1998年

2008年3月16日 (日)

思考のポイエーシス1998年11/12月

122
「良識はこの世でもっとも公平に分配されているものである。」(ルネ・デカルト『方法序説』冒頭)
「デカルト哲学、ひいては近世哲学の出発を飾るマニフェスト」(塩川徹也)とされるものだが、デカルトが世間の常識的な見解を根拠にしているのはすべてを疑う哲学者デカルトらしくないとされる。
    ◆
「彼女の楽しげな 脚のあいだの
元気づいた 割れ目は
ぼくのバラバラな 欲望を引っ張り込み
ひとつの かたまりにした」(E・E・カミングズ[谷川昇訳]「ひとつの軍隊のように」、詩集『And』より)
    ◆
「人間たちが正しいときはいつも
彼らがもう若くはない
ということなのだ」(E・E・カミングズ[谷川昇訳]「心よ」、詩集『新詩集』より)(1998. 11. 21)

123
「主観性の優位を問題視する徹底的な仕方は、テクスト理論を解釈学の軸とみなすことである。テクストの意味が、その著者の主観的な意図に対して自立するのに応じて、本質的な問題は、テクストの背後に見失われた意図を再発見することではなく、テクストが開示し、発見する〈世界〉をテクストの前に展開することである。」(Paul Ricoeur:Phe+'nomenologie et herme+'neutique)
    ◆
「言述(discours)としてのテクストでは、記号論的次元よりも意味論的次元が優先する。テクストはそれ自身の閉域にとじこもらず、〈世界〉を、テクスト的世界をもつ。それゆえに詩的テクスト、文学テクストも指示作用をもつ。すなわちそれはテクスト世界を指示するのである。」(久米博「『傷ついたコギト』から自己の解釈学へ」)
    ◆
「自己理解することは、テクストの前で自己理解し、テクストから、読解行為に到来する自我とは異なる自己の諸条件を受け取ることである。」(Paul Ricoeur:De l'interpre+'tation)(1998. 11. 24)

124
Elle a la form de mes mains(Paul Eluard: L'amoureuse/詩集“Mourir de ne pas mourir”1924、所収)
「彼女はわたしの手のかたちをしている」とは言うまでもなく、愛撫することの喚楡。(1998. 12. 14)

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思考のポイエーシス1998年7/8月

117
「タブー」(第一稿)
いつもの多忙なひとが
あなたの/わたしの前に立っている
鼻をこすりつける犬の欲望は
なかなか成就されない
腰のはいった脚をひらくと
火の技法が膝を割り
去年今年を貫くように
多忙なひとはねんごろになる(1998. 7. 7)

118
「タブー」(決定稿)
いつもの多忙なひとが
遠来のあなたの前に立っている
ひととひとをへだてる
快楽の犬は鼻の先にあり
秘められた儀式は
なかなか成就されない
あなたのひらかれた企みに
弓なりにしなる腰がはいると
去年今年を貫くように
火の技法が膝を割り
多忙なひとはねんごろになる(1998. 7. 9)

119
([野沢啓が読む6]の下書き原稿)
 このところ比較的平穏な(ぬるま湯的な?)日常を送ってきたかの観のある現代詩の世界にも、最近ようやく戦争の記憶をめぐる現在の思想や歴史の領域できびしくたたかわれているいくつかの論争にかかわろうとする者が現われてきつつある。それもかならずしも生産的というより、むしろある種の反動性をおびるかたちで現われているので始末が悪い。
 あるジャーナリストによって〈歴史主体論争〉と名づけられた加藤典洋と高橋哲哉の論争は、第二次世界大戦における日本軍の侵略によって殺されたアジアの二千万の無辜の死者への謝罪が先か、それとも元日本軍兵士三百万の戦死者への哀悼が先かという争点をめぐって、日本人としての自己の立ち上げを優先する加藤と、自己の立ち上げにはアジアの国々という歴史的な他者との謝罪をふくんだ関係回復の努力が先行するとする高橋の論争であるとまずは整理することができる。昨年夏に出版された『敗戦後論』による加藤典洋の最終的な問題提起にたいしてはさまざまなかたちで批判的な論考が出ているが、なかでも最近、小森陽一と高橋哲哉の共編になる『ナショナル・ヒストリーを超えて』(東京大学出版会)は、たんに加藤批判のみならず、(……)(1998. 7. 12)

