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2008年3月12日 (水)

思考のポイエーシス1992年4/5月

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 エマニュエル・レヴィナスの思考は脈絡がとてもたどりにくい。リトアニア出身のユダヤ人という出自がそうさせるのか、さらにはハイデガーの現象学的存在論から出発しそれを否定的にのり越えようとする独特の形而上学への志向がそうさせるのか、にもかかわらず、レヴィナスの思考がヨーロッパの戦後思想の流れにおける今日的な結節点をかたちづくっていることはまちがいない。その〈他者〉をめぐる思考、〈顔〉という表出、〈無限〉への志向といったものがレヴィナス思想の核心を占めている。ここでは主著『全体性と無限』のなかからいくつかのポイントを抽出してみよう。
「形而上学的欲望は充たしうる欲望とは別の志向を有している。形而上学的欲望はそれを充足させうるだけのものすべての彼方を欲望する。形而上学的欲望は善良さのごときものである。」(第一部A―1)
 ──まずここで多くの人はつまづくかもしれない。いともあっさりと言われている〈形而上学的欲望〉とか〈善良さ〉ということばがどれほど近代西欧哲学の主流から排除されつづけてきたものであるか、あらためて言うまでもないほどだ。ここで形而上学とは哲学の克服すべき課題であるのではなく、逆に哲学のほうを根底のところで支える根源的欲望としてたちあらわれている。
 レヴィナスは「善良さとは、〈他者〉が自分自身よりも重視されるような仕方で、存在内に自己を定立すること」だと言い、「哲学はつねに他人をめざす言説」なのだとも言っている。つまりレヴィナスにとって哲学とは〈他者〉にかかわり、〈他者〉の存在の絶対性を明らかにする言説なのであって、〈善良さ〉とはこうした哲学にとっての前提となっているものだと言える。ともかく、こういう独特な哲学の方法をとるレヴィナスにとっては、これまでの西欧哲学の全体はあまりにも自己中心的であると思わないわけにはいかなかっただろう。レヴィナスがつぎのような帰結を引きだしているのは当然だ。
「被造物の_¨実存すること¨_そのものとして知をたてること、根拠づける者たる〈他人〉へとみずからの条件を越えて遡行する動きとして知をたてること、それは哲学のある伝統全体と絶縁することである。被造物の_¨実存すること¨_そのものとして知をたてることで、われわれは、自分とは異質な臆見を除外して自己のうちに自分の根拠を求めようとした哲学の伝統全体と絶縁するのだ。」(第一部C―2、傍点―邦訳原文通り、以下同じ)
 レヴィナスの思考はたえず行きつ戻りつしながら基本的なモチーフを徐々にふくらませていく。ここでつぎに〈他者〉というキイワードについて見ていこう。
「〈同〉の審問が〈同〉の自我中心的自発性においてなされることはありえない。〈同〉の審問は〈他〉によってなされるのだ。他者の現前によって私の自発性がこのように審問されること、われわれはこれを倫理と呼ぶ。〈他者〉の異邦性とは〈他者〉を〈自我〉、私の思考、私の所有物に還元することの不可能性であり、それゆえ〈他者〉の異邦性はほかでもない私の自発性の審問として、倫理として成就される。」(第一部A―4)
 ──「絶対的〈他〉、それが〈他者〉である」とレヴィナスは別のところで言っている。柄谷行人ふうに言えば、他者とは「自分と言語ゲームを共有しない者」(『探究I』)ということになろうか。ともかく、みずからの自己同一性の彼方からやってくる異貌の者、あるいはコミュニケーションをもつことの不可能な者が〈他者〉であって、その他者のまえでは自己同一性というものはかぎりなく相対化されざるをえない。なぜならみずからにとって他者がそうであるように、他者にとってはこの自己同一性が他者と化しているからである。だからここで見出されるのは相互の審問であり、それを〈わたし〉の側から言えば要請されるのは〈倫理〉ということになる。レヴィナスの思考がもっとも有効な力を発揮するのは、こうした倫理的関係を介して知の批判的本質が成就される局面を引きだしているからである。この知が形而上学の別名であることはもはや言うまでもあるまい。(1992. 4. 20, 5. 5)

