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2012年2月

2012年2月19日 (日)

思考のポイエーシス144

 ヴァルター・ベンヤミンは『ドイツ悲劇の根源』のなかで、芸術家―哲学者―学者のトリアーデについてとてもおもしろいことを書いている。ベンヤミンによれば、これまでの通念では哲学者は学者のなかでも低い者として考えられてきたそうであるが、学者とは「世界を内側から概念として分割することによって、理念の領域における世界の拡散を容易ならしめる」(邦訳一二頁)存在、つまり世界の様態を概念としてとりだせるものに限って整序してとりだし、理念的世界においてお手軽なかたちでそれをより高度な理念の内実であるかのように関連づけようとする。あたかも世界の事象がある理念とシームレスにつながるものであるかのように現実を切り分けて整理してみせる。それにたいして哲学者は「経験的世界が自動的に理念の世界に入りこんでいくような、そのような理念の世界を構想記述するための修練が、哲学者の課題である」(同前)ような存在として規定される。この場合、理念の構築がおのずから現実の世界をその理念のもとに「自動的に」再編成してしまうかのように、世界を理念の光のもとに解明し、世界に展望を与えるものとなる。哲学者が学者とある意味で対極にあるとすれば、こうした理念を構築する者と、そうした理念に現実を整合させていくことに自己限定している者との決定的なヒエラルキーが存在するからである。
 一方、芸術家は「理念の世界の小さな像を描くのであるが、それを一つの比喩として描くからこそ、あらゆる時点における究極の像を描くことになるのである」(同前)とベンヤミンが言うように、芸術家にとってはなんらかの理念に結びつくような像を世界の比喩として描き出し、像化作用を実現するのだが、それは時代を超えてある普遍の像の成立へ向けられている。ここに哲学者が時代の核としてとりだそうとする究極の理念が時代性の刻印を帯びざるをえないのにたいして、この時代性を超越した像の絶対性、真実性の輝きとして定立されてしまった芸術家の比喩(像)は理念を貫通して決定的な実在性を確保する。それに比べれば、哲学者の理念の超越的構築の努力は、学者の営為にみられるある理念へのさまざまな事実の収集・整理の努力とは方向が異なるし、芸術家の直観による独自な像の発見・構築が結果的になんらかの理念を芸術的に表象することになるのと違って、ある独自の境域をつくりだしていくことになる。ベンヤミンが「哲学者は、学者と芸術家の中間に位する高い存在である」(同前)というのはまさにそういう意味である。(2012/2/19)

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2012年2月10日 (金)

思考のポイエーシス143

 スピノザの『エチカ』は神という究極存在を想定しながらも、そこにいたる人間のありかたを精神と身体の関係のなかで精密に(あたかも幾何学的な構築性において)分析した思索の書であるが、そのなかでデカルトの『情念論』を意識しつつ感情のさまざまな様態について独自に展開した「第三部 感情の起原と本性について」あたりが妙にスピノザの人間臭さが出ていておもしろい。生涯独身で通したこの〈屋根裏の哲学者〉が「愛」や「嫉妬」といった人間の強い情念について触れた部分は想像をかきたてるところがある。
 たとえば、愛する対象が別の相手に結びついているような場合、その愛は憎しみをともなうことになり、さらには嫉妬にまで発展する。スピノザの定義によれば、「愛は、外的な原因の観念をともなっている喜びにほかならない。また憎しみは、外的な原因の観念をともなっている悲しみにほかならない」(第三部定理一三の注解)からである。第三部の定理三五の注解のなかでスピノザは女性にたいする愛についてこんなことを書いている。
「彼の愛する女性が他の者に自分の体をまかせるのを想像する者は、ただたんに彼自身の衝動が妨げられるために悲しみにしずむというだけでなく、愛するものの像が他人の恥部や分泌物にやむをえず結びつけられることからも、彼の愛するものを拒否することになる。」
 なんとあからさまな描写だろう。冷徹な思索者スピノザにも心当たりのある経験があったのだろうかとさえ考えさせられるほどである。この世のものとは思われないような愛の対象にたいしては、自分以外の他者によってその純潔が汚されるそのなまなましい場面をイメージすることほど残酷かつ倒錯的な感情を喚起することはないだろう。こうした想像がひとを嫉妬に狂わせることは確かなことである。
 スピノザはそのすこしまえ(定理二三)でもこんなことを書いている。「自分の憎悪するものが悲しみに動揺するのを想像する人は、みずから喜ぶであろう。もし反対にその同じものが喜びに動かされるのを想像する人は、悲しみにつつまれるであろう」と。このようななまなましさが『エチカ』の叙述のなかで踊っているのはこのあたりを論じている部分にほぼ限られている。
 スピノザの倫理哲学がこうした人間感情の機微についてもけっして見落としていないことをあらためて確認しておきたい。(2012/2/9)

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