120
([野沢啓が読む6]の下書き原稿・つづき)
(……)藤岡信勝や西尾幹二らの主導による「自由主義史観」派や「新しい歴史教科書をつくる会」、はては「自虐史観」といったネオ・ナショナリズムの台頭やその歴史的淵源を包括的に批判している。日本近代のいきつくところが侵略戦争であり、アジアの人々にたいして虐殺・暴行のかぎりをつくして、いまなお謝罪することさえできない日本近代とはいったいどういう近代性なのであろうか。加藤典洋の提言はそういったなしくずしの近代にたいする自己主体の立ち上げが他者を必要としないでどこまで可能かといった観念的な問題設定であり、文学者にとって一定のインパクトを与えたことは否定できない。
 たとえば瀬尾育生がこのところいくつかの雑誌で書いたり発言したりしていることは、没論理的であるばかりでなく、きわめて党派的なイデオロギー性をもっている。瀬尾の批評は、この加藤の自己主体の立ち上げ論に影響を受けたもののように思える。あるいはその論点を現代詩の世界において展開しようとするもののようにも見える。現代詩を日本近代の歴史的な流れのなかにのみ限定してとらえかえそうとする瀬尾の論点は一見、正当な主張のように見えるが、「現代詩手帖」三月号と七月号での北川透との対談などを読むかぎり、その論理はヨーロッパの思想のみならず詩の外部にある他者の思想にたいするやみくもな反発と「形式化されたマルクス主義」だの「モダニズム」だのといった無規定なレッテル貼りにすぎない。ここではいちいち触れられないが、こうした瀬尾へのいくつかの批判は「現代詩手帖」八月号での拙論を参照していただければありがたい。
 今回もあまりスペースがなくなってしまったが、いくつかの収穫を挙げておこう。辻征夫詩集『萌えいづる若葉に対峙して』(思潮社)にはあいかわらず自在な感受性の世界がのびやかに展開されている。幼少のときのやわらかな感性を失なわずにその時代の風物を書きつづけているこの詩人が、これで詩を書くのをやめるというのはほんとうだろうか。財部鳥子詩集『烏有の人』(思潮社)もまた中国大陸の生活経験をもとにこのひとならではの洞察力あふれたスケールの大きな世界を描き出している。人間観察において優れた発見の数々は見逃せない。新藤凉子と高橋順子による『からすうりの花』(書肆とい)は病いに臥せている吉原幸子のことばを記憶から取り出しながら編んだ連詩集である。これもひととひとの情感あふれる関係が引き出した生きることへの思いのひとつの成果だろう。(1998. 7. 13)