73(承前)
 ここでいま引用した部分が『全体性と無限』の「形而上学は存在論に先行する」という項のなかの一節であることに注目したい。なぜならここでは明らかにハイデガー存在論への批判をつうじてみずからの哲学的立場の表明があるからだ。事実、レヴィナスはこう書いている。
《ハイデガー存在論の優位性を基礎づけている言葉、すなわち「_¨存在者¨_を認識するためには、存在者の存在を了解していなければならない」は自明の理ではない。_¨存在者¨_に対する_¨存在¨_の優越を肯定すること自体、哲学の本質についてある選択をすることである。つまり、それは一個の存在者である_¨誰か¨_との関係(倫理的関係)を_¨存在者の存在¨_との関係(知の関係)に従属させることであり、存在者のこの存在が、非人称的存在として、存在者の把持、支配を許すのである。」(第一部A―4)
 ──ここでレヴィナスはおそらくハイデガー哲学の暴力性、支配志向性を指摘しながら、この哲学のナチズムへの傾斜の理路を想定していたにちがいない。レヴィナスの思考が、ハイデガー的存在論──存在と存在者の存在論的差異の設定と前者の後者にたいする優位性の確認──にたいする転倒を〈他者〉とその〈実存〉という概念を介しておこなうことができたのは、ハイデガーの存在論が、結局はアーリア民族のなかにしか〈存在〉を見出そうとしなかったという苦い経験を経てきたからである。レヴィナスから見れば、ハイデガー哲学こそが〈全体性〉という暴力とその社会的歴史的帰結を導いたのであって、そこから脱出するには〈同〉の自己同一性と自己反復を切断しうる契機が必要だった。それが〈他者〉と〈無限〉という概念だったのである。
 ところで、レヴィナスは〈他者〉という概念に具体的イメージを与えるにあたって〈顔〉という独特の概念を提示する。
「_¨私の内なる¨_〈_¨他人¨_〉_¨の観念¨_をはみ出しつつ〈他人〉が現前する仕方、この仕方をわれわれはここで顔と呼称する。(中略)顔は_¨自分を表出する¨_。顔が現代存在論に抗してもたらす真理の概念、それは非人称的〈中立態〉の開示とは異なる真理の概念、_¨表出¨_としての真理の概念である。」(第一部A―5)
 ──〈顔〉(visage)とはなにか。「顔は語る。顔の表出はすでにして言説である」とレヴィナスは言う。哲学の歴史のなかで〈顔〉という概念がこれほどまで深く論究されたことはなかったであろう。なぜなら顔とは人間の表層であり、本質的なものを背後に隠してしまう表面的な現象にすぎなかったのであり、哲学とはいつも表層のうしろに隠れている本質を暴きだそうとする衝迫のことだったから、顔などというものは非本質的な、問うに値しない場所にすぎなかったのである。レヴィナスはしかしこの顔のもつ意味に誰よりも注目した。それは〈他者〉という〈無限〉の存在、容易に解読することのできない存在との接点なのであり、おそらくは〈他者〉の存在開示の唯一の場所なのである。顔のもつ〈他者〉性の開示という意味がそれぞれの自我の相互性として把握されるときには〈対面〉face-a`-face という関係が生じることになる。
 この〈顔〉という概念がもつ身体性についてレヴィナスはさまざまに語ってみせる。たとえば顔の裸出性(nudite+')について。
「顔の裸出性は、私によって開示され、この開示によって私に供されるものではない。顔の裸出性は、私にとって外的な光のなかで、私に、私の権能に、私の眼に、私の知覚に供されるものではない。顔が私のほうを振り向いたということ、それが顔の裸出性にほかならない。顔は体系に決して準拠することなくそれ自身で_¨存在する¨_のだ。」(第一部B―5)
 ──ところで、レヴィナスによれば、「事物にとっての裸出性とは、この事物の存在がその目的性に対して有する剰余のことである。不条理でかつ無用な事物、それが裸の事物である」というふうに把握されていた。それが「体系を喪失した事物の不条理性」という〈裸出性〉の第一の意味である。しかしこれに、それ自体肯定的な価値をもち、どんな形態をも貫いていく顔の裸出性という意味(第二の意味)が付け加わる。そしてこの意味は必然的に第三の意味、すなわち「恥じらいをつうじて感得される身体の裸出性、嫌悪の情や欲望を惹起しつつ他者に対して現われる身体の裸出性」をも招きよせる。この最後の二つの裸出性こそ、レヴィナスが〈他者〉の問題を肯定的に構成するときにつねに念頭においているにちがいないものなのだ。
〈他者〉は顔あるいは身体の裸出性として十全にあらわれるかぎりにおいて、〈他者〉であり、〈他者〉の他性alte+'rite+'として顕現する。そしてそのとき自我の審問が生起するのだが、レヴィナスはこの審問をさして〈言語〉と呼んでいる。〈他者〉の顕現において審問される自我は、言語のなかに突き落とされる。「言説において私は〈他者〉の問いかけにさらされており、この問いかけに即答しなければならないという切迫感が鋭くとがった現在の切っ先のように私を突きさす。かくして、私は有責者として産み出されるのだ」(第二部E―2)というわけである。哲学とは〈他者〉のこの問いかけに答えるべく、もっとも強力に意識化されねばならない言説体系なのだ。レヴィナスの思考は、この〈他者〉をけっして知解可能な〈表象〉へと転移させることなく、この〈他者〉との対面を引き受けつづけようとする実存の思考なのである。
「人間の実存は、それが内面性でありつづける限りにおいて、現象的なものにとどまる。言語によって、ある存在は別の存在のために実存する。人間の実存がその内面的実存以上の実存によって実存しうるための唯一の可能性、それが言語である。」(第二部E―3)
 ──ここで〈内面性〉とはすでにつぎのように規定されていたこともここで想起しておこう。
「全体性ではなく自己と関わり、全体から撤退し、全体への統合を延期する余地を、生は思考する存在に対して残す。この撤退、この延期こそ内面性にほかならない。」(第一部B―1)
 ──〈内面性〉とはみずからを「存在の全体性とみなすことのない」存在であり、したがって「外部性と関係することのできる存在」である、とレヴィナスは言う。別のことばで言えば、〈無限〉から分離された存在としてしかしその次元で〈無限〉を手放すことなく、現象的な実存として〈他者〉存在と対面し、その対面をつうじて言語化をみずからの責務とする実存──これがレヴィナスがみずからの方法としてとりだした形而上学の形式なのだ。『全体性と無限』が「主観性擁護の書」として書かれたとするレヴィナスのことばを裏づけるとすれば、この〈主観性〉には自我の思考と〈他者〉の存在とが渾然一体化して、ひとつの全体性(客観性)の暴力に対抗しようというモチーフがこめられているからではないだろうか。(1992. 5. 5)

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