2009年

2009年2月15日 (日)

思考のポイエーシス2009年

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 ジョルジョ・アガンベンはパウロのイエスへの信仰にかんしてつぎのように述べている。
《パウロは、イエスが救世主であるという性質をもっていることを信じているのではない。「救世主イエス」を信じているのであって、あくまでもそれだけのことなのだ。救世主は、主語イエスに付加された述語ではないのであって、主語イエスから分かつことはできず、しかしまた、このために固有名を構成することはない何ものかなのである。そして、これがパウロにおける信仰なのだ。それは存在と本質のかなた、主語と述語のかなたにあるものの経験である。》(『残りの時──パウロ講義』二〇七頁)
 これは「名詞句」というテーマについて触れた部分である。欧米における言語学においてこの名詞句という技法あるいは語法は現代思想的な用法において非常に重要なレトリックを構成している。相異なる名詞と名詞をつなげることによって別の意味を生み出すこのレトリックは、それぞれの元の意味に即しているふうを擬態しながらそれらをベクトル合成したような新たな次元を切り開く。それは新たな「かなた」を示すのである。
 アガンベンはこの文章につづけて「愛」についてもこう述べる。
《しかし、これこそはまさに愛において到来するものではないのか。愛は、繋辞による賓述を認容せず、けっして性質あるいは本質を対象とすることはない。(中略)「である」と言うことは、それがなんであれ、愛からの頽落にほかならない。愛される者があれこれの性質をもち、あれこれの欠点をもっている、とわたしが計算するようになったとたん、わたしは取り消しがたく愛の外に出てしまっている。たとえ、──残念ながら、しばしば起こることなのだが──彼女を愛していると信じつづけており、それどころか、そう信じるいくつかの確かな動機があるにしても。愛には動機はない。》(同前、二〇七─二〇八頁)
 ここで愛の概念は信仰の概念とかぎりなく近づけられている。パウロにおけるイエスへの信仰とは愛そのものなのだ。だが、俗人の世界においても愛とは対象への信仰にかぎりなく同じものなのではないだろうか。その愛がいつかは対象への信仰から計算や打算、客観的批評へと「頽落」することによって愛でさえなくなっていく傾向をもつとしても。ひとは信仰のように愛を貫くことはできるのだろうか。また、信仰さえもじつはそうなのではないか。(2009. 2. 15)

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