121
(「エイ」28号のための感想文の下書き)
「エイ」が休刊することになったという。粒来哲蔵と粕谷栄市という日本現代詩の散文詩の名手二人を擁する実力ある同人誌がまたひとつ消えることになったのは残念である。わたしも一度だけ寄稿させてもらったことがあるが、そのときは詩作品を書くことができなかった。お二人のおメガネにかなう詩を書くことができたかどうか試すチャンスを逃したことは、いまから思えばはなはだ惜しいことをしたと思っている。
 粒来さんとはじつはまだ面識はないけれども、不思議な縁がいくつもある。
 ひとつ目はわたしがはじめて「現代詩手帖」の投稿欄に投稿したときに選者だった粒来さんが高く評価してくれたことである。そのときの作品が「大いなる帰還」というもので、その後わたしの第一詩集のタイトルポエムになった。いまそのときの「現代詩手帖」一九七八年八月号(ちょうど二〇年まえだ!)を引っぱり出してみると、「この旅の抒情と誠実さは気持ちがよい」などと評言を書いてもらっている。学生時代以来数年ぶりに書いた新作であり、自分としては自信作でもあったので、おおいに気を良くして遅ればせながら現代詩の世界に入ることができたといまでも感謝している。じつはそのまえに「ユリイカ」でも旧作を長谷川龍生に評価してもらったばかりでもあったからなおさらのことであった。
 ところで二つ目と三つ目の縁というのはもっと私的なものである。そのひとつは姉の娘がふたりとも粒来さんに教えてもらったことである。小学校の国語の先生をしていた粒来さんのところで姪がふたりとも教えてもらうことになり、姉の話からその「有名な先生」が粒来さんだとわかったときは驚いたものだった。さらにもっと不思議なもうひとつの縁というのは、粒来さんの作品を読んでいて気がついたことで、粒来さんの息子さん(だと思うが)のところへ粒来さんがある晩に酒に酔って帰って行く先が、どうも情景からしてわたしが以前住んでいたマンションの一室らしいことであった。ここには五年ほど仮住まいしていたのだが、ちょっと理由があっていまの自宅に近い世田谷区に移ったのであった。いまはどうなっているのか知らないが、広い東京のなかのほんの一画にすぎないスペースに相前後して粒来さんが行き来していたことを思うと、世間は狭いという世知もまんざらうそではないという気になる。
 そんなわけでいろいろ縁のある粒来さんから寄稿をもとめられたので、「エイ」の休刊とはなんの関係もないが、こんなときでもないと書く機会がないので、この場を利用して粒来さんとのかかわりを記録しておくことにした。(1998. 8. 2)

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思考のポイエーシス1998年5/6月分

115
「愛し合っている者には世界は狭い」。(『天井桟敷の人々』のギャランスのせりふ)(1998. 5. 3)

116
「亡命者は、移住者と異なる存在である。移住とは国境を越えることであるが、おそらく亡命は国境を越えることではない。国境の内と外との間に引き裂かれてあること。亡命とは、国境とともにあること、境界線上を生きることなのではないだろうか。」(浅見洋二「男の子がひとり、国境の河を越えて送信する、詩──北島の詩をめぐる断章」、財部鳥子・是永駿・浅見洋二訳編『現代中国詩集 チャイナ・ミスト──中国朦朧詩集』一二六ページ)
    ◆
「この世界にわたしはただ
紙と縄と影とをたずさえてやってきた
審判の前に
あの判決を下された声を読み上げるために

世界よ、きみに告ぐ
わたしは信──じ──ない!
たとえ戦いを挑んだ一千の者たちをお前の足下に踏みしだいていようと
わたしが一千一人目となろう」(北島「回答」)(1998. 6. 3)

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思考のポイエーシス1998年3月

111
「ユダヤ人の自己への同一性はおそらくありえない。ユダヤ人とはこの自己であることの不可能性の別名なのだろう。」(ジャック・デリダ「エドモン・ジャベスと書物の問い」、L'e+'criture et la diffe+'rence, p. 112)
    ◆
「ブランショの、文学に関する考察の特質は、作家が書くことを通して潜る体験と〈ユダヤ人〉の境涯との親近性を、現代の文学の〈歴史性〉として、あるいは書くことの〈現在〉として発見した点にあるということができるかもしれない。〔中略〕ブランショは、書くことを存在の確かな足場からの踏み外し、そして自己の権能の喪失の体験、受動的な彷徨の体験にしてしまう。」(西谷修「作家はいかにして〈ユダヤ人〉となるのか」『離脱と移動』所収)
 書くことのユダヤ性。どこにも足場も根拠もなく、ただひたすら書くために存在する存在。書物-内-存在としてのユダヤ人。(1998. 3. 3)

112
「ブレヒトの生涯は、ドイツの分断の歴史、今世紀のドイツの悲劇と誤りに結び付いている。しかし、同時に多くの夢と希望の歴史にもつながっている。ブレヒトは、ナチに追われて亡命し、戦後ドイツに戻って新しい、より良いドイツを建設しようと努力した多くのドイツ人の一人である。社会の矛盾に対し多くの疑問を呈したブレヒトを、我々は誇りに思って良い。」(ベルリンの芸術アカデミーでのブレヒト生誕100年記念式典におけるヘルツォーク大統領の挨拶。「未来」1998年3月号の永井潤子「ブレヒト生誕一〇〇年」より)(1998. 3. 12)

