2011年

2011年12月31日 (土)

思考のポイエーシス139

 デカルトは自己の思惟の確実性をあれほど確信しながら、なぜ神の観念から逃れられなかったのだろう。わたしにはここがどうしても理解できない。たとえば『省察』のなかの「省察二」のなかでかれは書いている。
「いっさいのことをとくと思いめぐらし〔注意ぶかく検討し〕たあげく、けっきょく、_¨私はある¨_、_¨私は存在する¨_、というこの命題は、私がこれをいい表わすたびごとに、あるいは心のなかで考えるたびごとに、必然的に真であるとして、これを立てざるをえないであろう。」(〔〕内はフランス語訳版のみに見られるもの。_¨ ¨_は傍点。以下同様)
 また、こうも言っている。
「思惟することはどうであろうか。ここに私はそれを発見する。思惟がそれなのである。これのみは私から切り離されることができない。_¨私はある¨_、_¨私は存在する¨_、これは確かなことである。しかしどれだけの間なのか? もちろん私が思惟している間だけである。」
 これがデカルトの『方法序説』以来の思考のパターンである。しかも『省察』の「以下の六つの省察の概要」というあらかじめの要約において、デカルトは第二の省察においては、「精神は自己自身の自由を使用して、その存在について少しでも疑うことのできるようなものはすべて存在しないと仮定するが、しかし精神自身は存在せざるをえないことに気づくのである」と書いている。つまり思惟や精神そのものの存在の自立性を自明視することでデカルトは近代哲学の樹立者となったわけだが、そのデカルトが神の存在にたいしてはどうしても屈してしまうのはなぜか。そこに当時の世俗宗教たるキリスト教世界に生き抜くための妥協があったのかもしれないにしても、ガリレオのようなかれより三二歳も年上の科学者に比べて、はるかに軟弱であったと言わざるをえない。
『省察』の「省察三」は「神について。神は存在するということ」というタイトルが付されている節で、『省察』のなかでもとりわけおもしろくない節だが、そこでデカルトは「私が存在し、そしてもっとも完全な実有すなわち神の観念が私のうちにあるということ、ただこのことから、神もまた存在するということがきわめて明証的に論証せられると、どうしても結論しなければならない。」として、これをさらによりくわしく「論証」している。
「私が私自身のうちに精神の眼を向けるとき、単に私は、私が〔未完結な〕不完全なもの、他のものに依存するものであり、そして〔現在の私よりも〕より偉大なものあるいはより善いものへと限りなく努力してやまぬものであることを理解するばかりでなく、同時にまた私は、私が依存しているものが、〔私がそれに至ろうと努力し、その観念を私のうちに見いだす〕かかるより偉大なもののいっさいを、単に無限定的に、可能的にもっているばかりではなく、じじつ〔現実的に〕無限に自己のうちにもっており、そしてそのようにしてそれが神であることをも理解するのである。」
 これがデカルトによる神の存在証明ということになる。人間の有限性(生の有限性、知の有限性)を根拠として、観念のうえでこの有限性を無限性に可能的に接近させることとその先に神の存在を設定することは本質的に別の問題である。あえてその存在を設定してみるとして、そうした存在を絶対化する必然性はデカルトの論脈上においてもないはずである。これがスピノザによって批判的に乗り越えられるデカルト思想の最大のアポリアだったのではなかろうか。(2011. 12. 30)

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2011年12月24日 (土)

思考のポイエーシス138

「無条件に科学を信じている者はすぐれた科学者になることもできないであろう。科学的知識を絶対的なもののように考えるのはむしろ素人のことであって、真の科学者は却ってつねに批判的であり、懐疑的でさえあるといわれるであろう。少くとも科学を疑うとか、その限界を考えるとかいうところから哲学は出てくる。」(「哲学はどう学んでゆくか(二)」、初出は「図書」一九四一年四月号)
 こう書いているのは七〇年前の三木清である。あたかも今日の原子力科学者の思考のレヴェルの低さを予言しているかのようである。科学的知識を絶対化するエセ科学者の妄言をもとにこの国の原子力発電は今日の最悪の事態にまでいたり、それとともに日本という国の根幹が致命的な原子力汚染にまみれてしまった。どうやって回復させることができるのかは、三木が言うように「素人」の科学者にまかせておくことはできない。「真の科学者」の出番であるが、そこに哲学の必要も問われてくる。ことここにいたっては、単純な原子力批判だけでは事態の解決にはいたらないのである。
 三木は先の文章にすぐつづけてこう書いている。「しかしながら懐疑というのは、物の外にいて、それを疑ってみたり、その限界を考えてみたりすることではない。かくの如きは真の懐疑でなくて、感傷というものである。懐疑と感傷とを区別しなければならぬ。感傷が物の外にあって眺めているのに反し、真の懐疑はどこまでも深く物の中に入ってゆくのである。これは学問においても人生においてもそうである。容易に科学の限界を口にする者はまた無雑作に何等かの哲学を絶対化するものである。感傷は独断に陥り易い。哲学はむしろ懐疑から出立するのである。」
 ここで三木の言う「感傷」に陥らずに「どこまでも深く物の中に入ってゆく」懐疑は容易に事態を単純化しないだろう。いまや単純な原発批判でなく、どうしたら原子力の暴走を食い止められるのか、そうした科学の内部からあくまでも懐疑的に(哲学的にと言っても同じだろう)現状を打開しうる科学者の出現を待たなければならない。あるいはそういうひとを発見し、その声に耳を傾けなければならない。(2011. 12. 23)

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2011年12月 2日 (金)

思考のポイエーシス137

「書物の良否の本来の基準は(……)純粋であるか否か、根源的であるか否か、精神があるか否かというところに存するのである。もしそれが単に役に立つか否かということであるとすれば、書物の良否というものは相対的であって、絶対に良いといい得るものもなく、絶対に悪いといい得るものもない。或る人にとっては良書であるものも、他の人にとっては悪書であり得る。全く役に立たぬように見える書物から、才能がある人なら、役に立つものを見出してくることができるであろう。読書の楽しみは、このように発見的であることによって高まるのである。」(三木清「哲学はどう学んでゆくか」、初出は「図書」一九四一年三月号)
 書物の価値はこういう根源的にものを見る立場から初めてはっきり認識できることがわかる。七〇年前の三木の視点は現在でも通用する。(2011. 12. 2)

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2011年8月21日 (日)

「思考のポイエーシス」を再開します。

 これまで何度も中断しては再開してきたこのコーナーですが、これで何度目かの再開です。
 今後の予定は論考よりはむしろことばの断片(破片)を継続的に発表します。それは散文なのか、詩(のようなもの)になるのかはやってみないとわかりませんが、なにしろことばの現状を見ていてどうもなにか発言しなければならない気になってきたからです。
 もちろん、(出版)業界的な発言はそれなりにしていますので、そういうものではなく、もっと個人的、もしかすると文学的なことになると思います。
 従来の「思考のポイエーシス」の連番的な論考ふうの文章とは別のタイトルが必要になるでしょうが、未定です。とりあえず「断章」としておきます。

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