2008年

2008年4月15日 (火)

思考のポイエーシス2008年

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 チェコの哲学者カレル・コシークは、十七世紀オランダ画家たちの描いた静物画は事物への親密さを描き、そのことによって事物は新しい生命を得ている、と述べている。これら魅力あふれる静物に囲まれて生きる人間は喜びに充ちた生活を送ることができた。ドイツ語で言うところの "Stilleben"(静止した生命)が及ぼす魔術的な作用とは、それが人間の脇に置かれてそれ自身のあるがままに委ねられたときこそ、人間への親密な関係があらわになると言う。二十世紀の人間は、事物へのこの親密な関係を失っているとつぎのようにコシークは批判する。
「一面では、生活のリズムが早くなり、性急と消耗が人々を圧迫し、人々に内面を維持し、自己自身にとどまることを許さない。その結果、人々は自分のまわりにある事物に対する_¨持続的な讃美¨_を持ち続けることがまったくできなくなっている。性急さは信頼と親密の敵である。人々が遅れるかもしれないという観念から不安になって急ぎ、ゆとりの時間を持たないと、人間と人間との間の、あるいは人間と物との間の、近くて親密な関係のための余地がなくなる。親密さのかわりにへだたりとよそよそしさ、冷血な計算、あるいはまた事物に魅了も愚弄もされない実用のための目的思考が現れる。他面では、今日の時代の人間は、親密な事物にかこまれてはいない。親密な関係とは、事物の数が限られていて、事物がはっきりと区別されている場合にだけ、形づくられるからである。」(「世界の建築術──都市の機能化とポエジーの無力について」、「みすず」2003年9月号、原文は1997年に発表された)
 コシークは現代人の精神の荒廃をこうした事物との親密な共存関係の崩壊に見ている。便利さ、スピード、無用な華美と贅沢、こうしたものへの一元的な価値づけに現代人は馴らされすぎている。他者にもまわりのモノへの愛着もなく、いつでも交換可能な存在にすぎない自分以外のものへの眼差しは、自分もまた、他者からの反転した眼差しに意味のない自分がさらされていることを意味している。ぎすぎすした人間関係はそのたんなる反映にすぎない。「内省のための、間を取る」時間が存在しないところでは、人間は過去の経験や記憶すらも利用することのできない貧しさにますます追いやられていく。コシークはこう言っている。──「時間が失われれば、人間は都市と大地とに詩的な仕方で住まうことはできない。そして想起する能力が生活から消え失せる。根本的には、記憶とは過去の事物と出来事とを思考のうちに呼び出すことではない。記憶とはなによりも人間が自分の前で起こることについて考えること、現実の出来事について考えることを意味する。」(同前)──この記憶論を記憶すること。思考のポイエーシスはここからやり直されなければならない。(2008. 4. 9)

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「才能というのははじめて現われるときにはおずおずと臆病です。そのうえ、才能は深く潜んでいることがよくあり、呼び 起こすことができなければならないのです。/それとは正反対に、凡庸や無能は大胆で図々しいものです。それらは入学試験という厳かな状況にも怯えたりはし ません。だからこそ凡庸や無能は入学試験でしばしば真の才能よりも大きな成功を収めるのです。」(コンスタンチン・スタニスラフスキー『俳優の仕事 第二 部』付録)
 まさにその通り! 凡庸さと無能さこそがこの世界のあらゆる場面ではびこっている。これに対抗するには同じように凡庸さと無能さで武装せねばならないとは!(2008. 6. 28)

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間に合わない
こんなことをしていては 絶対に間に合わない
そうわかっていても 木を植える
わたしたちは なんという愚かな民だろう(渡辺めぐみ「植樹祭」冒頭、詩集『光の果て』所収)

 詩人はさらにこうつづける。「出血しつづける激戦区が拡大しても/どこまでも どこまでも/生も死も抱【いだ】き終え/吹かれてあるように/酸欠 の 焦土と化した 地上にも/姿なき全身を晒し/どこまでも どこまでも/吹かれてあるように/颯爽と 稜稜と/風を食み/吹かれてあるように」この木に 「いまだ(未)よわい(齢)」という意味で「未齢」と名づける。地上の血で血を洗う争いの空しさを、植樹という自分の生を超えて先に伸びる未来へ向けての 行為に託し、人間が人間として生きることの意味を祈ろうとするこの詩人の姿勢はまさに倫理的だ。(2008. 8. 1)

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《私は実はいつも、誰かが「その点について、私は責任があります」、「この点に関しては私が責任を引き受けます」、「私が決断します」と言えると思って発 する表現は嘲笑すべきもの、さらには猥褻なものだと思ってしまいます。それは猥褻な思い上がりであり、主権を要求することであって、……》とジャック・デ リダはジャン=リュック・ナンシーとの対話「責任──来るべき意味について」(「水声通信」10号)のなかで述べている。このいささか唐突にみえるデリダ の発言にはその前段がある。デリダは言う。「責任を欠いたまま、責任を引き受けることなく、また、そもそも贈与が与えられようと受けられようと、贈与を引 き受けたり、要求したり、これに署名したりする振りをすることなく、贈与をおこなわなければなりません。しかし、逆に、私が贈与していることを知らないで 絶対的な仕方で贈与をおこなうならば、あるいは、贈与のいかなる類の経験も欠いたまま他者が贈与を受けるならば、私は贈与をおこなっていないし、何も贈与 していません。(中略)こうした状況において、意味、贈与、出来事のアポリアに関わる場合、私たちは、責任の問いが移動している点について論じる必要があ ります。」哲学的に何をなすべきか、という問いをたてるとき、「責任を棄却することが重要なのではなく、責任がかつてないほど計算不可能なもの、無限なも の、したがって、規定不可能なものとなるときが重要なのです。」という発言のあとに最初の発言がつづくのである。
 責任はいまや自覚的な決断としてではなく、パフォーマティヴな能力を超えた出来事と同じように、「計算不可能で、予測不可能で、予見不可能で、プログラ ム不可能」なものである。このアポリアのまえに立ちつくすこと、デリダが主張しているのは、そうした危機的な状況のなかでの瞬時の判断なのだろうか。責任 はあらかじめ果たそうとして果たせるものではないのであって、これは新たに哲学が問わなければならない問題となるのである。(2008. 10. 15)

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