113
「真剣で批判的な討論というのはいつにあっても困難なものである。人格的な問題のような合理性を欠いた人間的要素がつねに入りこんでくる。合理的な、つまり批判的な討論の参加者の多くがとくに困難を感じるのは、本能が命じているように見えること、(中略)つまり勝利することを忘れねばならないということである。学ばねばならないことは、論争における勝利にはなんの価値もなく、他方、問題をほんのわずか明晰にすることですら──自分自身の立場や反対者の立場についてのより明晰な理解に向けてなされたほんの些細な貢献ですら──大きな成功だということである。」(カール・ポパー『フレームワークの神話』第2章「フレームワークの神話」)
    ◆
「人間の可謬性という教義を適切に使えば、絶対的真理もしくは少なくとも絶対的真理の規準、たとえば明晰、判明といったデカルト主義者の規準あるいはその他の直観的規準を手にしていると主張する類の哲学的絶対主義を論駁できる。しかし、絶対的真理に対してはまったく異なる態度、すなわち可謬主義的態度というものが存在するのである。それは、われわれの犯す誤りが絶対的な誤りでありうる、つまりわれわれの理論が絶対的に誤りでありうる、言い換えれば真理に届きえないという事実を強調するのである。したがって、可謬主義者にとって、真理という観念および真理に届かないという観念は絶対的規準を示していると言ってもよい。」──加藤典洋の『敗戦後論』の重要なモチーフである〈可謬性〉についての参照として。(1998. 3. 18)

114
「翻訳者たるものテクストに降伏しなければならぬ。彼女はテクストにお願いしてその言語の限界を見せてくれるよう努める。そうしたレトリックの側面こそが、言語が完全にほつれたさきの沈黙、テクストが特別なやり方でかわしているところの沈黙を指し示すからだ。(中略)翻訳者が親密な読者になる権利を自分で獲得しない限り、彼女はテクストに降伏することもできないし、テクストの特別な呼びかけにも答えられないのである。」(ガヤトリ・C・スピヴァック「翻訳の政治学」、「現代思想」1996年7月号)──翻訳者の使命にかんするスピヴァックの最初の論点=「原文のテクストの言語的レトリック性に没入すること」、第二の論点=「原文の状況のなかで識別力をもたなくてはならない」(同前)。(1998. 3. 26)

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思考のポイエーシス1998年2月

107
「もっと気弱くなれ! 偉いのはお前じゃないんだ! 学問なんて、そんなものは捨てちまえ!」(太宰治「十五年間」)(1998. 2. 1)

108
「文学は、誤りうる状態におかれた正しさのほうが、局外的な、安全な真理の状態におかれた、そういう正しさよりも、深いという。深いとは何か。それは、人の苦しさの深度に耐えるということである。文学は、誤りうることの中に無限を見る。誤りうるかぎり、そこには自由があり、無限があるのだ。」(加藤典洋「戦後後論」『敗戦後論』所収)(1998. 2. 7)

109
「自分でわかることがひとつあります。わたしはたぶん、わたし自身が死ぬ三分前でも笑うでしょう。」(ハンナ・アーレント『隠された伝統──パーリアとしてのユダヤ人』のなかのインタビューへの返答。ただしフランス語版にのみ収録か?)(1998. 2. 8)

110
「エクリチュールは、それと見えぬまに、自分ではどれほど不幸だと思っているにせよ、それを操るわたしたちがいごこちよく居座っている言説を破壊するべく詔命を受けているのである。書くとは、この観点からすれば、もっとも大きな暴力である、というのも、書くことは法を、いっさいの法とそれ自身の法を侵犯するからである。」(モーリス・ブランショ『終りなき対話』「ノート」)(1998. 2. 18)

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思考のポイエーシス1998年1月

100
「大切にしなければならないのは、ただ生きるということではなくて、よく生きるということなのだ」(プラトン『クリトン』48b)(1998. 1. 1)

