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2011年12月24日 (土)

思考のポイエーシス138

「無条件に科学を信じている者はすぐれた科学者になることもできないであろう。科学的知識を絶対的なもののように考えるのはむしろ素人のことであって、真の科学者は却ってつねに批判的であり、懐疑的でさえあるといわれるであろう。少くとも科学を疑うとか、その限界を考えるとかいうところから哲学は出てくる。」(「哲学はどう学んでゆくか(二)」、初出は「図書」一九四一年四月号)
 こう書いているのは七〇年前の三木清である。あたかも今日の原子力科学者の思考のレヴェルの低さを予言しているかのようである。科学的知識を絶対化するエセ科学者の妄言をもとにこの国の原子力発電は今日の最悪の事態にまでいたり、それとともに日本という国の根幹が致命的な原子力汚染にまみれてしまった。どうやって回復させることができるのかは、三木が言うように「素人」の科学者にまかせておくことはできない。「真の科学者」の出番であるが、そこに哲学の必要も問われてくる。ことここにいたっては、単純な原子力批判だけでは事態の解決にはいたらないのである。
 三木は先の文章にすぐつづけてこう書いている。「しかしながら懐疑というのは、物の外にいて、それを疑ってみたり、その限界を考えてみたりすることではない。かくの如きは真の懐疑でなくて、感傷というものである。懐疑と感傷とを区別しなければならぬ。感傷が物の外にあって眺めているのに反し、真の懐疑はどこまでも深く物の中に入ってゆくのである。これは学問においても人生においてもそうである。容易に科学の限界を口にする者はまた無雑作に何等かの哲学を絶対化するものである。感傷は独断に陥り易い。哲学はむしろ懐疑から出立するのである。」
 ここで三木の言う「感傷」に陥らずに「どこまでも深く物の中に入ってゆく」懐疑は容易に事態を単純化しないだろう。いまや単純な原発批判でなく、どうしたら原子力の暴走を食い止められるのか、そうした科学の内部からあくまでも懐疑的に(哲学的にと言っても同じだろう)現状を打開しうる科学者の出現を待たなければならない。あるいはそういうひとを発見し、その声に耳を傾けなければならない。(2011. 12. 23)

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