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2012年3月24日 (土)

思考のポイエーシス149

 ニーチェはソクラテスを評して〈理論的楽天家〉と呼んでいる。すなわち「事物の本性をきわめることは可能であるという信念をいだいて、知識と認識とに万能薬の効力をみとめ、誤謬を悪そのものと考える」(『悲劇の誕生──音楽の精神からの』)ことで、みずからの弁証がなにごとをも解明しうるとみなすからである。わたしも以前からこのソクラテスの弁論術というのがどこかいかがわしいものではないか、と思ってきた。プラトンが詩を捨てたのも、詩歌を低レベルのものとする弁証家ソクラテスの教えの結果というかそのデモーニッシュな圧力のゆえであったとニーチェは指摘する。ソクラテスの論理一辺倒の(芸術を解しない)弁証とはニーチェに言わせれば、〈意味深遠な_¨妄想¨_〉なのである。
 その妄想とはなにか。ニーチェはいう──「思惟は因果律という導きの糸をたぐって、存在のもっとも深い深淵の中にまで到達するという信念、思惟は存在を認識するばかりでなく、_¨修正する¨_ことさえもできるというあの不動の信念である。この崇高な形而上学的妄想は本能として科学にそえられているものであり、いくたびもくりかえし科学をその限界へと導く。そしてこの限界において、科学は_¨芸術¨_へと転化せざるをえないのだ。_¨もともとこのメカニズムが目標としていたのは、芸術にほかならなかった¨_。」(同前)
 つまり論理の果てに科学が妄想されており、その科学を推し進める究極(限界)において、科学は科学であることをやめざるをえない。すなわちその先にあるものが芸術なのであって、じつは芸術とはそうした科学の妄想をあらかじめ振り切ったところにみずからの根拠をもつものだ、と(おそらく)ニーチェは言おうとしている。ディオニュソス的混沌とオルギーの世界を拒否したところにソクラテス的科学主義(シニシズム的弁論術)の出発点があったのだが、その行き着く先はそうした「妄想」には最初から致命的な欠落があったのではなかったか、というのがニーチェの指摘なのである。
 芸術を排除したところに妄想されるソクラテス的〈理論的楽天性〉はこうして根底から粉砕される。ソクラテスの弟子プラトンが師の口まねをして、芸術を仮象の像の模倣であるとみなすことによって低級なものとしたものの、最後には青年詩人としての出立点に舞い戻ったではないか、というニーチェの見立てはなかなかうがっていると言わざるをえない。(2012/3/23)

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