101
「酒債は尋常 行く処に有り
人生七十 古来稀なり」(杜甫)──これが「古稀」の由来。
(大岡信「いのちの言葉──〈折々のうた〉五十選」『ぐびじん草』所収より)
    ◆
「留守と言え
ここには誰も居らぬと言え
五億年経ったら帰って来る」(高橋新吉「留守」)
    ◆
(大岡信論の草稿の一部として)
 貧しくとも恋する若い男女にとってことばがなによりも貴重な贈り物になることがある、ということを大岡信は「言葉の力」というエッセイで書いている。いかにありきたりな美しさをともなった風景であろうとも、もし青年が娘に「今日この風景を君にあげよう」とでも言ったとして、その娘がそのことばに感動を覚えるとしたらそれはその贈り物のささやかさにもかかわらず、いやむしろそれゆえに、その贈り物としてのことばが彼女にとってなにものにも交換しがたい価値を帯びたということにほかならない。ささやかなことばがそれを発した青年とそれを聞く娘との関係のなかで「豊かな音楽を奏でるかどうかが、大切な唯一のことである」と大岡は言うのであり、そうしたささやかなことばの集まりがときに驚くべき力を発揮することに「言葉の偉大な力」があると主張されるのである。
 ここでこのエッセイが発表されたのが一九七八年だということにひとまず注目しておきたい。というのは大岡信の代表的な詩集のひとつである『春 少女に』が刊行されたのが同じく一九七八年であり、このなかのとびきりの秀作である「丘のうなじ」の舞台背景が語られているように想像されるからである。このテクストが「深瀬サキに」という献辞をもつことからもわかるように、この作品はのちに妻となったある娘への若き日の想い出にささげられている。初期の代表作「春のために」のリメイクであることがおそらく確実なこの作品の冒頭と末尾に二度あらわれるつぎのルフラン──

  丘のうなじがまるで光つたやうではないか
  灌木の葉がいつせいにひるがへつたにすぎないのに

というあまりにも官能的なフレーズは、「春のために」の〈ぼくらの視野の中心に/しぶきをあげて廻転する金の太陽〉とともに、若い恋人同士のあいだにとりかわされたことばあるいはイメージの交換を鮮烈に記録している。もちろん実際にそういうことばのやりとりがあったわけではないだろうが、こうした言語の体得にもとづく「言葉の力」への信頼は大岡にとっては若いときからの確信ないしは必然と化していたはずである。そうした深く刻み込まれた言語の経験がなければ、若いころの体験の記憶をこれだけなまなましいエロティシズムでとらえなおすことはむずかしかったであろう。
 大岡の〈言葉の力〉への深い信頼は、「感受性そのもののてにをは」(傍点─原文)の自立を詩の来たるべきすがたとしてとらえ、そうした方法の延長線上にみずからの世代の進路を指ししめした「戦後詩概観」(一九六六~一九六七年執筆)に見られるとおり、感受性そのものの自己発現、〈肉声〉でうたうことの必要というかたちの主張となってあらわれた。「言葉の世界への一層深い潜入ということが詩の目的そのものでありうること」がそこですでに宣言されていたのである。「言葉の力」というエッセイはそのコンテキストで書かれており、その考えはいまに引き継がれている。その意味でも大岡の詩にたいする基本的な考えはつねにかわることのない金太郎飴的確信なのだと言ってよい。
 その意味ではその後の大岡のエッセイ作品の多くはそうした確信のたえざる再確認であり、再提出である。『折々のうた』に代表される倦むことのない啓蒙的な仕事は、そうした確信にもとづく古今東西のポエジーの無限の豊かさを相手どっての批評的フィルターの研磨であり、そこでの大岡はもはやポエジーの宗匠であるというよりも、自分の手技に頑固な職工のようにさえ見える。大岡信の詩作品がしばしば怒りの詩であったり、詩とはなにかをめぐっての詩による考察あるいは断言命題であるのは、こうしたエッセイにおける詩へのかかわりかたと別のものではないからである。「詩とはなにか」「怒つて書いた十八行」「小雪回想集」など本集に収められた作品だけでもいくつも例が挙げられるほどだ。しかしながらこうした傾向は、たとえば初期の「男 あるいは アメリカ」や「大佐とわたし」から最近の「故郷の水へのメッセージ」「火の遺言」などのように、社会や時代へむけての批判的視点の提起という大岡信の詩精神の一貫した特質とも言うべきものであって、これはあくまでも最近の際だった特徴であるというにすぎない。
 とはいえ、同じエッセイ「言葉の力」でも述べているように、この〈言葉の偉大な力〉はけっして平板なコミュニケーションのためのものではない。そこにはあるのはむしろことばのミスティフィケーション、言うなればどんなにことばを費やしても成立するとはかぎらない真の意味でのコミュニケーション、ことばをつうじてある瞬間に突如としてかいま見られる人と人とのまったく新しい関係こそが〈言葉の力〉なのであって、その固有性に大岡の眼差しははなによりも注がれているのである。このことは大岡信のことばへの理解がたんなる啓蒙家のそれではない、ひとりひとりの人間のかかえる底知れぬ暗部の所在にまでも分け入ろうとする強靱な関心によって支えられていることを示しているのである。(1998. 1. 2)
[のち、大幅に加筆訂正して「金太郎飴とことばの力」として『続続大岡信詩集』(1998年8月刊)の解説として収録。]

