語っている。
「ネット経由でふんだんに入ってくる情報は特にそうですが、読むことの体験としての厚みみたいなものが一切ないですよね。そこでは読むというよりむしろ知る世界、読むことと知ることが直結していると言えばいいでしょうか。/読むというのは僕は非常に分厚い時間の体験だと思うんですね。」「今日われわれは分厚いサブ現実に取り囲まれていて、そこには情報や知識を運んできてくれる通路が四通八達している。その通路の利便性が、読む行為の時間の厚みを虚構化してしまう。読むより前に、無媒介的に、即座に知ってしまうというのかな。」
 これは小林康夫との対話の終りのほうでふともらされた感のある発言だが、読書経験というものがたんなる知識や情報の取得にあるのではなく、読書に没頭する時間の堆積のなかにおのずから形成される〈分厚い時間の体験〉の質に担保されるものであることは明らかである。ここで松浦が言及しているのは小説を読む経験についてであるが、あらゆる読書経験の本質は知識や情報に先立つ全体的な経験のなかにおいてその体験に同一化し、みずからの力でこの経験を解きほぐしていくことによって全体としてこの経験を領有することにある。この体験はけっして単線的な思考や情報の網の目にからめとられることのできない質の強度をもっているのである。
 それを受けて小林康夫はこんなふうに言っている。
「同じテクストを読み、始めから終りまで情報をゲットしているという意味においては、みんなと同じ情報を持っていても、それでは何の意味もない。そうではなくて、その肌触りとか、触ったことで初めてわかる構造とか、そういう感覚を掴めるようになってほしい。(……)そういういろんな触覚、それを感覚的にわかる人間になってほしい。それがわかるということが知性なんです。」
 ここから小林はさらに言う。──「書くことのなかにすべてがある。読むことに立ち入るためには書かなければ駄目だ。書くこと以外にない。書かない人間は絶対に読めない」と。
 ここまで言っていいのかなと思うぐらい、すごい断言である。そこまで言わなくても、対象(本であれなんであれ)に向かってみずからのことばで立ち向かうこと、そうしてこそより深く納得できるものがあるということはたしかである。そこには思いがけない発見がともなうことさえあるので、外在的な情報や知識で整理したり意味づけたりしたものとは次元のちがう了解を得ることが可能となる。小林が言うように「意味になっちゃったらもうお仕舞い」なのかもしれない。(2012/4/9)

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