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2011年9月

2011年9月23日 (金)

断章9

「日本のように、ひとつの国でひとつの日本語という言語を使っているような国」*と
ある詩人は書いている
ことばのありかたに敏感であるべき詩人の
現実認識の程度とはこんなものでいいのか
日本の北端と南端の言語は日本語か
むかしこの国の首相が日本は一民族一言語で構成されていると
無知なのかどうか政治的な言説を吐いていたな
それと変わらないこの無意識と無知
このひとの言説は相当に甘いところがよくある
いまの編集者はこういう不注意をチェックしないのかねえ
もしかしたらできないのかも
そう思うと沖縄のウチナーグチは
鹿児島弁のなんだかわからない方言とも
明らかにちがう
琉球音楽の三線もヤマトの旋律とは
どう聴いてもちがうのである
琉球人の話し方も書き方もどこか翻訳を感じさせる
東アジアの一角という概念は琉球にはない
かわりに南アジアという視角から日本を相対化して見ている
ここではことばは簡単に消滅しない
こういうことを知らないと日本のこともわからない
ことばを書くことは諸刃の剣であることを
日本の詩人もそろそろわからないといけないだろう

*城戸朱理「言葉が消滅するとき」

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2011年9月17日 (土)

断章8

シュールな夜だ
月がカーテンの透き間から煌々と照っている
まさしくルナティックにわたしも起動する
勃起はしない
こんな夜中には頭を洗ってひげを剃る
〈わたしに著作権は存在しない〉
という一行がわたしを鼓舞する
やりかけの仕事と読みさしの詩集が待っているが
頓着しない
共寝の犬まで様子を見に起きてくる

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2011年9月12日 (月)

断章7

《この人には自分の好きなようにいわせておきたい。その雄弁を変に汚したくないし、彼の独創からなにか材料を盗んでも、大して得するわけでもない。いや、独創といっても、そんなに多くないし、強力というわけでもないし、どこかで聞いたようなものなのだが。》
こんなうまい落としかたがあるのかと感心する
これはモンテーニュがキケロにたいしてあてこすったもの
世の物書きたちはキケロほどの名声もないのだが
こんな殺し文句にも値しない
そういうわたしもだがね
詩をことさらに息苦しくする御仁が幅を利かせている業界もあるらしいけど
そういうひとの書くものはそもそもつまらないから
いささか話が落ちる

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2011年9月 7日 (水)

断章6

《もっとも真実なものとしてわれわれの精神に立ち現れることが、われわれの生活からすると、往々にして、もっとも有用なものとならないのは、人間存在の惨めさというしかない。》*
精神の貴族性
言霊のもつ対抗暴力性に
鷲掴みにされた者には
この惨めさはあらかじめ甘受されている
この惨めさが永遠の責め苦になるまえに
お迎えがくるほうが楽だというほどの真実は
はたして誰に価値があるのか
とにかく書いてしまうことだけが
真実への窓を開く
はずだ

 *モンテーニュ『エセー』

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2011年9月 1日 (木)

断章5

《無学だからといって、それだけ男根が固くならないことがあろうか?》*
とローマの詩人は言ったそうだ
知識はひとを虚弱にさせる
《人はなにも知ることはできないのだと考える人は、なにも知ることはできないと断言できるほど、自分がよく知っているかどうかを知らないのである。》**
なんだって!
結局ひとは知ることができるのかできないのか
なにも知らないことを知っているのは
やはり知らないことなのか
どうにもややこしい
はっきりしているのは
知らない者が知っているふりをする滑稽さだけだ
それでも知らないより知っているほうがいくらかましだろう
そのぶん悲惨さも深いだろうけどね

 *ホラティウス『エポドン』 **ルクレティウス『事物の本性について』いずれもモンテーニュ『エセー』より引用

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