102
「秋深き隣は何をする人ぞ」(芭蕉)
 芭蕉の最晩年の作。大岡信によれば、辞世の句とされている「旅に病で夢は枯野をかけ_^廻【めぐ】^_る」よりもむしろこの句のほうが芭蕉の「軽み」の代表という意味で「辞世の思い」を表現しているとされている。(大岡信「芭蕉の『辞世』考」、『ぐびじん草』所収)(1998. 1. 4)

103
「私たちはみな年のいった子供たち
床につく時が近づくと むずかるのだ」(「鏡の国のアリス」『ルイス・キャロル詩集』高橋康也訳)
 山田宏一によれば、ルネ・クレマンの映画に出てくる幼児性にとらわれた人物たちにあてはまるそうだ。大人のなかの幼児性の持続。(山田宏一「ルネ・クレマンの世界」、「ユリイカ」1996年5月号)(1998. 1. 9)

104
「デカダンスはつねに精神的なるものの優位が確立されたところに生じるものだ。」(大岡信「水墨画私観」、『ぐびじん草』所収)(1998. 1. 10)

105
(「北海道新聞」の〈野沢啓が読む〉第4回の草稿)
 時代はいよいよ急速にひとつの時代の終焉へとカーブを描いているらしい。新しい年を迎えてもいっこうに回復の兆しを見せない日本経済はこのまま将棋倒しのように崩壊していくのかもしれない。もともと虚妄の上に成り立ってきた経済構造の脆弱さが露呈してきたと言うしかないのだが、そのことにいったいどれだけの政治家が気づいているのだろう。近代日本という国家は宗教も哲学ももたないできたために、いったん後退戦に入ってくると、かつての日本帝国軍隊のようにもう収拾がつかなくなるのである。このあたりで成長神話からそろそろ解放されたらどうか。
 現代詩の世界でも戦後五十年をすぎたあたりから若い世代を中心に、詩の新しい展望を切り開こうとする努力がわずかであるにせよ見られるようになってきた。すでにこの欄でもとりあげた野村喜和夫・城戸朱理の共同討議『討議戦後詩』をめぐって、北九州から出されている「九」という同人誌で北川透が執拗かつ容赦ない批判をくわえてきている。これは戦後詩史の解釈をめぐる新旧論争といった趣きを呈しているが、議論がまるでかみあっていないところにいまひとつ問題が普遍化しないうらみがある。詩における批評の問題として世代交代がなされるには、それなりの方法的な手続きが必要だが、そこに断絶があるとしたら時代のせいばかりとは言えないだろう。
 そんななかで詩歴の長い詩人たちの活動が目につく。辻井喬『南冥・旅の終り』(思潮社)は高見順賞を受けた『群青、わが黙示』(一九九二年)に対応するもので、注をふんだんに盛り込んだ本格的な長篇詩である。前作が詩による戦後史の叙事詩的構築であったとすれば、今回は同じ手法による詩による自伝と言っていい。〈私は死んだ男として傍らを通り過ぎる人だった/その後はずっと繁栄の演出に忙しく/ゲームに熱中してもいたのだ〉(「仰角砲の影」)とか〈いくつもの死 いくつもの別れ/日本の敗北 革命の挫折 近代知への幻滅/私はずいぶん鈍くいろいろな時代を通ってきたのだ〉(「旅へ」)といった自伝的要素が濃厚な記述であっても、辻井の経済人としての別の面を知っているわれわれはそこにどうしても戦後日本を代表する人間・堤清二を重ねあわせてみざるをえない。ここでは細部に踏み込む余裕はないが、この長篇詩に盛り込まれたさまざまな引用や情報の言及には、辻井喬=堤清二という人物をとおしてたんなる戦後詩史をこえた戦後日本の明暗を照らし出していて興味がつきないものがある。
