2010年

2010年2月28日 (日)

思考のポイエーシス2010年

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 藤井貞和は言う。「詩だから例外や逸脱が許容されるということであっては、ていのよい、差別を受けいれたというに過ぎないのではないか。そんな世間の許しに甘えてしまってよいのであろうか!」(『詩的分析』二一二ページ)
「詩は技巧か、それとも技巧によってもう一つ高めた位置から自由に出入りできる、精神的な行為であるかをここで問いかけたいのである。あなたはまさか懸け詞を生産する、言語行為を、無意識だとは位置づけないことだろう。きわめて意図的な、言語の凝縮性に根ざした営為として、それらはあろう。詩の成立をそのような、精神の行為からみちびき出すのでなくて、どこから見いだすつもりかと、私などは声を大にして言いたい欲求を抑えられない。」(『詩的分析』二一二─二一三ページ)
 藤井はここではかなり気合いが入っている。詩が精神的な行為であって、その技巧は一見、例外や逸脱だとみなされたとしても、それは「意図的な、言語の凝縮性に根ざした営為」として精神的な一級の仕事なのだというのである。藤井の専門とする古典文学研究の世界にあってはこんな当然の認識をわざわざ主張しておかなければならない事情でもあるようなのだ。もっともこうした通念は世の中の常でもあるのだが。
 しかし、詩でありながら一般人にもわかるような普遍的な精神的行為としてみずからを実現していくことはなかなかむずかしい。散文的になりすぎず、あまりにわかりやすい、口当たりのいい、ちょっとした認識の鋭さやカリカチュアでとどまってしまわない、ことばのフィギュール。それを詩と呼ぶかどうかは、そのさいもはやどうでもいいかもしれないが、それでもどことなく詩の香りを残しているもの。わたしがひそかにめざすもの、それがこうしたことばの力あるフィギュールだといまは言っておく。(2010. 2. 28)

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