 大橋政人は群馬在住の隠れた逸材であるが、このたび『新隠居論』(詩学社)という人を食ったテーマの詩集を刊行した。「子のない夫婦は/この世にお客に来ているようなもんだ」と言われている自分の立場を逆手にとって居直ったかのような「人生のお客」といった作品をはじめ、ニヒリスティックななかにもひょうひょうとした人生観、哀切な人間観察などがちりばめられていて、詩を読む喜びを満喫させてくれる。得がたい詩人である。
 平田俊子という詩人もまったくなみはずれた人間観察力を具えた詩人である。『ターミナル』(思潮社)は、前作の『(お)もり夫婦』にくらべると主題の統一感では一歩ゆするが、それでも人間関係の襞に食い込むような悪意に的確なことばを与えてひとつの架空譚を構成する力量はすごい。ありえないような話の設定のなかでこそこの詩人の想像力は一段と加速し破壊的になるようだ。一読をすすめたい。(1998. 1. 11)

106
「わたしは文学というのは、ある限定の中におかれながら、そこから無限を見るあり方だと思っている。無限に接するのにあらかじめ人は当初の限定を脱する必要がある、という他者の思想と、これはまっこうから対立する。〔中略〕人がどのような誤りの中におかれようと、そこからそこにいることを足場に、ある真にたどりつくことができないのなら、いったい、考えることに、どんな意味があるだろう」(加藤典洋「戦後後論」『敗戦後論』所収)
    ◆
「私はB29の夜間の編隊空襲が好きだった。昼の空襲は高度が高くて良く見えないし、光も色もないので厭だった。羽田飛行場がやられたとき、黒い五六機の小型機が一機ずつゆらりと翼をひるがえして真逆様に直線をひいて降りてきた。戦争はほんとに美しい。私達はその美しさを予期することができず、戦慄の中で垣間見ることしかできないので、気付いたときには過ぎている。思わせぶりもなく、みれんげもなく、そして、戦争は豪奢であった。(坂口安吾「続戦争と一人の女」)
    ◆
(「交野が原」での『恋愛の解剖学』書評の草稿)
 本書のもとになった文章の多くは、ここ数年のあいだに〈エロスの行方〉と題してあちこちの同人誌等に不連続で書かれたエッセイがもとになっている。そしてわたしの記憶に間違いがなければ、これらのエッセイはある心的転機をはさんで、それまでのわりあい文学少女的な作品論から恋する大人の女の成熟した思想論へとおおきく飛躍しているはずである。そこにはこれまでの寺田操の書くものにはけっして見られなかった哲学的・思想的なレフェランスが介在しており、ひとつのテクストとの大いなる影響ないし相互性のもとにあることを見せているのである。
 その証拠を挙げることはわたしには容易だが、そのことを指摘することにはまったく興味がない。ただ言っておけば、本書でのハイデガー、レヴィナス、プラトン、マラルメなどからの引用と言及が、一九九四年に「現代詩手帖」の連載時評として書かれたわたしの『移動論』というテクストとの相互テクスト性の符牒として出現していることはわたしには明らかなのである。おそらく本書を構成する文章のいくつかはそれ以前に書かれたものであるからそうした特性は見られないが、それ以外の文章にはあからさまに恋する女のメッセージが執拗に発せられている。そのキーワードは〈テクスト〉であり、〈コミュニケーション〉であり、〈移動〉と〈漂流〉であり、〈他者〉であり、〈固有の秘密〉であり、〈ことばの深度と密度〉である。そこにポール・ボウルズやマルグリット・デュラス、スコット・フィッツジェラルドやアンドレ・ブルトン、そして河野多恵子や、森瑤子、折口信夫といった寺田の偏愛する作家たちの作品が点綴されるのである。
 ひとつの典型的なパッセージを引いておこう。

<引用>こころの触れ合いや出会いといったコミュニケーションを超えることばの密度と深度は、固有の秘密(明かしえぬ)を欲望する。/この、固有の秘密を共生=共作することは、しかし、危険な行為である。また禁止事項だからこそ、この世ではありえないような危ういエロスを美しく織りあげるのだ。あえてその禁止事項に踏みこむならば、「命がけの飛躍」(マルクス)をする覚悟が相互になければ悲惨な結果をむかえる。(中略)ふたつの魂をひとつに織り合わせることは至上の喜びである。だが、維持させていく、更新させていくことなどおそらく稀有なのだ。(「愛の病い」、本書二〇一ページ)</引用>

 ここに示されている思想こそ、寺田操がみずからの体験とひきかえにつかみとった魂の心底からの震え、魂の叫びなのだ。そこには固有のメッセージがひそんでおり、もちろん文学作品の解読と批評というモチーフをひきずっているとはいえ、むしろそうした初発のモチーフを超えたところに〈エロスの行方〉を追尋しようとするもうひとつ深いモチーフがあるはずだ。本書がたんなる文学作品論ではなく、ひとりの女としての生き方の探究にもなっているところに彼女の生と性の深淵がのぞいていると言ってよい。
 読者がこの本に異様な迫力を感じるとしたら、こうした文学への接近の方法がみずからの体験にもとづいた言語行為論的なアプローチにひとつの批評の究極のありかたを感知するからではなかろうか。たとえそこにロマンチックな傾向に流れる甘さが散見されるにせよ、ひとがひとつのモチーフにとことん身をゆだねて言語行為をおこなうということはこれほどにも自身の肉体を露出させるものなのだろうか。ここにはほとんど寺田操という女の体臭にまで化した思考のポイエーシスがあふれているのである。

<引用>どのような無残な生活のなかでも、女は、愛するひととの暮らしのなかでは、ささやかな希望を抱いて生きていくことが可能な存在である。(「別れの美学」、本書一〇六ページ)</引用>

 これは森瑤子論の一節であるが、ほんとうだろうかと思うところがある。ふつうこういうことは男の批評家は絶対に書かないし、書けない。しかしこうした言説が事実であるかどうかというよりも、女の批評としてそういう言説が突き出されるという事実こそが重大なことなのである。言説は言説として残される。メッセージは届くところには確実に届くのだ。たとえそれが、スコット・フィッツジェラルドにおける妻ゼルダのように、あるいはアンドレ・ブルトンにおけるナジャのように、文学テクストのための素材に行き着くしかなかったとしても、そこに固有の言説を発したことは記録される。

<引用>ゼルダがスコットにあてた手紙や日記は、ゼルダという固有のテクストである。スコットは、このテクストを批評ではなく小説として解読することでゼルダを表現した。しかしこのテクストがもたらす悲劇は、テクストが生身のゼルダから離れていったことにあり、スコットの小説のなかでしか生きる場所を与えられなかったことによる。(「ふたりのフィッツジェラルド」、本書八六ページ)</引用>

 このようにフィッツジェラルド論に書くとき、寺田はみずからの生と性の深淵をどう乗り越えようとしたのか。ゼルダであり、ナジャでもあり、しかしまたそれらを超越する地点でこうした批評文を書くことによってみずからがゼルダでもナジャでもないことを証明してみせたのが本書であるとすれば、彼女はいったいどこへ行こうとしているのか。移動はそこからまた始まろうとしている。(1998. 1. 31)

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